靱猿
 解説
 

 近松門左衛門が1705,6年頃に書いた『松風村雨束帯鑑』五段目の一部で、狂言「靱猿」をもとにつくられたものです。のちに作られた常磐津や長唄の「靱猿」も筋立ては同様で、だれもがよくわかる作品として親しまれています。

 昭和31年(1956)に二代野沢喜左衛門が補曲し、藤間紋十郎の振り付けで復活されました。

 (日本芸術文化振興会発行 第63回=平成8年7・8月文楽公演番付より)

『松風村雨束帯鑑』は在原業平の兄行平が勅勘を受けて須磨に下り、土地の海女松風、村雨姉妹の恋争いとなるいわゆる“松風村雨物語”の中に浦島伝説を持ち込み、謡曲の「松風」「海人」・狂言の「靱猿」などの趣向を用いた五段組織の時代物です。
 
(日本芸術文化振興会発行 第76回=昭和61年2月文楽公演〈東京〉番付より) 
 
一谷嫩軍記
主な登場人物 
 
 解説
 「一谷嫩軍記」三段目は平家物語中でも最も哀切な敦盛の最期を、義太夫特有の奇想天外な身替り劇に仕立て直しますが、スケールの大きさと、登場人物の多彩さに加えて、人物・心理描写が的確であるので、深みのある傑作時代浄瑠璃に数えられます。仏教的な諦観と前途ある若者を惜しむ気持ちが庶民の心を打ち、変わらぬ人気を保っているのでしょう。
  (国立劇場発行 第17回=昭和62年1月公演番付より)
 立(首席)作者は三大名作(「菅原」「千本桜」「忠臣蔵」)ほか数々の作品に関わり、近松門左衛門以後最もすぐれた浄瑠璃作者と評価される並木宗輔(千柳)です。宗輔は三段目まで執筆して亡くなりましたが,脇作者たちの手により、宝暦元年(1751)12月大阪豊竹座で初演されました。 
(日本芸術文化振興会発行 第77回=平成12年1月文楽公演番付より) 
 
これまでのあらすじ
 都落ちした平家は須磨を拠点として戦に備えています。源義経は、須磨の若木の桜を守るよう、熊谷次郎直実に命じ、「一枝を切らば一指を切るべし」と書いた制札を与えました。やがて、義経との戦に敗れた平家は八島へ逃れますが、一の谷の陣所を守っていた平敦盛は、直実に討たれました。敦盛の母藤の局は、追手から逃れる途中、敦盛が大切にしていた青葉の笛を手に入れ、敦盛が直実に討たれたことを知るのでした。
(日本芸術文化振興会発行 第65回=平成9年1月文楽公演番付より)
 
抜き書きノート 
≪一ノ谷の合戦≫

 寿永3年(1184)2月一ノ谷で行われた源氏と平氏の戦である。前年、京の都を落ちた平氏が西岸で陣容を立て直し、再起を図って東進しようと志したのを、源義経・範頼の軍が攻撃して平氏を完敗せしめ、さらに西へ追いやって滅亡へと辿らせたのであった。なお、一ノ谷は現在の神戸市須磨の西にあり、鉄拐・鉢伏の両山が明石の海に迫る地域で、東西に千鳥川・界川を控えている。また北には鵯越(ひよどりごえ)があるが、この地点から義経が平氏を攻めたことは鵯越の逆落としといわれて世に名高い。


≪制札≫

 禁令や法令、または告知すべき事柄を一般の人々に知らせるため、それらのことを箇条書きにして、街頭や路傍、あるいは神社・寺院の境内などに立てた立て札のこと。立札・下知板・高札・辻札などとも称する。これを用いたのは主として武家時代で、江戸時代には町奉行所属の同心が建てる係を担当していたが、もしも紛失・破損した時は、町役人の責任になるため、火災の際などには何よりも真っ先に担いで無事な場所に運んだという。


