今公演も各部ごとの上演時間を2時間25分~2時間55分とする3部制です。第1部が景事と世話物、第2部は時代物、第3部が時代物と世話物ですので、劇場に何回も来ることができない方は、第1部だけを観る日と、第2部・第3部を続けて鑑賞する日、というように分けられるのが生理的には合うと思います。

解説

 幕末に素浄瑠璃として作曲され、明治に入って人形入りで上演されるようになったと考えられる作品で、この劇場では『寿式三番叟』『寿柱立万歳』『花競四季寿』とともに初春を言祝ぐ演目となっています。開場からの40年で9回目の上演ですので4年半に1度という頻度、今回は4年ぶりの上演になります。
  七福神信仰は室町時代末期に始まるとされていますが、日本土着の神様である恵比寿、バラモン教・ヒンドゥー教の神が仏教の守護神としてとりいれられた大黒天・弁財天・毘沙門天、中国唐代の禅僧布袋和尚、道教の神である福禄寿・寿老人をいっしょに信仰するとはいかにも日本的です。正月に枕の下に七福神の乗った宝船の絵を入れておくと良い初夢が見られるといいますが、文楽は公演期間中の毎日、観客に理想的な初夢を見せてくれるわけです。

 聴きどころ・見どころ
  宝船の上でも新年を迎え、七福神が大宴会の最中です。やがて1人ずつ芸を披露することになり、寿老人(三輪太夫に玉助師)は三味線で琴の音をさせ、布袋(小住・文哉)は「腹鼓」と芸尽くしが続きます。その他大黒天が津國・簑一郎、弁財天が咲寿・紋臣、福禄寿が碩・紋秀、恵比寿が聖・玉翔、毘沙門が薫・簑太郎。三味線は勝平以下6挺。

 
 解説
  当劇場7回目の上演で平均的頻度。4年9か月ぶりの登場。「四条河原」をつけて上演されるのが通例で、つかなかったのは1回だけです。  天明2(1782)年春、2世豊竹八重太夫の江戸下り「御目見得出語り」の演目として外記座で初演された作者不詳、3巻からなる世話物、と諸書に述べられていますが、これでは説明が不十分だと思います。

 2世八重太夫は明和2(1765)年3月、師・2世豊竹此太夫の初名を2代目として名乗り、『しきしま操軍記』の2段目切の口と5段目で本格デビューしましたが、次の『内助手柄淵』で豊竹座が道頓堀から退転したため、此太夫を頼って江戸・肥前座に下向。翌3年師とともに大坂に戻り、豊竹此母座に参加しました。明和6(1769)~7(1770)年にまた肥前座に出勤。7年12月帰坂して師匠が主宰する豊竹若大夫座に参加。安永4(1775)年9月に豊竹此吉座の2段目切語りに昇進しましたので、同9(1780)年春の3度目の江戸下り(今度は外記座)の際には本来の役場のほかに『けいせい恋飛脚』の「新口村」で御目見得出語りをしました。4度目になる天明2年の江戸下りの御目見得出語り『近江源氏先陣館』9段目が好評だったので、第2弾として選ばれたのが6年以前の安永5(1776)年4月北堀江市ノ側芝居で大当たりをとった役場、『三国無双奴請状』の4段目口「猿廻し」でした。

  天明2年の秋まで外記座に出勤した後上方に上った八重太夫は、同3年正月から座摩社・豊竹此吉座(北堀江市ノ側芝居は普請中)で「江戸土産」として「猿廻し」を語りました。頼桃三郎氏によれば、『近頃河原の達引』の本文は「堀川猿廻し」以外の段はほとんどを菅専助の『紙子仕立両面鑑』(明和5(1768)年12月北堀江市ノ側芝居初演)、一部を近松半二・竹本三郎兵衛合作『京羽二重娘気質』(宝暦14〈1764〉年4月京・竹本座初演)から「大たいの構造のみならず詞章までも借用」しているということです(岩波文庫『近頃河原達引・桂川連理柵』解説)。座摩社・豊竹此吉座のこのあとの二の替り・三の替りでは『紙子仕立両面鑑』の上之巻・中之巻が併演されています。頼氏は慎重に断定を避けておられますが、3月15日からの四の替りの併演演目が時代物『義仲勲功記』だけになっていることからみて、休筆中の菅専助の了承を得た(近松半二はこの年2月4日没)座の関係者が「寄木細工式につくりあげ」(頼氏)、外題をつけたものでしょう。したがって、世話浄瑠璃『近頃河原の達引』の初演は「天明3(1783)年3月、座摩社・豊竹此吉座」としてよいと思います。

