日本芸術文化振興会としては、なお「興行は短時間に」という規制を守らなければならないようで、今公演も各部ごとの上演時間を2時間40分~2時間55分とする3部制です。第1部が世話物と景事、第2部が時代物、第3部が世話物ですので、劇場に何回も来ることができない方は、第1部だけを観る日と、第2部・第3部を続けて鑑賞する日、というように分けるのが生理的には合うと思います。


1.『双蝶々曲輪日記』
解説

 

 寛延2(1749)年7月大坂・竹本座で初演された全9段の長編世話物で、「関取濡髪・名取放駒」という角書がついています。作者は2世竹田出雲・並木千柳・三好松洛の3人。まる4年あまりの活動で大坂に「操り段々流行して歌舞妓は無が如し」(『浄瑠璃譜』)という状況を現出させたこのいわゆる「ゴールデン・トリオ」の作品は『夏祭浪花鑑』(延享2-1745年7月)『楠昔噺』(延享3-1746年1月)『菅原伝授手習鑑』(同年8月)『傾城枕軍談』(延享4-1747年8月)『義経千本桜』(同年11)『仮名手本忠臣蔵』(寛延元-1748年8月)『粟島譜嫁入雛形(あわしまけいずよめいりひながた)』(寛延2-1749年4月)『双蝶々曲輪日記』の計8編。「3大名作」を含む時代物6作を長編世話物2作が挟んでいる格好です。

5段組織

通称

語り

第1

大序

新清水浮瀬

うかむせのゐつゞけにあいづのふへうり

第2

初段切

堀江相撲場

すまふのはなあふきにゐけんのおやほね

第3

2段目口

新町井筒屋

あげや町のいきづくに小ゆびのみがはり

第4

2段目切

大宝寺町米屋

大ほうじ町のたてにきやうだいのちなみ

第5

3段目口

難波裏喧嘩

しばゐうらのけんくはになんばのどろどろ

第6

3段目切

橋本

はしもとのつじかごにあひごしのかけおち

第7

道行

道行

道行なたねのみだれざき

第8

4段目切

八幡里引窓

やはたのおやざとにちすじの引まど

第9

5段目

観心寺

くはんしんじのかくれがにこひぢのまぼろし

長編世話物は1日を通して上演されるので、ストーリー展開は時代物を模したものになります。初演時には『夏祭浪花鑑』の際と同様、各段にその段の内容をひとことで示す「語り」(右表参照)がつけられました。

 初演された寛延2(1749)年7月はいわゆる「忠臣蔵騒動」で太夫陣に大きな変動があった後です。最も重要な「橋本」は此太夫にかわって座頭に迎えられた大隅掾、「八幡里引窓」は島太夫の後を受けて昇格した2世政太夫、「大宝寺町米屋」は豊竹座から迎えられた帰り新参の上総太夫(もと紋太夫)、「堀江相撲場」は居残った錦太夫が語りました。今回は「堀江相撲場」「難波裏喧嘩」「八幡里引窓」の3段をピックアップしての上演です。

 

 全編のあらすじと上演各段の聴きどころ・見どころ
  

豪商山崎与次兵衛の息子・与五郎は大坂・新清水の料亭浮瀬に居続けし、馴染みの吾妻やその姉女郎の都らと遊んでいます。吾妻には西国侍・平岡郷左衛門、都には山崎家の番頭・権九郎がそれぞれ執心、平岡の吾妻身請けの話が進んでいるのを聞いた与五郎は焦り、権九郎の悪計にはまります。都の愛人・南与兵衛は今は笛売りに落ちていますが、山崎家の家来筋。辱められている与五郎の急場を救います(浮瀬)。与兵衛は待ち伏せていた平岡や権九郎らに襲われますが、傘をさして新清水の舞台から飛び降り、難を逃れます(清水観音)

