解説
 作者は烏亭焉馬、紀上太郎、容楊黛ら。初演は安永九年(1780)正月興行の江戸外記座だった。題名の「碁太平記」の「碁」は「後太平記」の「後」から、白石の縁語として転用したもので、この一篇は希少な江戸系操り浄瑠璃のうち、福内鬼外の「神霊矢口渡」などとともに、その代表作と称されている。
 内容は由比正雪らの慶安事件を太平記の世界に移した近松半二、竹本三郎兵衛ら合作の「太平記菊水の巻」へ宮城野・信夫の仇討一件を附帯せしめたものである。
 宮城野・信夫に関する巷説としては、享保三年奥州伊達領足立村の百姓四郎左衛門が白石村で田辺志摩という藩の劒道師範に無礼討ちになったのを、当時、四歳のたかと十一歳のすみという二人の遺児が辛酸の末、享保八年に仙臺白鳥神社でめでたく親の仇討ちを遂げたと伝えられている。

 なお、この一篇は大阪へ移入されてより詞章も登場人物名も広い範囲に亘って大阪向きに改訂されており(江戸末期の改訂か、改訂者不詳)、例えば七段目の奥「すっぽんの間にも合わぬ」など、多くの大阪的諺言や語法が加えられている。

(国立劇場発行 昭和46年5月=上演資料集65号「文楽の鑑賞」山口廣一氏 より抜粋)

 
抜き書きノート 
≪新吉原と太夫≫
 庄司甚右衛門の請願で江戸に廓が創設されたのは元和三年三月のことで、場所は今の東京都中央区内に当り、その頃は葭や芦が生い茂っていたところから、葭原と名付けられたが、のちに吉原と改められた。しかし、寛永年代より名暦三年にかけて四度も火災があったので、江戸幕府から所替えを命ぜられ、浅草日本堤の近くに移った。これが後世まで長く吉原と呼ばれていた遊郭で、特に新吉原と言うのは、元の吉原に対しての呼称なのである。また遊女も創設された頃は三階級であったが、享保年代には八階級になっている。そして、いつの時代でも、その最高級は太夫で、公家も武士も及ばぬ教育を身に付けていた。但し、吉原にはこの太夫に相当する遊女が年ごとに少なくなり、宝暦年間からは全く姿を消して、それ以後は最高級の遊女を花魁と呼ぶように改められたが、花魁も品性・見識ともに高く、太夫ほどではないにしても、その存在は、やはり廓の華であった
(国立劇場発行 第18回=昭和46年5・6月文楽公演(東京)番付より)  
 
研究
 
     上演資料集〈19〉 『紀上太郎』=角田一郎氏=より抜粋

 紀上太郎(きのじょうたろう)浄瑠璃作者・狂歌作者。本名三井高業(たかなり)字は公勤。狂歌名を仙果亭由甲斎嘉栗と称する。寛政十一年(1799)四月二十三日没、享年五十三歳。法名由甲斎仙果嘉栗居士。墓碑は大阪市天王寺区生玉町浄土宗西方寺にあり、皆川沮園撰の碑文に伝記が詳しい。

【閲歴】豪商三井家の南家第四代の当主。延享四年(1747)正月八日、南家二代高博の次男として京都で生まれた。出生日は「賄方永代帳」(三井文庫蔵)に「七日九ッ半時御出生」とあり、現代の時制では八日午前一時ごろに当る。母は総本家である北家の高房の娘。幼名長次郎、十五歳元服して八五郎と改め、兄高邦の養嗣子となり、安永元年(1772)二十六歳で家督をつぎ、幕府御為替御用名前の次郎右衛門となった。天明四年(1784)三十八歳の時、長男高英に家督を譲り、三井連家の家原家に移り、家原長次郎と名乗って退隠した。

 この時まで一、二年ごとに京都本店勤めと江戸勤番を交互に行ない、大阪店にもしばしば出張している。寛政八年五十歳の時、三井家は内紛のため取り潰しの危機に瀕したが、罪を一身に引きうけ、重追放(江戸十里四方日本橋より五里宛、山城伊勢御構)に処せられて近江国大津に仮寓し、翌年剃髪して和春と号し大阪江戸堀に居を移した。寛政十一年(1799)四月二十二日、旅次伏見乗船の際に中風を発し、密かに京都家原家に運ばれて翌日没した。死後、文化十年(1813)正月、その罪を赦されている。性は質実、博学多才で、文人・画家との交際多く、旅を好んで足跡は四十州に及び、紀行・随筆も多く稿したが、特に浄瑠璃および狂歌の作者として有名である