 元禄16(1703)年京都三本木の河原で心中したお俊・庄兵衛の情話は、享保3(1718)年の京・大和山甚左衛門座の『おしゆん伝兵衛十七年忌』(実際には事件後満15年)で初めて劇化されたのですが、猿廻しの趣向を加えて「出世奴物」(豊臣秀吉の出世を題材とする作品群)の『奴請状』に組み込まれていたのです。祇園の遊女おしゅんと掛屋商井筒屋伝兵衛はかねてからの恋仲。おしゅんに横恋慕している伊勢亀山藩の勘定役横淵官左衛門は、藩邸出入りの商人である伝兵衛から300両を騙し取って身請けしようとしますが、うまくいきません。


 聴きどころ・見どころ
 「四条河原」官左衛門(靖太夫に文昇師)は将軍家が所望している飛鳥川の茶入を着服していることを伝兵衛に気取られたことを知り、おしゅんへの思いの叶わぬ意趣ばらしもあって、伝兵衛(睦太夫に玉佳師)を四条河原に呼び出し、亡きものにしようと企てます。伝兵衛は茶入を取り戻すために甘んじて打擲を受けていましたが、その茶入が眼前で打ち割られるに及んでついに堪忍袋の緒が切れ、官左衛門を殺してしまいます。切腹を覚悟したとき、廻しの久八(南都太夫に前半紋吉・後半玉誉のダブルキャスト)が駆けつけて茶入が贋物だったことがわかり、後事を託して落ち延びてゆきます。立ち回りの際に歌われるのは上方歌「愚痴」の一部です。詞章(全文)は「愚痴じゃなけれどコレマア聞かしゃんせ 偶に逢う夜の楽しみは 逢うて嬉しさ別れの辛さ エエ何の烏が意地悪な お前の袖と私が袖 合わせて唄の四つの袖 路地の細道駒下駄の 胸驚かす明けの鐘」と色っぽいものなのですが、不思議に殺し場などに合うのです。三味線は團七師。

  「切」の「堀川猿廻し」は2人の切語り太夫が担当します。前半の床は錣・東蔵両師。京・堀川あたりのみすぼらしい家。猿廻しをたつきの道に、目の不自由な老母を世話する与次郎。箏三味線を教えて暮らしのわずかなたしにする老母。おしゅん(簑二郎師)は情人伝兵衛が殺人事件を起こしたため、この実家に戻されてきています。老母(勘壽師)がおつる(和馬)に地歌「鳥辺山」の稽古をつけるところ(三味線のツレは清方)、帰宅した与次郎(勘十郎師)のせわしない動きが序盤の聴きどころ・見どころになっています。母子はおしゅんに無理矢理「退(の)き状」を書かせ、安心して床に就きます。

  「後」の担当は呂・清介両師。深夜、伝兵衛が忍んできます。与次郎がおしゅんと伝兵衛を取り違えてお客を笑わせた後、おしゅんの退き状実は書置きの披露・伝兵衛の述懐に続いて、眼目のおしゅんのクドキ(「そりゃ聞こえませぬ伝兵衛様……」)となります。その真情に打たれた母は「逃げられるだけは逃げてくれ」とおしゅんを伝兵衛に託すのでした。与次郎が2人の門出に有田歌を歌って猿を舞わせる段切れの三味線のツレは清公。




