都では天変が続き、宮中では法性坊の阿闍梨が祭壇を築いて祈禱している。そこへ法皇の御使として斎世親王が苅屋姫と菅秀才を伴って参内し菅家再興を願い出た。これを知った時平は清貫、希世に言いつけ菅秀才を殺そうと図ったが、かえって二人は雷に打たれて死んだ。さすがの時平も怖ろしくなり逃げようとするとき桜丸八重夫婦の幽霊が現れ悩ます。弱り果てた時平を苅屋姫、菅秀才姉弟が刺し、見事に父の仇を報じた。菅家再興を許され、道真は天満天神と祀られることになった。 |
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(国立劇場事業部発行 第22回=昭和47年5月文楽公演<東京>番付より) |
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★菅丞相(かんしょうじょう) 丞相というのは、天子を助けて政治を行う宰相という意味です。中国の秦の時代から漢の時代にかけて使われたものが、日本にも伝わり、大臣の異称として用いられるようになりました。菅丞相とは大臣菅原道真の愛称で、道真がいかに庶民から親しまれていたかを示すものです。 「学問の神様」として祀られている菅原道真は、漢詩や和歌に優れ、書では空海、小野道風と並んで「三聖」とよばれています。 ★舎人(とねり) 中国から日本の上代に伝えられた官職名で、貴人のそばに仕えた家僕のことです。舎人のなかでも最も身分の低いものは「牛飼舎人」などといって、牛車につなぐ牛を飼い、使っていました。成人でも童髪で、狩衣を着ます。 梅王丸、松王丸、桜丸の三つ子の兄弟は、皆この牛飼舎人です。低い身分ながら、仕事がら主人と親しくする機会も多かったわけで、桜丸はそれを利用して斎世親王と苅屋姫の恋を取り持ったのです。 ★不義(ふぎ) 道義に外れた男女の関係。武家社会では、主人が認めない家来同士の恋愛は厳禁でした。武部源蔵と戸浪は、この禁を破ったために勘当(主従・師弟の縁を切って追放すること)されたのです。 ★讒言(ざんげん) 人を落とし入れるために、事実を偽ってその人を悪く言うこと。また讒者とは、讒言をした者のことです。 第一部より ★東天紅(とうてんこう) 鶏の鳴き声の擬音「とうてんこう」に、夜明けを想起させる漢字を当てた言葉です。 ★伏籠(ふせご) (1)衣類に香を焚きしめるときに、香炉の上に伏せて、着物をのせる籠。(2)伏せて鶏を入れておく籠。「丞相名残りの段」に登場するのは(1)の籠ですが、趣向として(2)の意味が掛けられています。 ★道明寺(どうみょうじ) もと土師寺といい、のちに道明寺と改号されました。明治の神仏分離により、現在は道明寺天満宮と道明寺があります。(ともに大阪府藤井寺市) 伝説によれば、道真が筑紫に流されたとき、河内の土師寺(のちの道明寺)に伯母覚寿尼を訪れて一夜の別れを惜しんだとありますが、浄瑠璃作者はこの伝説に着想を得ながら、自由な脚色を加えて逆に「道明寺はこうして生まれた」という物語に作りあげました。すなわち、非業の死を遂げた娘の菩提を弔うため、覚寿はのちに尼寺をいとなみ、管丞相の木像を守護するというように描かれています。 第二部より ★賀の祝い(がのいわい) もと大陸で起こった風習を移入したもので、四十歳・五十歳・六十歳というように、十年ごとに行われる祝いのことです。平安時代には宮廷や貴族の間でさかんに行われ、そののち庶民にも伝わり、江戸時代になると種類も増えて六十一歳の還暦の祝い、七十七歳の喜寿の祝い八十八歳の米寿の祝いなども行われるようになりました。 白太夫の賀の祝いは、いわゆる「七十の賀」で、杜甫の詩の中にある「人生七十古来稀」からとって「古希の祝い」と称されるものです。 ★茶筅酒(ちゃせんざけ) 名を改める前にふるまう酒を「名酒」といいますが、ここでは管丞相の流罪をふまえて派手な祝いを避け、餅の上に茶筅で酒をふって配りました。(茶筅は抹茶をたてるときに使う道具) 七つの小さな餅で七十歳の祝いを、上にふった酒で改名の祝いをし、二つを同時に済ませたわけです。 ★介錯(かいしゃく) 切腹の際につき添って長く苦しまぬよう首を切ること。 桜丸切腹の場面では、白太夫は百姓ということもあり、刀に代えて撞木(鉦を打ち鳴らす丁字型の棒)を持ち、鉦と念仏によって苦痛を和らげて「介錯」としています。 ★天拝山(てんぱいざん) 現在の福岡県筑紫野市にある標高258メートルの山。 菅原道真がこの山に登り、無実の罪を天に訴えたという俗説があります。 ★寺子屋(てらこや) 中世の寺院教育をもとにして生まれ、江戸時代の庶民のあいだで発達した初等教育機関、つまり当時の小学校です。史実からいえば、菅原道真の時代に寺子屋はありませんでした。舞台に見られる寺子屋の風俗は、江戸時代のそれを写したものです。 |
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(日本芸術文化振興会発行 第86回=平成14年4月文楽公演番付より) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
※昭和58年1月 大阪朝日座での文楽公演番付に吉田文雀師が書いておられる記事からの転載です。 「菅原」が通しででますと、『菅丞相』のかしらは、大序「大内の段」および「筆法伝授の段」の段切り近く、参内する所から「築地の段」にかけて一個、「筆法伝授の段」で白の風折烏帽子を着用したものを一個、二段目「道明寺」で木像の化身した丞相に一個、「丞相名残り」になってからの丞相に一個、と計四個の『孔明』。「天拝山」で特殊かしらの『丞相』を一個、合計五個のかしらを使用いたします。 孔明のかしらは、ごく薄い卵色に塗り、上品な「べらぼう眉」を描きます。べらぼう眉というのは、ひら仮名の「へ」の字をひん曲げたような形の眉で、かしらの種類や役柄によりそれぞれの特徴を表すため、描き方が大分違ってきます。 「大序」「伝授」「築地」に使うかしらには『天上眉』を描きますが、これは位星(くらいぼし)ともいわれ、位の高い公家や親王の役のとき、和紙を紙捻(こより)にしたものを細い竹の先にはさみこみ、蝋燭の炎からとった煤をつけ、眉の上方の額に、小さな横長の楕円をすりこんで描きます。 時平のような大きな謀反を企む俗に『国崩し(くにくずし)』と呼ばれる役になりますと、半月形に描きます。 「道明寺」で木像の化身した丞相の眉は、筆で描かず黒の繻子の布を、べらぼう眉の形に切って貼りつけます。他のかしらとはどこか違う印象を与えますが、誰の考案か、先人の貴重な工夫といえましょう。繻子貼りの眉は、この役のみに限られた、特殊な細工です。 |
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(財団法人文楽協会発行 朝日座 昭和58年1月公演番付より) |
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『菅原伝授手習鑑』ゆかりの地巡り は こちら | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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