【事蹟】〈浄瑠璃〉紀上太郎を名乗っての浄瑠璃作は、江戸の外記座上演曲四編と晩年大阪での合作一編である。江戸の作は安永五年三十歳から同九年三十四歳にわたる五年間のもので、初演の月はいずれも江戸勤番中に当っている。作者名は大阪豊竹座初期の名作者紀海音が狂歌の流祖油煙斎貞柳の弟であったのにちなんだといわれている。「きのじょうたろう」と読むことは『独判断(ひとりさばき)』序文中に明らかであるが、「紀の(海音より)上だろう」と、しろうと作者のから威張りのおかしさをもじった戯名であろう。

 初作は単独作『志賀の仇討』(十段、安永五年八月一日初演)、第二作は達田弁二を補助につけた合作『糸桜本町育』(八段、同六年三月十一日初演)、第三作は松貫四・平原屋東作と合作の立作者で『納太刀誉鑑』(十一段、同八年七月六日初演)第四作は烏亭焉馬・容楊黛と合作の立作者で『碁太平記白石噺』(十一段、同九年正月二日初演)である。

 第二作と第四作は大成功を収め、すぐに歌舞伎にも移されたが、特に第四作は現代までしばしば上演されている。大阪での作は寛政十一年四月八日初日道頓堀東の芝居上演『纐纈紺屋譜(ゆいがのここうやのけいず)』(五段続)の二段目を担当したにとどまった。
 作風は主として江戸に取材し、唄浄瑠璃と江戸歌舞伎の影響が濃く、地の文に比して詞が多い。『白石噺』では白石からの下女二名に方言を聴取し、さらに合作者の焉馬を方言調査に奥州に派遣したと伝える。なお、『白石噺』の作者連名には上太郎の名のほか三津環(みつたまき)という別号も使っている。京江戸大阪三箇の津を一環とする本業の身をしのばせる名である。大阪竹本座の名作者近松半二とも交友があって、その遺書『独判断』の出版にも協力した。

〈狂歌〉の項 省略

 (国立劇場発行 昭和63年7月=上演資料集〈19号〉「研究 紀上太郎」より抜粋 原典は『日本古典文学大辞典 第二巻』=岩波書店=昭和59・1)
 
桜鍔恨鮫鞘 (さくらつばうらみのさめざや)
解説 
 古手屋八郎兵衛が馴染みの遊女お妻を誤解から殺したという「お妻八郎兵衛」伝説に取材した世話物です。
 『裙重浪花八文字(つまかさねなにわはちもんじ)』(1769)の「第六」の詞章を適宜借用してまとめたもので、初演、作者、段数は未詳です。
鑑賞 
 「桜鍔恨鮫鞘」は「お妻八郎兵衛」の通称で知られる代表的な世話浄瑠璃で、歌舞伎では松嶋屋(片岡仁左衛門家)の家の芸として伝わっている狂言ですが、文楽・歌舞伎共になかなか上演の機会に恵まれません。
  実説に関しては諸説あって定かではありませんが、お互い愛し合う身でありながら、男の難儀を救うため女が心にもなく男を罵り恥をかかせて縁を切るという、いわゆる「縁切り」物の代表的な作品としていつも挙げられる演目です。ことにこの作品は、女の側を「無筆(むひつ)」という設定にし、せめてこれだけは言い残しておきたいという内容を口移しで子供に覚え込ませる趣向が異色です。
  『菅原伝授手習鑑』の「寺子屋」同様、主人公は主君への忠義のために非人間的な行動をとり、またそれを賞賛する封建道徳賛美の物語、という捉え方がなされた時代もありましたが、それは表面的な解釈に過ぎず、そうした封建道徳に押え込まれた人々、特に女性の、それ故にこそ尊い夫や子を思う愛情の深さ、純粋さをテーマとして汲みとるべきでしょう。

  (日本芸術文化振興会発行 第52回=平成5年11月文楽公演番付より)
 
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団子売 
解説 

 江戸時代の市井風俗の一つとして、当時流行の物売りの風流洒脱の興趣が俗曲に取り入れられたことは当然のことである。物売りの呼び声や、風俗に各々特色のあることは今日もその名残りを見ることが出来るが、当時の社会としてこれらは競って特異な風俗を持って居た。古く土佐とか半平太とか云う古浄瑠璃にもこれが取材されて頗る流行したが、近松以降の浄瑠璃各流、或は長唄等に於て物売りの曲は所作事として極めて発達したのである。

 古浄瑠璃に「花売り」「花火売り」「団扇売り」「扇売り」「破魔弓売り」「鶯売り」「絵草紙売り」などの市井風俗が已に取り入れられて居り、歌舞伎狂言の中にも例の「白酒売り」「外郎売り」はじめ「荵(しのぶ)売り」「虫売り」、その他所作事として取り上げられたものは数知れずある。その中に「影勝団子(かげかつだんご)」というのがある。夫婦の団子売りが所作面白く口上を云い立てると云う踊りで、清元の「玉兎」もこの踊りに胚胎して居り、「団子売」はこの系統を引くものである。本文にある「飛び団子」と云うのは「影勝団子」の異名で、その口上など当時の市井スケッチであろうと思われる。