 解説

 これは当劇場8回目で5年に1回の人気曲。前回から5年ぶりの登場です。  万治3(1660)年陸奥仙台藩主伊達綱宗(政宗の嫡孫)が幕府から隠居を命じられ、その子亀千代が2歳で家督を継ぎ、後見人伊達兵部少輔宗勝(政宗の末子)と国老原田甲斐宗輔が藩政の実権を握りました。10年が経過、一門の伊達安芸宗重らが伊達兵部・原田甲斐の暴政を幕府に訴えたため、老中板倉重矩が数回取り調べた後の寛文11(1671)年3月、大老酒井忠清(忠清の養女が兵部の子宗興の妻になっていた)の屋敷で双方の対決を行なったところ、原田甲斐が乱心して伊達安芸を斬殺、自らもその場で討ち果たされる、という事件が突発しました。幕府の裁決の結果、藩主伊達総次郎綱基(亀千代が寛文9年11歳のとき元服。のち延宝5年19歳のとき綱村と改名)は若年(当時13歳)のため責任なしとして62万石の本領を安堵、伊達宗勝は流罪、原田甲斐の一族はすべて死罪となりました。
 
  このいわゆる「伊達騒動」の最初の劇化は延享3(1746)年江戸で上演された『大鳥毛五十四郡』です。その後安永6(1777)年4月大坂道頓堀中の芝居・嵐七三郎座で奈河亀輔作『伽羅先代萩』、翌安永7(1778)年閏7月江戸・中村座で初世桜田治助作『伊達競阿国戯場』がそれぞれ初演され、前者は同年9月京・竹本春太夫座で、後者は安永8(1779)年3月達田弁二・吉田鬼眼・烏亭焉馬合作で浄瑠璃化(肥前座)。正本が現存している浄瑠璃『伽羅先代萩』は以上の諸作をもとに松貫四・高橋武兵衛・吉田角丸が合作した全9段の時代物で、天明5(1785)年1月江戸・結城座で初演……と通常説明されるのですが、『伽羅先代萩』の最初の浄曲化が歌舞伎での初演から1年半近くたった安永7年9月京都、というのは少々遅いように思います。

  安永6年度の大坂・嵐七三郎座の立作者・奈河亀輔は前年12月の二の替り『伊賀越乗掛合羽』で大当たりをとり、この狂言は早くも安永6年3月に北堀江市ノ側芝居・豊竹此吉座で浄瑠璃化されています。三の替りに出した『先代萩』はこれに続くヒットなのですから、早ければ同年5月、遅くとも9月ごろまでには大坂のどこかの操り芝居に出ていておかしくありません。豊竹此吉座のほうは『乗掛合羽』以後5月・8月・12月といずれも別の浄瑠璃を出していますから、そのライバルで竹本春太夫が紋下を勤めていた竹田万治郎座だったのではないでしょうか?春太夫は同年の冬に江戸に下り、翌安永7年の前半は外記座で豊竹春太夫として活動しますが、そのお目見えの口上で「一世一代」と言い、9月の京都での出演を一世一代として引退しています。とすれば、東下り直前の興行が大坂での一世一代でしょう。それが安永6年の8月ごろで『伽羅先代萩』だったとしたら平仄(ひょうそく)が合うように思います。そして、春太夫は江戸でも『先代萩』を上演し、これが刺激になって歌舞伎『伊達競阿国戯場』ができたのではないでしょうか? 現存の浄瑠璃正本『伽羅先代萩』は前述の通り天明5年1月に江戸で版行されたもので、奥付には当時の江戸作者の名前が出ています。しかし、もし初演が安永6年の夏から秋にかけての竹田万治郎座だったら、作者は八民平七・苣源七・竹田新四郎といったところでしょう。以上、後考を待ちたいと思います。

  『先代萩』は世界を「吾妻鏡」に、『阿国戯場』は「東山」にとっているために両者の役名は全く異なります。現在の歌舞伎で『通し狂言 伽羅先代萩』として上演されるものは歌舞伎『伊達競阿国戯場』と浄瑠璃『伽羅先代萩』から「いいとこどり」をしたうえで『阿国戯場』の役名を使用していますが、文楽は当然浄瑠璃『伽羅先代萩』通りで鎌倉時代初期の設定になっています。

