東海道中膝栗毛
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赤坂並木より古寺の段
 解説
   戯作者十返舎一九が享和2年(1802)から刊行を始めた滑稽本「東海道中膝栗毛」は、道楽者栃面屋弥次郎兵衛と旅役者の鼻之助こと喜多八が江戸での不始末のゲン直しにと、伊勢参りのため東海道を西に向かう道中体験する様々な出来事を描く喜劇でしたが、本の流通が旅行ブームを引き起こすほど大人気となりました。
 この人気に目をつけた興行者は早速これを舞台に移し、文政6年(1823

 6月江戸河原崎座、鶴屋南北作「独道中五十三駅」に弥次郎兵衛と喜多八を登場させました。安政元年(18547月江戸中村座三世桜田治助作「旅雀我好話」が上演された時、義太夫が使われたのを契機にして義太夫や新内でも演奏されるようになったとされます。

 現在文楽で上演するのは原作の四編上に基づきます。大阪で生まれ育った文楽で江戸弁や川柳を連発するのは少々面映ゆいところですが、江戸っ子の代表だと思われている弥次さんも、実は駿河府中生まれの自称江戸っ子なのだそうです。得体の知れない仙松、親父、和尚を相手に「旅の恥はかき捨て」を地で行くおっちょこちょいでちょっぴり下品な二人の道中にお付き合い下さい。

 なお一九は若い頃大阪で浄瑠璃作者の修業をし(近松半二の弟子の東南の門下)、近松余七の名で寛政元年(17892月大阪豊竹此吉座初演「木下陰狭間合戦」(豊臣秀吉と石川五右衛門の因縁を描く内容)に署名があります。この経験はやがて幕内関係者の言葉を多く引用した「仮名手本忠臣蔵」の解説書「忠臣蔵岡目八目」に生かされました。

(日本芸術文化振興会発行 第79回=平成1278月文楽公演番付より)

 
生写朝顔話
 
 
 解説
 この作品は、儒学者であった熊沢蕃山(1619~1691)の作と伝えられる「露のひぬ間の朝顔を・・・」という今様歌にヒントを得て、芝屋芝叟が書いた長話「蕣(あさがお)」が原拠です。これを脚色した「生写朝顔話」は、天保3年(1832)1月、大阪竹本木々太夫座で初演されました。山田案山子が書いた浄瑠璃に、読本や歌舞伎などを加味したものといわれています。
(国立劇場発行 第31回=平成元年7月文楽公演番付より)  
 
もう少し詳しく
 ―主人公「阿曽次郎」のモデルとなった「熊澤蕃山」についてー

31回文楽公演番付 『露のひぬ間の朝顔』=脇田修氏=より抜粋

  陽明学者熊澤蕃山はなぜ宮城阿曽次郎こと駒沢治郎左衛門という浄瑠璃の主人公になったのでしょうか。当時の儒学者といえば、普通はむずかしいことをいう道学者と見られていますから、なかなかこのような文芸の主人公にはならないのです。ここでは少し蕃山のことを書いてみたいと思います。

 熊澤蕃山は名は伯継、通称二郎八また助右衛門、また了介といいます。加藤嘉明らに仕えたのち牢人をしていた野尻一利の子として生まれ、外祖父熊澤守久の養子となります。駒沢治郎左衛門が熊澤蕃山をモデルとしていることは、駒沢は熊澤、治郎左衛門は二郎八からとられていることでもわかります。蕃山は1619年に京都で生まれ、京都所司代板倉重宗らの推挙で岡山の池田光政に仕えましたが、いったん辞して近江の中江藤樹のもとで陽明学を学んだのち、改めて池田家に仕え登用されて三千石をもらい、藩政にも大きな発言力をもちました。このことは戦国・近世初期とはちがって、世の中が安定した時期ですから、新たに牢人が召し抱えられるのも珍しいのに、それも三千石という高禄で藩政に影響を与えることができる地位にあったのは、まったく稀有のことでした。そのため他の家臣の不満もあって光政も気を使うほどでしたから、蕃山もそのような空気を察したのでしょう、実子も多いのに光政の子を池田姓のまま養子として、あとを譲って退隠したのでした。