 (独立行政法人日本芸術文化振興会発行 平成2512月=上演資料集576号「音冴春臼月(ねもさゆるはるのうすづき)団子売の段」より
 原典は「四ツ橋文楽座筋書」昭和254月)
 
 参考

―人形の手 ハイたたき・踊り手― (上演資料集576号 大西重孝氏)

 文楽の人形にはいろんな性格をもった「かしら」が用意されていると同様、「手」もまた人物と演技によっていくつかの種類がある。
 享保12年(1727)初演の『摂津国長柄人柱(せっつのくにながらのひとばしら)』の二段目「三輪明神」で還幸の天皇の車が入鹿方のために襲われ、車の中には八王丸という青年が代りに忍んでいて大暴れになるところがある。これは後に『菅原』の[車曳]に流用されているが、この八王丸の人形にはじめて五本の指が動く工夫がなされたと記録に残っている。

ハイたたき・踊り手

五本の指が一つになって、甲の部分から真直ぐに伸びて、手首だけしか動かないものがある。「ハイたたき」と呼んでいる。おどけた動きをする軽い人物に用いる。それよりも細身で、指がそり加減に出来ているのを「踊り手」という。踊る部分の多い役に用いる特殊なものである。『団子売』で杵造が「お月様さへ・・・」と軽妙な振りを見せる掌(てのひら)をかえしてかざした場合、両の手を前と後ろに伸ばして下手へ軽く飛ぶ場合にこの「踊り手」の効果をみせる。

 (独立行政法人日本芸術文化振興会発行 平成25年12月=上演資料集576号より抜粋 原典は『文楽人形の芸術』演劇出版社 昭和43年5月)  
 
 
玉藻前曦袂 
 
 
鑑賞

  戸部銀作氏  第62回文楽公演(東京)=昭和579月番付より

 殺生石伝説の戯曲化は、謡曲にまず取り入れられ、江戸時代になって歌舞伎や人形浄瑠璃で扱われたが、後の“玉藻前”物の根元となったのは享保十六年(1731)九月豊竹座以前の初演と推定される紀海音の「今様殺生石」。鳥羽院の御代、妖狐が玉藻前となり、たたりをなすが、安倍保成の祈禱により那須野に去り、上総介広常、三浦介義常の二人がこれを退治するというストーリー。 

 この作を踏み台に、寛延四年(1751)正月豊竹座で「玉藻前曦袂」が上演された。作者は浪岡橘平、浅田一鳥、安田蛙桂。外題の角書に「那須野狩人、那須野猟師」と出ており、那須野が原の殺生石の伝説を題材とし、鳥羽帝の兄の薄雲皇子の反逆と、妖狐の化けた玉藻前を取り合わせた内容。

 その後、“玉藻前”物の上演は、あまりないが、文化元年(1804)より二年にわたって高井蘭山の小説「絵本三国妖婦伝」十五巻が刊行された。中国・天竺・日本の三国で、妖婦に転生して、国を危くさせた白面金毛九尾の狐の物語によったが、作者は紂王と妲妃、班足太子と華陽婦人、幽王と褒姒、鳥羽帝と玉藻前を組み合わせ、一個の妖狐を転生させて関連を持たせておき、最後に殺生石教化により大団円としている。

 この小説の人気を利用したのが、文化三年三月、御霊宮境内芝居初演の「絵本増補玉藻前旭袂」で、添削―梅枝軒・佐川藤太となっている。寛延四年の作を改作したのはもちろんだが、中国や天竺の件は、「絵本三国妖婦伝」を脚色している。三国にまたがってのスケールの大きさ、スペクタクル性を小説より取っている。

日本の玉藻前だけを扱った前作と違い、本作は大当りとなり、その年の十月には名古屋の大須芝居で再演され、幕末期から明治にかけて、繰り返し舞台に掛けられた。なお、この“三国妖婦物”は、四世鶴屋南北が脚色し、歌舞伎でもケレン味たっぷりの夏狂言として、しばしば上演された。歌舞伎のようにケレン狂言の数が多くないので、西遊記を扱った「五天竺」とともに、本作は代表的なケレンものとして大いに流行した。

(国立劇場発行 第62回=昭和579月文楽公演(東京)番付 鑑賞ガイドより抜粋)

 
 