  陸奥出羽54郡の主・冠者太郎義綱(藤原秀衡の嫡孫)の京家老(源頼朝の政庁は京都にあることになっています)貝田勘解由は義綱の伯父錦戸刑部と語らい、侍所別当梶原景時の後ろ盾を得て主家横領を企んでいるが、さらに父平国香を秀衡に殺され(史実では国香を殺したのは同族平将門)、妖術使いとなって義綱への復讐を狙う常陸之助国雄と手を結ぶ。勘解由・刑部一派は義綱を隠居に追い込み、後を継いだ鶴喜代を亡き者にせんとする。この陰謀を京都に訴えた伊達明衡は決断所での対決中に勘解由に斬られるが、勘解由・国雄も討ち果たされ、畠山重忠の明断でお家は安泰、刑部は遠流、というのが主筋で、中心場面は3段目「神明町貝田屋敷」・4段目「南禅寺豆腐屋」・6段目「義綱館」・8段目「衣川定倉屋敷」ですが、今日では6段目だけが上演されています。6段目は義綱が隠居して幼い鶴喜代君が当主となった館(現存正本には「鎌倉」と明記してありますが、ここは京の神明町でないと理屈に合わないように思います)が舞台。幼君に迫る魔の手を、必死で振り払おうとする乳人・政岡(伊達明衡の妹)の姿と息子千松の犠牲死・政岡の悲嘆が描かれるところで全編のクライマックス・シーン。

聴きどころ・見どころ

  「竹の間」は政岡(和生師)を罪に陥れて幼君から遠ざけようとする八汐(玉志師)の悪計、政岡に全面的な信頼を寄せる鶴喜代君(玉彦)、論理をもって政岡の窮地を救う沖の井(勘彌師)など各役が活躍、入り組んだ筋を語るのは芳穂太夫に錦糸師。

 切場の前半である「御殿」は千歳・富助両師の担当。毒殺を避けるために運び込まれるいっさいの食物を拒み、政岡自らが千松を含め3人分の食事を調えています。何かと繁多で最近は1日1度しか食べられないため、鶴喜代君も千松(勘次郎)も常に空腹。今日はとくに「竹の間」の騒動があったので食事が遅くなり、子どもたちは「極限状態」になっています。意地を張る(「お腹がすゐてもひもじうはない」)ものの到底辛抱できたものではありません。茶道具を使いお茶のお点前の作法での「飯炊き」。飯が炊き上がるまでの間をもたせるため、政岡は心を鬼にして千松に「雀の歌」(こちの裏のちさの木に雀が三疋留って……)を歌うことを命じます。涙する母子に鶴喜代君の仁心あることば。子どもたちが握り飯を口にすると観客もほっとします。

 切場後半「政岡忠義」の床は呂勢・清治両師。刑部・勘解由方に加担する梶原景時の妻・栄御前(簑二郎師)が源頼朝よりの上使として来訪、頼朝が差し越したと称する菓子を鶴喜代に勧めます。無理やり食べさせられそうになったとき、かねて言い含められていた千松がこれを食し、たちまち苦しみ始めます。八汐は毒殺を隠すため千松ののどを懐剣で刺し、なぶり殺しにしてしまいます。全く顔色を変えない政岡を見て、わが子と若君を赤子のときからすりかえていたのだと思い込んだ栄御前は、自分たちの陰謀を打ち明けて帰館します。その後が眼目の場面で、1人きりになった政岡のわが子の死骸を抱きしめてのクドキとなります。

