これまでにどんなことがあったかというと・・・ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
天智帝の御代、帝位を望む蘇我入鹿は、日増しにその勢力を強めていました。一方、帝を守護して入鹿と対立する藤原鎌足は、忠臣玄上太郎の働きにより入鹿の弱点を突くために必要な爪黒の牝鹿の生血を手に入れていました。また鎌足の子淡海は、入鹿が奪った三種の神器の一つである十握の宝剣を取り返そうと、烏帽子折の其原求馬となって三輪の里に身を潜め、機会を窺っています。 |
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(日本芸術文化振興会発行 第137回=平成13年12月文楽公演〈国立劇場小劇場〉番付より) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
お三輪が息絶えた後・・・・ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
爪黒の牝鹿の血とお三輪の生血を注いだ笛の音によって入鹿は力を失い、剣は龍と化して虚空へ昇り、鎌足の手に収まりました。鎌足に斬られた入鹿の首は空中にとどまり火を吹くすさまじい様子を見せますが、淡海によって調伏されるのでした。 その後天皇は都を江州に移し、橘姫は淡海と結婚したのです。 |
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(日本芸術文化振興会発行 第54回=平成6年4月文楽公演番付より要約) |
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近松半二の代表的作品 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
半二生涯の述作は五十余篇の多きに達しますが、宝暦元年(1751)竹本座で上演された、『役の行者大峯桜』に共作者としてその名が出るのが端緒。半二は時に二十七歳でした。 |
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代表作を見てみると 宝暦 九年(1759) 二月 竹本座 日高川入相花王 三十五歳 宝暦十二年(1762) 九月 竹本座 奥州安達原 三十八歳 明和 三年(1766) 正月 竹本座 本朝二十四孝 四十二歳 明和 四年(1767) 八月 竹本座 関取千両幟 四十三歳 明和 五年(1768) 六月 竹本座 傾城阿波鳴門 四十四歳 明和 六年(1769)十二月 竹本座 近江源氏先陣館 四十五歳 明和 八年(1771) 一月 竹本座 妹背山婦女庭訓 四十七歳 安永 九年(1780) 九月 竹本座 新版歌祭文 五十六歳 天明 三年(1783) 四月 竹本座 伊賀越道中双六 五十九歳 没 |
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こうして概観するとお馴染の作品が多いことが知れます。スタートは27歳と遅かった訳ですが、32年の作家生活は決して短くはなく、光彩陸離たる数々の作品は、退潮期にあった人形浄瑠璃の馬首を立て直したことは特筆すべきことでしょう。そんな半二の円熟期に書かれたのが『妹背山婦女庭訓』でした。
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(独立行政法人日本芸術文化振興会発行 第118回=平成22年4月文楽公演番付より) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
『妹背山婦女庭訓』ゆかりの地巡り は こちら | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
堺の魚売り団七は、大鳥佐賀右衛門の家来と喧嘩をし、牢に入れられました。団七の妻お梶は、以前に奉公していた玉島兵太夫を頼って夫の赦免を願い出る一方、佐賀右衛門にそそのかされて遊郭に入り浸っていた兵太夫の息子磯之丞を連れ戻します。しかし磯之丞は勘当の身となったため、お梶が世話を引き受けることになります。また団七は、翌日に出牢を赦されますが、堺からは追放の身となりました。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(独立行政法人日本芸術文化振興会発行 第119回=平成22年7・8月文楽公演番付より) |
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『吉田玉男文楽藝話』より | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
団七の走りは韋駄天走り? | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
とうとう舅を殺してしまった後は、井戸で身体を洗い、浄瑠璃の「八丁目さして」で下手へ駆け込むのが段切です。ここで団七が見せる演技を韋駄天と称します。左手を腰にあてたまま、右腕を胸の前で左右に振る動きです。「すしや」(『義経千本桜』)の権太がすし桶を抱えて引っ込むところも同じく韋駄天。三味線は入らずツケも打ちません。いかにも理由があって急いでいる感じです。同じように走る演技でも「尼崎」(『絵本太功記』)の武智光秀や「逆櫓」(『ひらかな盛衰記』)の松右衛門は、団七走り。こちらは走るというより歩く演技を誇張して、力強さを表す。両腕を交互に大きく前後させながら、さらに足遣いは足拍子を踏みます。こちらには三味線のメリヤスが入り、ツケも打ちますので、音楽と人形の振りと双方で時代物らしい勇壮さを出す。 ということで、団七九郎兵衛は、首は名前と違って文七を用い、「八丁目さして」で走る演技も団七走りではなく韋駄天ですが、「三婦内」と「長町裏」の衣装で使う帷子の格子柄のことは、その名も団七縞と呼ばれています。なお、通し上演で「長町裏」の後に「田島町団七内」が出ると、屋根の上での立ち廻りがあり、団七はもうひと暴れすることになります。 |
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(独立行政法人日本芸術振興会発行 国立劇場上演資料集〈増刊〉『吉田玉男文楽藝話』〈平成19年9月〉より) |
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『夏祭浪花鑑』』ゆかりの地巡り は こちら | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
平安時代の豪族・源頼光は全盛を誇った藤原道長の近くに仕え、当時台頭した新興勢力である武家の棟梁として注目される存在でした。 このことから頼光は後世の『今昔物語』や『御伽草子』他で取り上げられ、平井保昌や頼光四天王(渡辺綱・坂田金時・碓井貞光・卜部季武)など勇猛な家臣を率い災厄や妖怪から都を守護する武勇伝の主人公として親しまれるようになりました。 今回の上演は頼光の家臣で最も広く親しまれている金太郎(後の坂田金時)が丹波の国大江山で酒呑童子を討伐する模様を描いた『大江山酒呑童子』より“土蜘蛛退治”のくだりです。 |
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(独立行政法人日本芸術文化振興会発行 第107回=平成19年7・8月文楽公演番付より) |
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『夕鶴』『彦市(一)ばなし』などを残した作家 木下順二の作品で、文楽では珍しく口語体で語られます。 昭和30年11月、大阪・三越劇場で試演されて以来各地で上演され、好評を博してきました。民話の親しみやすさとほのぼのとした雰囲気に包まれた、子供たちにも喜ばれる楽しい作品です |
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(独立行政法人日本芸術文化振興会発行 第107回=平成19年7・8月文楽公演番付より) |
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