 
《神泉苑》 

 京都に大内裏を造営した時に、平安京の皇居内の庭園として創設されたもので、いわゆる天皇の遊覧地であったが、ここに空海が善女龍王を勧請して、雨乞いの加持祈祷を行なってから、請雨の修法の道場になった。また、源義経の寵愛した静御前が、神泉苑で雨乞いの舞を舞って、雨を降らせたことも俗説に名高い。この神泉苑の旧址が、今も中京区に残っている。即ち、もと真言宗東寺派の直轄地で、その東寺派は教王護国寺の通称である。

(国立劇場発行 第62回=昭和579月文楽公演〈東京〉番付より)

《美福門院》 

 鳥羽天皇の皇后で、藤原中納言長実と源俊房の娘の方子の間に生まれ、名を得子、法号を真性尼と言う。美福門院は久安五年(1149)宣下によって称したもので、美福は一般にビフクと読まれているが、ミフクと読むのが正しい。鳥羽法皇を説いて、自分の産んだ近衛天皇を即位させ、その薨去後は、崇徳上皇の皇子の重仁親王を退けて後白河天皇を即位させた。これが保元の乱の原因であるが、永暦元年(1160)四十四歳で歿している。

(国立劇場発行 第62回=昭和579月文楽公演〈東京〉番付より)

 
《伝説・玉藻前と殺生石》 

 鳥羽天皇のころ仙洞御所に現れ、天皇の寵を一身に集めた絶世の美女の玉藻前は、天皇の御病臥の際に陰陽師の安倍泰成が占ったところ、白面金毛九尾の狐の化身と解り、本性を見破られた妖狐は、京の都から遠く下野の那須野ケ原に飛び去った。そこで勅命を受けた武将の三浦介義澄と上総介広常の二人が、犬を狐に見立てて武術を練り、那須野ケ原に赴いて妖狐を退治した。すると狐の怨霊が石と化し、近付くものは勿論、その上を飛ぶ鳥も死滅させる毒気を噴出するので、世に殺生石と呼ばれて恐れられていた。但し、後深草天皇の時、そこを通った美作の化生寺の玄翁和尚が杖で一打ちすると、石の一端が割れて狐霊が出現し、成仏して消え失せた。また割れた石の一片が化生寺の境内にも飛んでいる。この変化自在な年経た妖狐は、天竺で摩羯国班足太子の妃の華陽夫人になり、唐土では殷の紂王の妃の妲妃になって国を乱し、そののち日本に渡来したものであった。

 (国立劇場発行 第31回=昭和499月文楽公演〈東京〉番付より)
 
『玉藻前曦袂』ゆかりの地巡りはこちら 
 
首の名前
 役名 かしら名 
碁太平記白石噺
庄屋七郎兵衛 正宗
志賀台七 小団七
家来丹介 端敵 
百姓与茂作  武氏 
妹おのぶ  
家来貫平 端敵
豆蔵どじょう 端敵
豆蔵どじょう 鼻動き 
大黒屋惣六  検非違使 
茶店亭主 端役 
悪者観九郎 端敵
傾城宮城野 傾城 
禿しげり  女子役 
新造宮里 お福 
新造宮柴
桜鍔恨鮫鞘 
香具屋弥兵衛 陀羅助
てんぽの十兵衛 斧右衛門
お妻の母
女房お妻 老女形
娘お半 女子役
古手屋八郎兵衛 検非違使
仲仕銀八 検非違使
団子売 
団子売杵造 源太
団子売お臼
団子売お臼 お福
玉藻前曦袂 
薄雲皇子 口あき文七
犬淵源蔵 端敵
息女桂姫
安倍采女之助 源太
息女初花姫
後室萩の方 老女形
鷲塚金藤次 鬼一
中納言重之卿 検非違使
仕丁甚太平  鼻動き
仕丁平作 又平
玉藻前実は妖狐 両面
玉藻前実は妖狐 玉藻前 
美福門院  老女形 
傾城亀菊  傾城 
禿文宇野 小娘 
内侍の局  悪婆 
持兼の宰相  かに
お末  お福 
右大弁  斧右衛門 
安倍泰成  検非違使 
座頭  座頭 
在所娘 
   
いなせな男  源太 
夜鷹   
  与勘平 
女郎  お福 
玉藻前  玉藻前
衣裳
碁太平記白石噺
妹おのぶ 萌葱紬中振袖石持着付(もえぎつむぎちゅうぶりそでこくもちきつけ)  ・ 鴇縮緬文庫帯(  ときちりめんぶんこおび)
傾城宮城野 浅葱繻子花扇面流水縫胴抜(あさぎじゅすはなせんめんりゅうすいぬいどうぬき)   ・ 黒繻子唐獅子牡丹縫打掛(くろじゅすからじしぼたんぬいうちかけ)
玉藻前曦袂 
玉藻前 朱地唐織万寿菊唐草小袿(しゅじからおりまんじゅぎくからくさこうちぎ)
 
資料提供:国立文楽劇場衣裳部
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ぷち解説
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