  鶴見誠氏は日本古典文學体系52『浄瑠璃集 下』で、本文の「流石女の愚に返り」に「当時女は愚なものということになっていた」と註をつけておられます。しかし、私はここはもう少し親切な説明が必要だと思います。本文はこうなっています。「こりかたまりし鉄石心。流石女の愚に返り人めなければ伏まろび死骸にひつしと。抱付前後。不覚に歎きしはことわり。過て道理なり」すなわち、政岡が「女の愚に返」ってしたこととは、「伏しまろび、(息子の)死骸にひしと抱きつき、前後不覚に歎く」という、母親としての感情を素直に行動に表すことなのでした。

  公的な立場に立った人間は、多かれ少なかれ自分の感情を押し殺さなければならなくなります。「若殿の乳人」という公職にある政岡も「人目」のある間は「鉄石心」を崩すことができず、「人目」を離れて初めて「女の愚に返」ったのですが、職務に忠実な男性はみな、こういった覚悟をもたねばなりませんでした。「女は愚なもの」とは、公職に就くことの少なかった時代の女性がより自由に感情を表すことができることへの、男性側の羨望を示す表現なのです。

 「床下」は文楽での上演は少なく、当劇場40年間でもこれが5回目、およそ11年ぶりの上演になります。前段で栄御前は、政岡がわが子を若君とすり替えた悪人と見て、仲間に引き入れようと一味徒党の連判状を渡していました。前段の終わりで1匹のネズミがこの連判状を奪い去りましたが、巨大化して床下に現れました。警護の忠臣・松ヶ枝節之助(前半簑紫郎・後半玉勢のダブルキャスト)は立ち回り(人形の節之助と鼠の着ぐるみに入った人間――誰でしょう?――との立ち回りです)の末大ネズミを踏まえ、額に鉄扇の一撃を与えますが、逃げられます。大ネズミは妖術で変身していた貝田勘解由(こちらは前半が玉勢・後半が簑紫郎)でした。節之助から受けた額の向う傷も新しい勘解由は悠々と飛び去っていきます。「宙吊り」になると思います。床は太夫が前半小住・後半亘で、三味線は團吾。

 解説
 開場以来7回目の上演で平均的頻度。今回も6年ぶりの登場です。
 享保4(1719)年8月竹本座初演、『平家物語』に題材を取り、発端をいわゆる「南都焼き打ち」直後とし、全盛を極める平清盛の暴虐と悶(もん)死(し)を主軸に、常盤御前・牛若丸・俊寛などの話を織り込んだ全5段の時代物。この年近松は時代物に集中していたようで、前後の作品は2月の『本朝三国志』と11月の『傾城島原蛙合戦』です。ライバルである豊竹座の紀海音も正月に『義経新高館』、5月に『神功皇后三韓責』、8月に『頼光新跡目論』、10月に『業平昔物語』をぶつけています。

 本作の主要場面は初段切「六波羅」(俊寛の妻あづまやの自害と召使有王丸の活躍)、2段目切「鬼界ヶ島」、3段目切「朱雀御所」(平宗清が常盤御前の源氏再興の人材を集めるという企てを暴き、常盤一行を逃がして自害。いわゆる「吉田御殿」の巷説を当て込んでいます。本文に「朱雀の御所は女護の島」とあるのがこの作品の外題につながっています。「女護島」は女人だけが住むという想像上の島で、転じて大奥や遊里など女性ばかりがいるところのことをいいます)、4段目切「六波羅」(千鳥とあづまやの怨霊が清盛をとり殺す)ですが、その後大坂での本格的再演はなく、安永元(1772)年以後ほぼ「鬼界ヶ島」だけが見取り興行で繰り返されることになり、この場面のみ原曲が残りました。一般には翻案作品『姫小松子日の遊』(宝暦7-1757年初演)とその増補作品『立春姫小松』(安永9-1780年初演)がよく上演されました。

 南都焼き打ち(史実では治承4-1180年12月のことなのですが、本作では近松は治承2-1178年のことにしているようです)から凱旋してきた平重衡が父清盛に「鬼界ヶ島の流人・俊寛僧都の妻・あづまやが南都に隠れ住んでいて、某の陣に斬り込もうとしていたのでからめ取りました」と差し出すと、その美貌に見とれた清盛は「自分の思い者になれ」と言いよります。これを潔しとしないあづまやは清盛の甥・能登守教経の示唆に従い、自害して果てます。