 儒者というのは、自分の学問を政治に活かそうとする気持ちが強いのですが、将軍や大名はこれを飾りに使っても、本当に政治に用いることは少ないものです。蕃山の場合も光政の日記を読むと、のちには仲が悪くなっていて、蕃山は口先ばかりで役に立たない、と書いています。しかし実際はともあれ、幕府の大学頭を勤めた林家も後期になって三千石・三千五百石となったほどですから、蕃山のように重く用いられた例はありません。したがって蕃山は儒者の理想でした。頼山陽をはじめ多くの人が彼を讃える詩文をつくっているのはそのためでした。しかも近世中期には儒者が登用されるようになり、ことに松平定信の寛政改革では尾藤二洲ら三博士が幕府に召し抱えられました。おそらくそのような風潮をうけて、蕃山が追慕され、彼を主人公にした文芸がつくられたのでしょう。

 蕃山は、陽明学者で和学にも通じた大学者ですが、このようなロマンスの主人公になってもよい男でした。彼は「婦人好女ノゴトク見エシ」といわれるように、美女と見まがうような美男子だったといわれています。美男子で学問をやるというと、当時の武士として恥ずかしくないようにしなければ、なにかといわれるでしょう。そのためか蕃山は武道にも精通したのでした。さらに京都にいたときは公家と交際して、風雅の遊びもいたしました。和歌などもよくし、この浄瑠璃で重要な役割をはたす朝顔の歌は、彼の自作であることは確かです。また笛・琵琶・琴といった楽器をあつかうことができましたから、なかなかの風流人でした。

  おそらくこのようなことがあって、わが蕃山先生は宮城阿曽次郎になったのでしょう。ただ相手となった深雪のことはよくわかりませんし、また二人の結婚にこのようなロマンスがあったかどうかもわかりません。蕃山の妻は姫路藩士矢部形部左衛門、一説には七右衛門といった人の娘でいちといい、蕃山とは一回り以上も若く1634年に生まれました。結婚の年はよくわかりませんが、彼女の年齢や二女の誕生年から考えて、1650年から53年ごろだと思います。夫婦の間には四男七女があり、妾腹の二女がいたようですが、夫婦仲は良かったようです。残念ながら彼女のことはほとんどわかりません。

  蕃山の陽明学の影響をおそれて、幕府は1687年に70歳近い蕃山を下総古河に幽閉しました。翌年には妻いちが没し、身辺はさびしかったようですが、1691年に蕃山は幽閉先の古河で73歳でなくなりました。鮭延寺には夫妻の墓が並んでいます。

(国立劇場発行 第31回=平成元年7月文楽公演番付より)

参考 
「生写朝顔話」段名一覧

大内館の段(大序)

 
防長豊筑四国の太守、大内多々良之助義興は鎌倉に在番、本国では先代の後室園生の方が留守を守るところへ禁廷から玉橋の局が勅使として下り、中宮の御不例につき家に伝わる薬王樹を差出すように命じた。家老の駒沢了庵は一応鎌倉へ知らせた上というが、同役で謀反の企てをしている山岡玄蕃はこれを遮り、薬王樹を渡した。義興は鎌倉で遊所通いにふけっているため、園生の方の頼みで了庵は甥の宮城阿曾次郎を鎌倉へ派遣して諫言させることにした。玄蕃は手下の者に大内家の重宝霊符の尊像を盗ませ、一方玉橋の局は薬王樹を受取って悠々と立ち去った。

多々羅浜の段(大序)


 山口に程近い多々羅浜に夜更けて怪しい姿で現れたのは玉橋の局。手下の夜叉丸の出迎えを受け首尾よくかたり取った薬王樹を見て独り笑みする不敵の有様、それを木陰に伏して見ていた一人の乞食がそっと老女の跡をつけて行った。

宇治川蛍狩の段         

 夏休み文楽特別公演(第2部で上演)

 真葛が原茶店の段         

 夏休み文楽特別公演(第2部で上演)

 岡崎隠れ家の段          

 夏休み文楽特別公演(第2部で上演)

 明石浦船別れの段         

 夏休み文楽特別公演(第2部で上演)