≪平敦盛≫

 参議の平経盛の子。経盛は平清盛の弟なので、清盛の子重盛・知盛などは従兄に当たる。また琵琶の名手として知られた経正は敦盛の兄である。敦盛は従五位下に叙せられたが、官職がなかったので世に無官の太夫と呼ばれていた。寿永3年(1184)2月に一ノ谷の合戦で熊谷直実に討たれ、16歳の短い生涯を終えたが、神戸市内の須磨寺にある青葉の笛は、敦盛が最後まで腰にさしていたものだと伝えられている。


≪熊谷直実≫


 武蔵の国熊谷郷の人で、初め平知盛に仕え、のち源氏に従って、平氏追討の際に功をたて、本領の無事を得た。中でも一ノ谷の合戦に、平敦盛を討ち取った話は有名である。しかし建久3年(1192)、所領争いに敗れて出家となり、法然上人の門に入って蓮生と称し、承元2年(1208)に68歳で没した。

 一方、『平家物語』の巻九には次のように記されている。

 一ノ谷で敦盛を助けようとした直実は、源氏の土肥・梶原などの後続部隊が来たため、涙をのんで敦盛の首を刎ね、源義経の見参に入れたところ、いずれも涙を流して敦盛の死を悼んだ。直実は獄門にかけられたその首を盗み取って弔い、黒谷の法然上人のもとに赴いて剃髪し、蓮生坊と称して高野山にのぼり、敦盛の遺骨を埋葬した。そして、蓮生谷の傍に庵を結び、83歳で世を去ったという。
(日本芸術文化振興会発行 第77回=平成12年1月文楽公演番付より)
 
卅三間堂棟由来 
 解説
  
 1760年(宝暦10年)、豊竹座にて初演。若竹笛躬(わかたけ ふえみ)・中邑阿契(なかむら あけい)の合作で五段続きの時代物です。“柳”の名でも親しまれている作品で、命を助けられた狐や鶴や亀が人と契る「葛の葉伝説」「夕鶴物語」「浦島伝説」のように、これは伐り倒されるのを免れた柳の古木の精が女となって恩人と夫婦となる物語です。

 その話に、京都の三十三間堂の棟の由来と親鸞上人の弟子、横曽根平太郎の縁起と白河法皇から平忠盛に贈った祇園女御の話を組合わせて「祇園女御九重錦」という外題で初演され、この三段目にあたる“平太郎住家の段”“木遣り音頭の段”が評判をよび単独で上演されるようになり、今日の外題を使うようになりました。


  「卅三間堂棟由来」の題で三段目を独立させたのは、1825年が最初です。
(日本芸術文化振興会発行 第46回=平成4年7月文楽公演番付より)
 
 これまでのあらすじ
   昔、紀州の山中で、梛(なぎ)と柳の大木が枝を交わし夫婦となっていました。ところが、あるとき修行僧蓮華王坊によって枝を切られ、夫婦の仲を裂かれてしまいました。

時が流れました・・・梛の木は、横曽根平太郎という人間に生まれ変わっています。また蓮華王坊も、柳の梢に刺さって死んだ後、生まれ変わって白河法皇となりました。

 ある日。父の敵を討つことを願って熊野権現に日参する浪人平太郎が、老母を連れて、柳の大木のもとを通りかかりました。鷹狩の最中に柳に鷹の縄が引っかかったとかで、侍たちが木を伐り倒そうとしています。平太郎は木を伐らずにうまく縄をはずし、柳を救ってやりました。

 木の下では、お柳という娘が茶屋を開いていました。この店の前で、熊野参籠帰りの白河法皇が悪漢に襲われます。店で休憩していた平太郎はお柳とともに、法皇を助け出しました。

 このお柳・・・実は梛の木との再会を待ち続ける柳の精でした。そして、この日、前世の夫であり現在の命の恩人である平太郎の妻になることができたのです。

(日本芸術文化振興会発行 第46回=平成4年7月文楽公演番付より 
 
 
 抜き書きノート
≪三十三間堂≫

 京都市東山区七条にある天台宗の寺院。内陣の柱間が三十三あるために俗に三十三間堂と称しますが、正しくは蓮華王院本堂と言います。1164(長寛2)年後白河法皇の発願で建立されました。湛慶作の丈六の千手観音を本尊とし、等身大の千手観音千一体(うち百二十四体は創建当時のもの)及び二十八部衆の像を安置します。