 さて、清盛の娘で懐妊中の高倉天皇の中宮・徳子(のちの建礼門院)の産み月にあたり、様々の神社仏閣に平(へい)産(ざん)祈願が行われていますが、教経は石清水八幡宮に代参の途次、鳥羽の作り道で鬼界ヶ島の流人の召還に向かう丹左衛門尉・瀬尾太郎の2人に出会い、伯父清盛が3人の流人のうち俊寛だけを島に残そうとしていることを知ります。教経は病中の従兄・重盛の指示に従い、「俊寛を備前の辺りまで召喚する」との赦し文を書き与え、関所の通り切手の人数の「2人」を「3人」と書き換えます。清盛にべったりの瀬尾は反対しますが、重盛や後白河法皇に近い丹左衛門は同意します。その効果が現れたのか「中宮が男児(のちの安徳天皇)を平産した」という知らせが入りましたので、丹左衛門は教経の赦し文の実行を強く心に期します。

 聴きどころ・見どころ

 平家打倒の計画が露見し、俊寛僧都・丹波少将成経・平判官康頼の3人が鬼界ヶ島に流されて3年(実際には成経・康頼は1年も経たぬうちに赦免されています)、硫黄が流れ、草木も少なく、やっと生きていくことができるだけという孤島で、3人はただただ都を思う毎日でした。そのような中で唯一の明るい話題は、若い成経が千鳥という蜑(あま)の娘と恋をして契りを結んだということでした。久しぶりに康頼(前半文哉・後半紋秀)とともに俊寛(玉男師)のもとを訪れた成経(勘市)は千鳥(一輔師)を紹介し、水を酒の代わりにして皆で祝います。思えば俊寛にもあづまやという恋しい妻が都にいるのです。

 そこへ近づいてくる大船。瀬尾太郎(玉助師)と丹左衛門(玉也師)が降り立ち、「清盛の娘・中宮徳子の平産を願って大赦が行われた」と告げます。都へ帰れると3人は大喜びしますが、瀬尾が読み上げた赦免状には俊寛の名前がありません。あまりに残酷な仕打ちに泣き叫ぶ俊寛ですが、「重盛公の恩情を痛感させるためにわざと黙っていた」と丹左衛門が「俊寛を備前まで連れ帰れ」というもう1通の赦し文を読み上げます。皆で喜び、船に乗り込もうとすると、瀬尾が千鳥をさえぎります。「関所の通行切手に3人とあるので乗せられぬ」というのです。「成経の妻だから」と願っても聞き入れてくれないので、「それなら皆で島に残る」と座り込みますが、無理やり船に押し込められてしまいます。

 ひとり浜に取り残され、泣き伏す千鳥に俊寛は「自分の代わりに船に乗れ」と言い、「先ほどの話では妻のあづまやは清盛の意に背いて殺されたとのこと(実際には自害したのですが、瀬尾は俊寛を苦しめるためにわざとそう言ったのです)。妻のいない都に戻っても何の喜びもない。代わりに千鳥を乗せてやってほしい」と瀬尾に嘆願しますが、瀬尾はそれも許しません。ついに意を決した俊寛は瀬尾に斬りつけ、死闘の末とどめを刺します。そして「いったん許された自分だが、使者を殺した罪により島に残るから、代わりに千鳥を乗船させてくれ」と丹左衛門に頼むのでした。