「堀江相撲場」ここは堀江の相撲小屋。相撲は7日目。堂々たる大関の濡髪と素人の放駒の取り組みが人気を呼んでいます。与五郎は父・与次兵衛が後援する濡髪の、平岡は放駒の後押しをしています。与次兵衛は与五郎が近くにいるのを知り、手代の庄八との話の中で息子にそれとなく意見をします、とここまでは今回上演されません。濡髪(睦太夫・玉志師)は放駒に負けました。濡髪は与次兵衛から受けた恩返しにと、吾妻の身柄について平岡らへのとりなしを頼むためにわざと負けたのですが、放駒(希・玉勢)はその申し出を断り、喧嘩別れとなります。三味線は清馗。

与兵衛は平岡らと通じている悪者の幇間・佐渡七を殺しますが、小指を噛み切られてしまいます。吾妻は与兵衛をかくまい、権九郎を欺いて小指を切らせ、犯人に仕立てます。吾妻と与五郎は平岡らに辱められますが、濡髪に救われます。都は与兵衛と駆け落ちします(新町井筒屋)

 「難波裏喧嘩」廓を逃れた与五郎(亘・勘次郎)と吾妻(咲寿・玉誉)は平岡(南都・紋吉)らに捕らえられ、さんざんな目にあいます。急を聞いて駆け付けた濡髪(津國・玉志師)が2人を助け出しますが、侍2人・悪者2人を殺してしまいます。濡髪は即座に切腹しようとしますが、放駒(碩・玉勢)のことばに従い、後事を託して落ちてゆきます。三味線は寛太郎。

 「八幡里引窓」橋本の隣・八幡にある南与兵衛の家は元は郷代官の家柄でしたが、今は身を持ち崩し、与兵衛は継母と、妻お早(元の遊女・都)と3人で暮らしています。今日は与兵衛が新しい領主から呼びだされて城に赴いています。母(勘壽師)とお早(一輔師)が明日の放生会の支度をしていると、お早が廓で旧知の濡髪(玉志師)が訪ねてきます。実は与兵衛の母は濡髪の実母。夫に死に別れた母は濡髪を養子に出した後、これも与兵衛を残して妻に先立たれた父のもとに後妻として入ったのです。追われる身となった濡髪は名残に実母に会いに来たのですが、何も知らぬ母は大喜び。「与兵衛にもあわせて行きあいの兄弟の対面をさせよう」と濡髪を2階へ通します。以上「中」は小住・勝平の担当。

「切」に入って豊竹呂太夫・鶴澤清介両師の登場です。侍2人を伴って戻った与兵衛(玉男師)は新領主によって郷代官に任ぜられたこと、今後は代々の名・南方十次兵衛を名乗ることになったことを母とお早に告げます。十次兵衛の最初の任務は、皮肉にも濡髪長五郎を捕縛することでした。侍2人は濡髪が殺した平岡・三原の兄弟。日中は侍2人が、夜間は十次兵衛が探索することになりました。これを聞いて母とお早は驚きますが、2階の長五郎は縄を受ける覚悟を決めました。この後は歌舞伎「引窓」でみなさん御存じの展開。十次兵衛に長五郎捕縛を諦めさせようとして口論になるお早。割って入り、濡髪の人相書を売ってくれと懇願する母。その必死のありさまに濡髪が母の実子だと察した十次兵衛は「河内へ越える抜け道」を暗に教えてその場を去ります。母とお早の必死の説得にいったんは逃亡を決め、前髪を剃り落とさせた濡髪ですが、一番の特徴・実父譲りの高頬の黒子を母が剃りかねていると、窓から飛びこんできた金包みがこれをそぎ落とします。今度は長五郎が自分をつき出すよう母を説得する番です。理に屈した母が引窓の縄で長五郎を縛り上げます。現れた十次兵衛が「縄先知れぬ窓の引縄、三尺残して切るが古例」と太刀をふるうと、しばり縄が切れ、引窓が開いて中天の月の光が差し込みます。「ヤ南無三宝夜が明けた。身どもが役は夜のうちばかり。明くればすなはち放生会。生けるを放す所の法。恩に着ずとも勝手にお行きやれ」と十次兵衛は長五郎を放しやるのです。