 現在の堂は1266(文永3)年の再建ですが、その棟木に紀州熊野から伐り出した柳の木を用いたと伝えられます。後白河法皇は熱心な熊野信仰者で、何度も熊野詣でをしました。千手観音のための堂建立の発願も熊野参詣の時のことと言われ、三十三間堂と熊野信仰とは深いつながりがあります。

 「卅三間堂棟由来」の中にも上皇の頭痛ということが出てきますが、三十三間堂の年中行事として1月15日、「楊枝浄水供(ようじじょうすいく)」という法要があります。後白河法皇の頭痛平癒にちなんで、浄水を楊柳の枝で信者に授けて悪疫を払うという信仰です。同じ日に行われる有名な「通し矢」は、ここの西の縁側で南端から北端まで矢を通す競射の行事ですが、現在は裏手の矢場が使われています。
(日本芸術文化振興会発行 第46回=平成4年7月文楽公演番付より) 
 
 絵本太功記
 主な登場人物
 
 
 解説

 近松柳・近松湖水軒・近松千葉軒の合作で、寛政11年(1799)7月、大阪豊竹座で初演された、全十三段の時代物です。

 この狂言は、読本(よみほん)の「絵本太閤記」によって作られた浄瑠璃です。同書は竹内確斎・作、岡田玉山・画で、寛政9年(1797)から享和2年(1802)まで書き続けられた七編八十四冊の大著ですが、そのうちの主として寛政10年、11年に出版された第二、第三編と四編の一部によって、全十三段に浄瑠璃化されたのが本作です。

 全編を天正10年(1582)6月1日から13日までの出来事として、日時を追って描写している点、筋の運びに伴って興味が盛り上がり、光秀の三日天下のあわただしい行動や心理を描写して、秀れた効果を挙げています。

本能寺の変を2日、小栗栖での光秀自刃を13日と史実にあわせてあります。とくに今回上演する10日目の夕顔棚・尼崎の段は、人気狂言として通称「太十(たいじゅう)」と呼ばれるポピュラーな演目です。

(国立劇場発行 第11回=昭和60年11月文楽公演番付より) 
 
 これまでのあらすじ
  天正10年6月2日、武智光秀は、諫言にも耳を貸さず暴虐のふるまいを重ねる主君尾田春長を、その宿所本能寺に襲い自害させました。そのころ真柴久吉は、中国地方で郡氏を攻めるため、備中高松城を水攻めしていましたが、これを知りすぐに郡と和睦を整えると、光秀を討つために都へ引き返します。

 光秀は京都妙心寺に砦を構えていますが、光秀の母さつきは反逆を非難し、ただ一人家を出ます。光秀自身も母の怒りと主君を殺したことに苦しみ、自害をはかろうとしますが、息子・十次郎や家臣・四王天田島頭に止められ、思い返して久吉との戦いの決意を固めます。

 四王天は百姓に姿を変えて僧と連れ立ち、都に向かう久吉を狙いますが、久吉は僧の袈裟衣を身にまとって逃げ、正体を見抜かれた四王天は加藤正清に討たれます。
(日本芸術文化振興会発行 第61回=平成8年1月文楽公演番付より) 
 
 抜き書きノート
 ≪実説・明智光秀≫

 安土桃山時代の武将。享禄元年(1528)美濃国の土岐氏の士族に生まれました。同国の明智荘にいたために明智の姓を名乗り、通称を十兵衛と言いました。織田信長に仕え、永禄11年(1568)に信長が足利義昭を奉じて京都に入って以来、京都の庶政に関与しますが、このときの手腕を認められて新参ながら重用されました。

故実、祭礼に通じ、茶湯、連歌を好む教養豊かな武将で、元亀2年(1571)に近江国の坂本城主となり、このころ名を日向守惟任と改めて、丹波国の攻略に力を尽くしています。

 しかし天正10年(1582)6月2日に中国出陣とみせかけて、主君の信長の宿所であった京都の本能寺を急襲し、遂に信長を自殺せしめました。それを知って中国の戦陣から馳せ戻った羽柴秀吉と、同月13日に山城国の山崎で戦って利なく、敗走の途中、小栗栖で土民に殺されました。時に55歳、この反乱は世に本能寺の変と称されますが、光秀の弑逆の確かな理由は未だに解明されていません。
 (日本芸術振興会発行 第61回=平成8年1月文楽公演番付より)
 