 自ら選んで島に残った俊寛でしたが、皆を乗せた船が島を離れてゆくと、岩によじ登り、遠ざかる船に呼びかけ、いつまでも立ちつくすのでした。床は織太夫・燕三両師。

5.『伊達娘恋緋鹿子』
 解説
  安永2(1773)年4月北堀江市の側芝居・豊竹此吉座で初演された菅専助・松田和吉・2世若竹笛躬合作、全8巻の世話物です。
 天和3(1683)年3月29日、江戸本郷追分の八百屋太郎兵衛の娘お七(数え16歳)が放火の罪で火刑に処せられました。前年12月28日に発生した大火(天和の大火)の際、一家で檀那寺(諸説あり。白山の円乗寺か?)に避難したところ、寺小姓生田庄之助と恋仲になり、家に戻ってから吉祥寺門前に住むならず者吉三郎にそそのかされ、火事があれば庄之助と会えると思い込み、3月2日の夜、自宅に放火したところを見つかり、捕縛されたというものです。

  この話は貞享3(1686)年に刊行された井原西鶴の『好色五人女』の巻4で「恋草からげし八百屋物語」として取り上げられ、元禄期(1688~1704)には歌祭文にうたわれて有名になり、元禄17(1704)年2月紀海音が『八百屋お七歌祭文』として豊竹座で浄瑠璃化(『外題年鑑』に記述されているだけで正本等は発見されていません)、宝永3(1706)年正月には大坂・嵐三右衛門座が『お七歌祭文』を上演し、浄瑠璃・歌舞伎に「お七吉三物」の系譜ができることになりました。浄瑠璃では延享元(1744)年4月豊竹座初演の為永太郎兵衛他による『潤色江戸紫』が決定版で、全5段の堂々たる時代物になっています。本作『恋緋鹿子』は2か月前から続演中の短い時代物『摂州合邦辻』の前浄瑠璃として新作された比較的長い世話物ですが、上記『江戸紫』から適宜取捨して再構成したものと思われます。今日通常上演されるのは6巻目末尾の「お七火の見櫓」で、当劇場7回目で平均的頻度。前回から8年9か月ぶりの登場です。「八百屋内」となると当劇場3回目、前回から実に約13年ぶりの登場です。
 聴きどころ・見どころ

 「八百屋内」八百屋の店先に吉祥院の小姓吉三郎(清五郎)がたたずみます。吉三郎の故主左門之助が殿から預かりの天国(あまくに)の剣が発見されないが故に切腹したため、吉三郎も殉死することとなり、深く契ったこの家の娘お七(勘彌師)に別れを告げに来たのです。下女お杉(紋吉)が縁の下に忍ばせてやります。八百屋の主久兵衛(玉輝師)は、去年の大火に家を焼かれ、復興のため萬屋武兵衛(玉延)に借りた金の返済もままならず、金の代りに娘を所望する武兵衛のところへ嫁入ってくれと頼みますが、お七には返答のしようもありません。縁の下で一部始終を聞いた吉三郎は心を残しながら立ち去ります。吉三郎の書置きを読んだお七。折から丁稚弥作(前半勘介・後半玉路)が「先ほど太左衛門(簑悠)が持ってきて武兵衛に渡したのが天国の剣だ」と教えますので、お七は吉三郎を死なせぬため、剣を盗み出すことを決意します。今や稀曲となったこの段の演奏は藤太夫・宗助両師が担当されます。

 「お七火の見櫓」九つの鐘を合図に江戸の町々の木戸が閉まり、通行が禁じられます。たとえ剣が手に入っても吉三郎へは届けられません。火の見櫓の半鐘を打てば木戸は開かれるでしょう。吉三郎を救いたい一心のお七には、火事でもないのに半鐘を打てば放火犯と同様に火焙りの刑に処せられることなどどうでもよいことでした。この後がクライマックスで、人形遣いが完全に隠れるため、人形のお七だけが櫓を登っていくように見えます。お七は雪が凍りついた梯子を滑りながらも登りきって半鐘を打ち、お杉と弥作は武兵衛からまんまと剣を奪い取ります。床は希太夫・清友師以下5挺5枚の掛け合いです。

  (F.T.)
 

 
 過去のぷち解説
このホームページは文楽応援団が運営しています。当ホームページの資料、情報の無断転載は禁止です。
当サイトに関するメッセージは、こちらまでご連絡ください。
ぷち解説
inserted by FC2 system