その後、長五郎は南河内・観心寺村で相撲の勧進元をしている幻竹右衛門の家に身を隠します。竹右衛門の娘おとらは長五郎を慕いますが、おたずね者の長五郎はこれを受け入れることができません。追手が迫った長五郎のところへ長吉が現れ、吾妻と与五郎の一件がめでたく落着したことを告げ、自ら濡髪長五郎と名乗って竹右衛門とともに捕手を悩ませます。捕物の指揮を取っていた十次兵衛は2人を許し、長五郎には情状酌量の余地があると言い、縄をかけないまま駕籠で護送してゆきます(観心寺)



 2.『面売り』
 解説
 

当劇場5回目の上演で、8年に1回の割。今回はおよそ10年ぶりの上演です。

昭和19(1944)10月四ツ橋文楽座初演。野澤松之輔作詞・作曲、藤間勘寿朗振付による景事。



 聴きどころ・見どころ
 

扇を手に人相・手相・夢判断など口から出放題に喋るのを生業とするおしゃべり案山子(靖太夫に玉佳師)が、可愛らしい面売りの娘(呂勢・勘彌両師)と出会い、協力して商売をすることになりました。おしゃべり案山子が面の講釈を始めると、娘が天狗・福助・ひょっとこ・おかめと次々に面を取り替えては楽しく踊ります。床は藤蔵師を中心とする三味線とあわせて5挺5枚です。


3.『奥州安達原』
 解説

 宝暦12(1762)年9月竹本座で初演された全5段の時代物。作者は内題下に竹田和泉、奥に近松半二・北窓後一・竹本三郎兵衛。竹田和泉は2世竹田出雲(宝暦6-1756年没)の後を継いでいた座本・3世出雲が1762年6月に改名したもので、『菅原伝授手習鑑』のときの初世出雲のように興行責任者として作者にも名を連ねたもの。それまで二歩軒につぐ二枚目作者だった半二が立作者となった最初の作品です。前九年の役後、安倍貞任・宗任兄弟が再挙に苦心することに、能『安達原』『善知鳥』を配合して脚色しています。

中心場面は初段切「八幡太郎館」2段目切「善知鳥文治住家」3段目切「環の宮明御殿」4段目切「一つ家」です。初演の太夫は順に初世染太夫・初世春太夫・大和掾(大隅掾が宝暦元1751年に再受領)・2世政太夫。『双蝶々』初演から13年後ですが、3・4段目の切担当は不動。染太夫と春太夫は9年後の明和8-1771年1月、半二ほか作『妹背山婦女庭訓』3段目切で妹山・背山を語った太夫です。

今回は3段目のみの上演です。11世紀の中ごろ、奥州の豪族・安倍頼時が起こした反乱は源頼義・義家父子によって平定されました(前九年の役)が、皇位を象徴する三種の神器の1つ・十握の宝剣は何者かに奪われたまま所在不明でした。さらに天皇の弟である環の宮が付添いの匣の内侍とともに行方が分からなくなってしまいました。

聴きどころ・見どころ

 「朱雀堤」は3段目口。冬の京都七条の朱雀堤に弾き語りの物貰いがいます。平傔仗直方の長女・袖萩(和生師)なのですが、ある浪人(実は安倍貞任)と恋に陥って勘当されています。その夫とも別れ別れになり、苦労の末失明、傍には娘・お君(勘次郎)がいます。一方、主君義家に勘当された志賀崎生駒之助と妻・恋絹は奥州へ行くことになります。恋絹に横恋慕する義家の家来・瓜割四郎(簑太郎)は生駒之助から恋絹を奪うよう物貰いたちに命じています。袖萩の小屋の前で義家の妹・八重幡姫(紋臣)、傔仗(玉也師)、生駒之助(玉誉)と懐胎している恋絹(紋吉)の4人が出合います。傔仗が去ると、恋絹は生駒之助に恋しながら身を引いた姫の気持ちを察し、来世で生駒之助と添わせる証拠に2人で盃を交わすように提案します。袖萩が出て来て姫と生駒之助に盃をさせているところへ物貰いたちが恋絹を奪いに来ますが、袖萩は生駒之助と恋絹を小屋にかくまいます。瓜割は環の宮の捜索と称して小屋の中の袖萩を取り調べます。提灯に照らし出された顔を見て袖萩と気付いた傔仗は瓜割の取り調べをやめさせ、袖萩はそのすきに生駒之助と恋絹を逃がします。傔仗の家来が朝廷の使者の来訪を告げに来ました。明日までに環の宮の行方が分からなければ養育係である傔仗は責任を追って切腹しなければならないのです。傔仗と姫は急ぎ去っていきます。袖萩は今までいたのが父であり、しかもその父に何らかの危機が迫っていることを知り、お君の手を取って傔仗の後を追います。演奏は藤太夫師に清志郎。