天網島時雨炬燵 
 解説
 近松門左衛門の傑作「心中天網島」の改作で、明治期の近松再評価の機運に乗って大正6年に原作の「心中天網島」が復活されるまでは、専らこの「天網島時雨炬燵」が上演されてきました。原作と比較するとあざとさが目立つと言われますが、その分浄瑠璃の聞かせ所、人形のしどころが多く、今日でも人気の高い作品の一つです。
(日本芸術文化振興会発行 第53回=平成6年1月文楽公演番付より) 
 
 これまでのあらすじ
  天満御前町に紙屋を営む治兵衛は、曽根崎の遊女紀の国屋小春と心中を約束するほど深い仲でしたが、その約束は小春の本心でなかったことを知り、縁を切ります。しかし、小春の心変わりは、二人の心中を心配した治兵衛の妻、おさんへの義理から出たものでした。
 (独立行政法人日本芸術文化振興会発行 第97回=平成17年1月文楽公演番付より)
 文楽の女たち』 は こちら 
 
 伊達娘恋緋鹿子
 解説
 1773年(安永2年)、北堀江座にて初演。菅専助、松田和吉、若竹笛躬の合作です。お馴じみの八百屋お七を扱った数多くの作品のひとつで、今日では六段目の“八百屋”だけが残っており、それも段末の“櫓”の部分だけを上演する機会が多くなっています。舞踊会でも人気演目のひとつとなっていますが、その場合も“人形振り”といって文楽人形の動きを模した技法でしばしば演じられています。

 お七の人形の華やかな動きが見どころで、特に、段鹿子の衣裳を肌ぬぎし、髪を振り乱して櫓ばしごを登る場面で、人形遣いが姿を見せない独特の仕掛けにはびっくりさせられ、人形ならではの動きにもご注目ください。
 (日本芸術文化振興会発行 第46回=平成4年7月文楽公演番付より)
 
 これまでのあらすじ
  江戸吉祥院の小姓吉三郎は、父の仕える若殿が失った、朝廷に納める大切な剣を探しています。また、火災で焼け出され、寺に避難していた八百屋のお七とは、相思相愛の間柄でした。

 さて、今日中に剣が見つからなければ、明朝若殿は切腹、という日の夜。ともに死ぬ覚悟をしている吉三郎は、遺書を残してお七のもとを去りました。ところが、その後になって、お七は剣の在処を見付けたのです。お七に結婚を強いる武兵衛が持っていたのでした。
(日本芸術文化振興会発行 第46回=平成4年7月文楽公演番付より) 
 この後の物語
 ≪上演資料集より≫

七の巻
 今日はお七の処刑の日。高嶋左門之助、妻花園、吉三郎主従が、渡辺隼人に剣の引き渡しも済み、京へ出発の支度をして牢屋敷の門前に集まっている。左門之助夫婦らは牢役人長芝栄蔵にお七の助命を嘆願し、隼人も口添えするが、長芝はすでに公表した天下の大法を犯した者を私に助けるわけに行かぬと受け付けぬ。仕方なく、左門之助らは吉三郎にお七の最期を見届けてから跡を追うようにと情のことばをかけて出発する。間もなく刻限となり、お七が引き回しのため引き出される。

恋の罪科を一身に引き受けたお七は、小伝馬町の牢から引き出され、恋人吉三のことを思い、父母を思って涙にくれながら、日本橋から品川を通り、高輪辺へと引かれゆく。

八の巻 間もなくお仕置と見物群衆の中へ八百屋九兵衛夫婦はようやく辿りつき、娘の身の上を嘆いて涙にくれる。名主与三郎がお杉を連れて二人を迎えに来るが、夫婦は動こうとしない。一同が嘆くうち、お七が馬に乗せられ引かれて来る。長芝栄蔵の情の言葉に、お七は身の懺悔をする。吉三郎が駆けつけ、お七はことばを交して思い残すことはないと語る。嘆きに沈む吉三に軍右衛門が打ちかかるが、丁稚弥作が取り押え、栄蔵は太左衛門、武兵衛を引き出してご政道を明らかにし、お七は安心して罪に服す。
 (国立劇場発行 国立文楽劇場上演資料集〈14〉“解説と梗概”より抜粋)
 