 弓之助屋舗の段


国へ帰った深雪は明石ではかない別れとなった阿曾次郎の事を思いつめ気も晴れない。そこへ城より帰った秋月弓之助は主君の御意によって大内家の家臣、駒沢次郎左衛門という若侍を深雪の聟にすることを決め、固めの盃まで取り交わしたと語った。弓之助も駒沢の器量にすっかり惚れ込んだ様子、妻の操は娘の心を知っているので胸を痛めたが、主君の仲介といい今さら変替えもできぬと、深雪に仔細を語り得心するように奨めた。切羽詰った深雪が書置きを残して家出したので家中は大騒ぎになり関助が跡を追っていった。 

 小瀬川の段


小瀬川の入江にもやう渡海船にいる老女が所持のお守りを戴くと病人に著効があるというので、今宵も村人が迎えに来て老女は出かけて行った。そのあとへ馴れぬ道に悩みつつ駆けてきたのは家出をした深雪、不孝の罪を両親に詫び、すでに身を投げようとしたところを戻りかかった老女が抱留めて助け、恋人に逢わせてやろうと船に乗せ沖へ漕出した。一足違いで駆けつけた関助は振返った深雪と顔を見合わせたばかり、いずくまでもと浜辺を追いかけていった。
 

 摩耶が嶽の段


ここは摂津、播磨の両国にまたがる摩耶が嶽の山中、岩窟を住家とするのは例の老女荒砂で多くの手下を使って山賊を働いているが大切に育てている娘の千里には包み隠していた。その千里は新入りの手下、浮洲の仁三郎に密かな恋心を燃やすのであったが、そこへ人買いの輪抜吉兵衛が先立って預って行った深雪がともすれば逃げようとするのに困って戻しに来た。荒砂は言うことを聞かぬ深雪に業を煮やし、さんざんに折檻した。心やさしい千里は深雪をかばって母に詫びるが、荒砂は聞入れずなおも打据えるので、深雪は悶絶してしまった。折から手下が加勢を求めに来たので荒砂が出かけたあと、千里は仁三郎の指図に従って老女が大切にする守りを持ち出し深雪に戴かせると息を吹返し、老女の戻らぬうちにと深雪を逃がしてやった。仁三郎は何を思ったか守りの箱を打ちくだくと中から出た一通で、荒砂が大友の残党であることを知り、千里との縁もこれ限りと薬王樹を持って奥の一間に入ってしまった。千里が悲しみにくれるところへ戻った荒砂は打破られた守りの箱を見て驚き、娘を問いつめるので千里は言い訳に自害した。荒砂は娘から一部始終を聞いて歯噛みをし、一間へ踏込もうとすると、そこには仁三郎が唐服に姿を改め、大内家の家臣、駒沢了庵の一子三郎春次と名乗り、多々羅の浜で荒砂を見かけたので薬王樹を取返すため手下となって入込んだことを物語った。荒砂も企ての破れに覚悟を極めて自害、千里こそ滅亡した大友家の姫君で主家再興のために仇敵の大内家を亡ぼそうと計ったことを打明け、春次もその心を察して千里と未来を約する盃を交わすのだった。
 

 大磯揚屋の段


鎌倉の遊里、大磯の廓の松葉屋では今日も大内義興が来るので大忙し、傍には山岡玄蕃に一味する岩代多喜太、赤星運八らが付添って義興の遊楽をけしかけていた。そこへ国元から到着した駒沢次郎左衛門が目通りを願い出たので岩代らは田舎者に恥をかかせようと待ちかまえた。ところが現れた次郎左衛門は諫言どころか酒の相手を勤め、舞まで舞って座を取持ち、すっかり義興の気に入ってしまうので悪人たちは当てがはずれてしまった。義興らが奥の間へ立去ったあと、駒沢は義興の相方、傾城瀬川に床の間の桜の花を見せて心ありげに謎をかけた。瀬川は心に何か決して奥の義興のところへ行った。夜更けて瀬川の禿しほりの手引きで駒沢が忍んで来た。瀬川の手から駒沢に返事の文が手渡されるのを見付けた義興は怒って不義者とばかり瀬川を手討にした。駒沢をも切ろうとするのを押止め、不義ではないと文を見せた。義興が見れば読みも下らぬ漢文にお傍の儒者、浅井順蔵に命じて読ませると楊貴妃と玄宗の馬嵬の別れの故事が記してあった。駒沢は瀬川に謎をかけて命を貰うつもりだったが、それを悟ってわざと義興の刃にかかった健気さをほめ、手負の瀬川は義興に名残りを惜しみつつ息絶えた。女の義心と駒沢の忠誠に眼の覚めた義興は駒沢を師として儒学に励み、宝の盗賊詮議に力を尽くすことを誓うのだった。 