 「環の宮明御殿」は3段目の詰。今回も4つの部分に分けて上演されます。

詰の口は「敷妙使者」。環の宮が失踪したのは春のことでしたが今はもう冬。その間、宮の御殿は傔仗(玉也師)と妻の浜夕(簑二郎師)が守り続けてきました。傔仗の次女で義家に嫁いでいる敷妙(清五郎)が夫の使者として訪れ、「宮詮議の言い訳が立たねば舅とて容赦はできぬが遺恨に思うな」との口上を伝えます。そこに義家(玉佳師)自身が現れ、宮の行方が知れぬのは安倍頼時の子である貞任・宗任兄弟の仕業に違いないと推量します。以上担当は希・清丈。

詰の次「矢の根」。桂中納言則氏(実は安倍貞任。玉男師)が訪れ、義家に宮詮議の経過を尋ねます。義家は鶴殺しの科人・南兵衛(実は安倍宗任。玉助師)を庭に引き出して詮議し、一方則氏は傔仗に潔く切腹することを勧めます。床は芳穂太夫に錦糸師。

詰の奥「袖萩祭文」の担当は呂勢・清治両師。袖萩・お君母子の出からですが、マクラの「たださへ曇る雪空に、心の闇の暮近く、一間に直す白梅も、無常を急ぐ冬の風、見にこたゆるは血筋の縁……」は一段の中でも最も難しい部分と言われ、父の危急を知って凍りつくような雪の道をゆく袖萩の心情を十分に語りこまねばなりません。庭の枝折戸までたどり着いた袖萩の詞「この垣一重が鉄の……」はこの一段の代名詞と言ってもよいほど有名です。袖萩は父と母の前で祭文に託して不孝を詫びますが、ここは三味線の聴かせどころで、特に間が肝心です。太夫は歌わず腹を締めて泣き、十分に乗って語るとよい、とされています。父母への詫びが聞き入れられず、雪の中で袖萩が身悶えする「見れど盲の垣のぞき」の件、介抱するお君に言う「親なればこそ子なればこそ……」は大夫の聴かせどころで、人形の足拍子の入る「抱きしめ抱きしめ泣く涙」で舞台は最高潮に達します。先ほどから2人の様子を見ていた浜夕は、我慢しきれなくなって打掛を投げやり、武士という身分であるがために冷たい仕打ちをせざるを得ないことを伝え、去ってゆきます。

今回は「アト」の「貞任物語」が切場となって、床は錣・宗助両師。宗任が現れて袖萩に傔仗の首を討つように命じ、懐剣を渡します。そこで義家に声をかけられた宗任は覚悟を決めますが、解き放されて立ち去ります。屋敷の中では浜夕が涙ながらに傔仗の切腹の準備、外ではすべてに絶望した袖萩が自害を覚悟、父と娘は同時に自害するのです。「声だけでも聞いておけ」という呼びかけを父の最期のことばとも知らず、袖萩は憎しみが和らいだものと安心します。傔仗の切腹を確認した則氏は「謀反人の舅や妻であるからには2人の自害もしかたがないこと」と立ち去ろうとします。と、突然陣鐘が鳴り響き、義家は則氏に「貞任」と呼びかけます。子供のころに頼時の顔を見たことがある義家は、頼時そっくりの則氏を貞任と見破り、彼らが十握の宝剣と宮を奪って再び謀反をたくらんでいることも見抜いていたのでした。本性を現した貞任は義家に戦いを挑みますが、義家はこれを押しとどめ、袖萩との別れをさせてやります。瀕死の袖萩は貞任にすがりつき、6年ぶりで会えたのに目が見えないことを嘆きます。貞任もさすがに涙をこらえることができませんでした。再び現れた宗任が義家に勝負を迫りますが、貞任はこれを制し、義家とのちの戦いを約束します。お君に名を呼ばれ、心を惹かれながらも、これを振り切って兄弟は去ってゆきます。