 
首の名前
 役名 かしら名 
靱猿
大名 検非違使
太郎冠者 斧右衛門
猿曳 又平 
一谷嫩軍記 
妻相模 老女形
堤軍次 源太
藤の局 老女形
梶原平次影高 金時
石屋弥陀六実は弥平兵衛宗清 鬼一
熊谷次郎直実 文七 
源義経 源太 
卅三間堂棟由来 
進ノ蔵人 孔明
平太郎の母
女房お柳 老女形
横曾根平太郎 検非違使
みどり丸 男子役
絵本太功記
母さつき
妻操 老女形
娘初菊
旅僧実は真柴久吉 検非違使
武智光秀 文七
武智十次郎 若男
源太
加藤正清 鬼若
天網島時雨炬燵 
紙屋治兵衛  源太
江戸屋太兵衛 陀羅助
女房おさん 老女形
粉屋孫右衛門 孔明 
紀の国屋小春   
娘お末  女子役 
舅五左衛門   
丁稚三五郎  丁稚 
五貫屋善六  手代 
倅勘太郎  男子役 
伊達娘恋緋鹿子 
娘お七   
下女お杉    
武兵衛  端敵 
丁稚弥作  端敵 
太左衛門  端敵 
衣裳
一谷嫩軍記
熊谷次郎直実 黒ビロード大寸半腰・赤地金襴雲龍丸裃くろ びろーど  だいすんはんごし・あかじきんらんくもりゅうのまるかみしも
絵本太功記
武智光秀 鉄地錦宝相華唐草鎧直垂(てつじにしきほうそうげからくさよろいひたたれ)
天網島時雨炬燵
紙屋治兵衛 白茶御召縞着付(しらちゃおめししまきつけ)
紀の国屋小春 黒縮緬秋草裾模様着付(くろちりめんあきくさすそもようきつけ)
 
資料提供:国立文楽劇場衣裳部
 
過去のぷち解説
平成27年初春公演「花競四季寿」「彦山権現誓助剣」「義経千本桜」「日吉丸稚桜」「冥途の飛脚」 
平成26年11月公演「双蝶々曲輪日記」「奥州安達原」
平成26年夏休み特別公演「かみなり太鼓」「西遊記」「平家女護島」「鑓の権三重帷子」「女殺油地獄」 
平成26年4公演「通し狂言 菅原伝授手習鑑」 
平成26年初春公演「二人禿」「源平布引滝」「傾城恋飛脚」「面売り」「近頃河原の達引」「壇浦兜軍記」 
平成25年11月公演「通し狂言 伊賀越道中双六」
平成25年夏休み特別公演「妹背山婦女庭訓」「夏祭浪花鑑」「金太郎の大ぐも退治」「瓜子姫とあまんじゃく」 
平成25年4月公演「伽羅先代萩」「新版歌祭文」「釣女」「心中天網島」 
平成25年初春公演「義経千本桜」「増補大江山」「団子売」「ひらかな盛衰記」「本朝廿四孝」
平成24年11月公演「通し狂言 仮名手本忠臣蔵」
平成24年夏休み特別公演「摂州合邦辻」「伊勢音頭恋寝刃」「曾根崎心中」
平成24年4月公演「加賀見山旧錦絵」「祗園祭礼信仰記」「桂川連理柵」 
平成24年初春公演「七福神宝の入舩」「菅原伝授手習鑑」「義経千本桜」「壺阪観音霊験記」 
平成23年錦秋公演「鬼一法眼三略巻」「恋女房染分手綱」「伊賀越道中双六」「紅葉狩」
平成23年夏休み特別公演「絵本太功記」
このホームページは文楽応援団が運営しています。当ホームページの資料、情報の無断転載は禁止です。
当サイトに関するメッセージは、こちらまでご連絡ください。
首の名前
ぷち解説
衣裳
inserted by FC2 system