 薬売りの段            

 夏休み文楽特別公演(第2部で上演)

 浜松小屋の段           

 夏休み文楽特別公演(第2部で上演)

 嶋田宿笑ひ薬の段         

 夏休み文楽特別公演(第3部で上演)

 宿屋の段             

 夏休み文楽特別公演(第3部で上演)

 大井川の段            

 夏休み文楽特別公演(第3部で上演)

 帰り咲吾妻の道草


 恋しい駒沢の情けと徳右衛門の命を捨てての忠義に眼の開いた深雪は姿も昔に帰り、待ちに待った晴れの祝言を楽しみに故郷へ急ぐ足も速く、さすがの関助も遅れがち、里の者が唄う歌も身にうれしく浪花路さして浮かれ行く。

 駒沢上屋敷の段


大坂にある駒沢の屋敷を訪れたのは、大友家の残党を討ち、岩代を伴に国元へ帰る途中の主君大内義興。 深雪も駒沢の屋敷に駆けつけ、ようやく駒沢こと阿曾次郎との再会を果たします。義興も喜び、祝言を挙げさせます。岩代は意地悪い言葉を投げかけますが、そこへ現れた駒沢了庵の一子駒沢三郎春次が、大友家と内通していた岩代の悪事を暴き、御家は安泰となるのでした。

(国立劇場発行 第45回=昭和535月文楽公演〈東京〉番付、独立行政法人日本芸術文化振興会発行 第139回=平成27年7・8月文楽公演番付より作成)

きぬたと大文字 
 解説
  昭和313月、道頓堀文楽座で初演された『四季の曲』春夏秋冬のうちの夏の巻(京の大文字)と秋の巻(想夫恋)の上演です。明治、大正、昭和のはじめにかけて美貌の歌人として一世をなした九条武子の原作に、野沢松之輔が作曲、堂本印象が美術考証、装置を担当、藤間勘十郎が振付して舞台にかけられました。

(国立劇場発行 第15回=昭和618月文楽公演番付より)

 
 資料
  

『四季の曲』初演時の資料(番附・配役・所感・詞章)〉のうち

   野澤松之輔師の所感・・・・上演資料集398号より

 九条武子さんの名は、あまりにも有名であり、平安朝の優雅ともいうべき容姿を現代に生写した、美貌の歌人、一世の麗人として、一刻の茶話のおりおり、現代女性を語る対象には、私どもの、よく口に上る方でした。

 今度、この四季の曲の作曲の話をうけた時、作品の内容も知らぬまま、唯、九条武子作といふばかりに心ひかれ、あの近松の名作を節付する時の緊張感といふのでもなく、これ迄手がけた、数ある作曲の中にもなかった別な感じ、親しさとも、なつかしさともつかぬ、心愉しい思いで引きうけた次第です。

  恋文でも見るような、心のときめきで、この歌詞に接したとき、その流麗美文に、むくむくと湧いてくる作曲意慾に、「これは有難い、近頃にない、たのしさに、自然に曲章(音符)の筆が走りそうだ、まづ身辺の用を済まして後、一気呵勢に」と、為さずもがなの雑用も片付け、さて、と、心を一新し、台本に向かったのでした、が、これはさて、ハタと頓挫、一曲一節も浮かばこそ、果ては台本を前にするときそれは、あたかも、自己催眠にかかったようで、いつか夢の中にさ迷う始末、今迄に覚えない、実に難産に難産というのが、偽りないこの作品の作曲状態でした。それも歌詞の最初2~3行に悩んでのことです。