4.『冥途の飛脚』
 解説
 

 近松門左衛門作、全3巻の世話物。本作は「正徳元(1711)年初秋吉日」付の序文のある筑後掾段物集『鸚鵡ヶ杣』に収められていることから、それ以前に竹本座で初演されたと推定されています。実説は明らかではありませんが、宝永6(1709)年以前の事件でしょう。宝永7(1710)年に梅川が京都で「2度の勤め」に出、前以上の評判になったことから、翌8(1711)年正月、京・都万太夫座で『けいせい九品浄土』として劇化されました。「際物」を取り上げるのは興行界の常とはいえ、実に酷薄な話です。本作はそれに続くものなのですが、近松は梅川を真実忠兵衛を思うやさしい女性として描いています。

 安永2(1773)12月に菅専助・若竹笛躬による改作『けいせい恋飛脚』が初演されました(曾根崎新地芝居・豊竹此吉座)が、この作の「封印切」や「新口村」の趣向をそのままに寛政8(1796)年1月の大坂・角の芝居で歌舞伎化し、『恋飛脚大和往来』として上演されました。歌舞伎の現行演出の始まりです。

 一方、文化2(1805)年に手摺りにかかった『けいせい恋飛脚』では、その「新町の段」を4世竹本染太夫が『冥途の飛脚』の中之巻を復活して演じ、これ以後人形浄瑠璃では「封印切」は近松原作で上演することがスタンダードになったと考えられています。当劇場8回目、今回はおよそ5年ぶりの上演になります。

 昭和34(1959)年公開、内田吐夢監督、中村錦之助(後名萬屋錦之介)・有馬稲子主演の東映映画『浪花の恋の物語』は近松門左衛門(片岡千惠藏所演)を事件の観察者として登場させ、梅川の2度の勤めの悲惨と近松が『冥途の飛脚』を上演して2人の恋を浄化するまでを描いています。ラストの「新口村の段」は三和会が演じましたが、ここは史実通りではなく三人遣いの人形・雪の新口村でした。


 聴きどころ・見どころ

 「淡路町」は上之巻。家内の様子が知りたいと下女(文昇師)にしなだれかかることで養子の身の忠兵衛(勘十郎師)には家の敷居が高い、ということが示されます。この場では字の読めぬ養母妙閑(文司師)を騙すのに八右衛門(玉輝師)が協力します。段切れは遅れて届いた大名の用金300両を懐にした忠兵衛が新町へと運命の1歩を進めてしまう「羽織落し」。床は織・燕三両師。

「封印切」は中之巻の切場。前段でこのままでは忠兵衛が破滅すると見た八右衛門が、廓のほうから縁を切ってもらおうと、新町の人々に忠兵衛の内情を明かすのですが、問題はそれを当の忠兵衛に立ち聞きされていたことでした。話を聞いた梅川(勘彌師)が泣くのを見た忠兵衛がその場に飛び出し、八右衛門や梅川がとめるのを振り切って公金の封印を切ってしまいます。「短気は損気」の忠兵衛と友情があだになった八右衛門の衝突、間で気をもむ梅川。緊迫の場面を語るのは千歳・富助両師。

 「道行相合かご」は下之巻冒頭の道行を短縮し再編成したもの。新町を出た2人が忠兵衛の実家のある大和・新口村まで落ち延びる行程。「相合かご」といいながら駕籠は()(ぼれ)(ぐち)で帰してしまい、霙・霰・時雨の中の道行、と近松の筆致はあくまでリアル。床は三輪・芳穂に團七師以下5挺4枚。

  (F.T.)
 
 
 

 
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