 やっと夢中裡のインスピレーションで、漸やく出産、あとはどうやら順調に運べたものの、文字通りの苦作でした。いつもながら苦心するのは序曲の一節ですが、今度ばかりは予想外の苦しみでした。といふ弱音を、爰に告白致します。

(以下は春の巻・冬の巻についての記述につき、転載省略)

 
    かきたてし炭火わづかに夜の明けて


(日本芸術振興会発行 平成109月=上演資料集398号より)
 
 
首の名前
 役名 かしら名 
ふしぎな豆の木
母お十 老女形
非道四九三 端敵
本若丸 中子役 
おじいさん  釣船 
姉みどり  
龍魔姥 般若丸
東海道中膝栗毛 
喜多八 伴内
弥次郎兵衛 手代
伜仙松 男子役
親父 虎王
和尚 祐仙
生写朝顔話 
宮城阿曾次郎後に駒沢次郎左衛門 源太
僧月心 定之進
娘深雪後に朝顔
ねむりの娘
乳母浅香 老女形
浪人虻坂半蔵 端敵
浪人岩渕平内 端敵
奴鹿内 検非違使
宇治川の船頭 男つめ
明石の船頭 端役
立花桂庵 鼻動き
茶店のお由 三枚目
萩の祐仙  祐仙
秋月弓之助 孔明
妻操 老女形
下女りん お福 
瓜生勇蔵  源太 
奴関助  検非違使 
戎屋徳右衛門 正宗 
輪抜吉兵衛  小団七 
下女お鍋  お福
下女小よし   
手代松兵衛  端役 
岩代多喜太  陀羅助 
きぬたと大文字 
舞妓   
舞妓    
砧の女  老女形 
衣裳
生写朝顔話
宮城阿曾次郎
後に 駒沢次郎左衛門
納戸羽二重半腰、白塩瀬納戸小持縞切袴(なんどはぶたえはんごし しろしおぜなんどこもちじまきりばかま)
娘深雪 後に 朝顔 浅葱縮緬秋草友禅振袖着付(あさぎちりめんあきくさゆうぜんふりそできつけ)
 
資料提供:国立文楽劇場衣裳部
 
過去のぷち解説
平成27年4月公演「靱猿」「一谷嫩軍記」「卅三間堂棟由来」「絵本太功記」「天網島時雨炬燵」「伊達娘恋緋鹿子」 
平成27年初春公演「花競四季寿」「彦山権現誓助剣」「義経千本桜」「日吉丸稚桜」「冥途の飛脚」 
平成26年11月公演「双蝶々曲輪日記」「奥州安達原」
平成26年夏休み特別公演「かみなり太鼓」「西遊記」「平家女護島」「鑓の権三重帷子」「女殺油地獄」 
平成26年4月公演「通し狂言 菅原伝授手習鑑」 
平成26年初春公演「二人禿」「源平布引滝」「傾城恋飛脚」「面売り」「近頃河原の達引」「壇浦兜軍記」 
平成25年11月公演「通し狂言 伊賀越道中双六」
平成25年夏休み特別公演「妹背山婦女庭訓」「夏祭浪花鑑」「金太郎の大ぐも退治」「瓜子姫とあまんじゃく」 
平成25年4月公演「伽羅先代萩」「新版歌祭文」「釣女」「心中天網島」 
平成25年初春公演「義経千本桜」「増補大江山」「団子売」「ひらかな盛衰記」「本朝廿四孝」
平成24年11月公演「通し狂言 仮名手本忠臣蔵」
平成24年夏休み特別公演「摂州合邦辻」「伊勢音頭恋寝刃」「曾根崎心中」
平成24年4月公演「加賀見山旧錦絵」「祗園祭礼信仰記」「桂川連理柵」 
平成24年初春公演「七福神宝の入舩」「菅原伝授手習鑑」「義経千本桜」「壺阪観音霊験記」 
平成23年錦秋公演「鬼一法眼三略巻」「恋女房染分手綱」「伊賀越道中双六」「紅葉狩」
平成23年夏休み特別公演「絵本太功記」
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