新版歌祭文
 解説
  「新版歌祭文」の初演は、安永9年(1780)9月28日初日の竹本座。作者は近松半二の単独作であり、作者55歳の時です。この作品は角書にもあるとおり有名なお染・久松の心中事件を脚色したものであり、この作品が生まれるまでに「心中鬼門角(しんじゅうきもんかど)」(中田嘉右衛門作)「袂の白しぼり」(紀海音作)「染模様妹背門松」(菅専助作)などの先行作品がありますが、「歌祭文」をもって終止符を打たれた感があります。

  「歌祭文」は、世話物とはいっても、純粋のそれではなく、悪党共の奸計や騙り、刀の詮議、改心の愁嘆などがあったりして、筋はむしろ歌舞伎仕立てです。それは当時の浄瑠璃一般の傾向であり、また作者の特色でもありました。

  近松半二は不振を続ける人形浄瑠璃に、歌舞伎的特色を取り入れることによって、その繁栄を盛り返したのであり、その顕著な例を明和8年(1771)正月の竹本座に上演した「妹背山婦女庭訓」にみることができ、それまでの衰退を一挙に挽回したと伝えられています。まさに半二は人形浄瑠璃にとって、救世主といえましょう。

(国立劇場発行 第17回=昭和621月文楽公演番付より)

 
 野崎村 その後のお染と久松は・・・
  久松は久作の妹で乳母であったお庄と出会います。お庄は久松の実家である相良家再興の為に必要な宝剣を探し求め奔走しています。その宝剣は鈴木弥忠太が山家屋へ質入れしていると分ります。お庄は弥忠太に宝剣を取り戻してもらうよう掛け合いますがうまくゆかず、また運悪く久松とお染が取り交わした起請文を弥忠太に拾われてしまいます。(長町の段)

  所変わって油屋では佐四郎が貸した金を笠に着てお染との祝言を迫ります。手代小助は久松を罪に陥れようとしますが、油屋のお勝によって見破られます。さらに弥忠太が最前の起請文を種に強請りに来ます。しかし、これもお庄の息子であることが分かった勘六の機転でうまくかわすことができました。お勝の説得によりお染は山家屋への嫁入りを承諾しますが、心では死を覚悟するのでした。お庄は探していた宝剣を弥忠太から取り戻すことに成功しますが、時すでに遅くお染と久松は心中していたのでした。(油屋の段)

 (独立行政法人 日本芸術文化振興会発行 第161回=平成1912月文楽公演〈東京〉番付より)
 
抜き書きノート 
≪坐摩明神≫
  座摩を“ざま”というのは通称で、正しくは“いかすり”と読み、その座摩明神は大阪市中央区久太郎町の座摩神社の俗称である。創始は古代に神功皇后が懐妊の身で、遠征から帰った時、ここの石上に座摩大明神を鎮座したことによると伝えられ、仮名草子の「浮世物語」の中にも、“座摩の明神に参りつつ、この御神は難産のうれへを守り給ふ”と書かれている。本地は薬師如来で、陰暦6月22日の祭礼も、今は7月の同日に行われる
(国立劇場発行 第71回=昭和59年12月文楽公演〈東京〉番付より)  
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関取千両幟 
解説 
  18世紀中ごろの大阪相撲界のスター、稲川と千田川をモデルとした九段続きの世話物です。稲川が贔屓筋より千両の小判をつけた幟を贈られたことが、芸題になったとも言われています。
   近松半二ほかによる合作で、1767(明和4)年に大阪竹本座で初演されました。「猪名川内より相撲場」は二段目です。
 (日本芸術文化振興会発行 第48回=平成411月文楽公演番付より)
 
これまでのあらすじ 
 人気絶頂の力士猪名川を贔屓にする鶴屋の若旦那礼三郎は、錦木太夫と深い仲。その錦木を狙うのが、一原九平太という侍で、礼三郎が用意した身請けの金を騙し取ってしまいました。それでも礼三郎は金を支払い、あと必要なのは二百両だけ。鶴屋に恩のある猪名川が、その工面を引き受けます。
  (日本芸術文化振興会発行 第48回=平成4年11月文楽公演番付より)
抄録 

芸談 『関取千両幟』の三味線について

・・懐かしい思い出とともに・・三代 野沢喜左衛門師  

(上演資料集488号より)

綱造先生のこと
  私が『関取千両幟』と深く関わるきっかけになったのは、この三味線を得意とされていた名人の鶴沢綱造(四代)先生の時に、高音と胡弓を勤めさせていただいたことやと思います。戦後に文楽が二派に分裂して、三和会に所属して公演に参加していた頃やから、今から半世紀以上前のことです。初舞台を踏んだばかりの十代後半でした。

綱造先生の『関取千両幟』
  綱造先生の三味線は、撥を持つ右手も、棹を持つ左手も、もの凄くよく動きました。それも、単なる“豪腕”とか“強い腕っ節”という表現では言い尽くせません。先生の隣に座っていても、勢いの強い風が吹いてくるような迫力に、圧倒されそうになった記憶があります。また、カス撥が一切なく、撥さばきの見事な冴えと切れは晩年まで変わりませんでした。高音の演奏で床の裏におりましても、極め撥の鋭い三味線の音など、突き抜けてくるように感じました。

よきお手本と自分の工夫
  綱造先生のツレ弾きや三曲、高音や胡弓を何度か勤めた後、昭和32年1月の大阪三越劇場でこの狂言が上演された時に、18歳の私は、親父や鶴沢燕三(五代)兄さんと共に、櫓太鼓曲弾きを勤めました。この時の詳細が雑誌の写真記事で紹介されて、その記事はスクラップにして今も大事に保管しております。その前後に、曲弾きだけでなく、『関取千両幟』全般のことも含めて、三人の師匠から指導を受けました。
  まずは綱造先生です。床の裏で聞いただけでなく、ツレ弾きなどで先生の隣に座って、ご一緒に演奏させていただき、その迫力を体で感じ取ることができて、どれほど役に立ったことか。
  さらに先代の鶴沢寛治(六代)師匠に習いました。教えていただいた時期は、すでに文楽が二派に分裂しており、寛治師匠は因会、私は親父と共に三和会、一緒に舞台に立つことは考えられませんでした。いわば“敵将の息子”であった私を大事にして下さり、今から考えると、よく一生懸命教えて下さったと思います。有難いことです。
  寛治師匠には、曲弾きの面白さや、その具体的なテクニックを中心に、教えていただきました。
  全体的なことは親父から細かく教わりました。当時は、まだ一段を演奏する立場ではありませんでしたが、「将来はしっかりやるように」と教えてくれたんです。
  そして、私の『関取千両幟』で欠かせないものがあります。大阪の上本町で病院を営んでおられた木村先生という方から、三代鶴沢清六師匠の櫓太鼓の三味線を収録したSPレコードを頂戴したんです。これを聞いた時に、またショックを受けました。昔のレコードなので、録音や回転数の具合など、清六師匠の弾き方を正しく伝えているかどうかはわかりませんが、「櫓太鼓曲弾き相勤めます」の口上の後、タッ、タタッという、綱造先生とはまた違う鋭い迫力の演奏に驚きました。その後も畳みかけるような演奏で、「これはすごいな」と感心して、なんとかこの感じを取り込むことができるように努めました。
  綱造先生の豪腕が生み出す勢いと切れのある撥さばき、寛治師匠が教えて下さった曲弾きのテクニック、親父から教わったこの作品の描く性根や演奏の心構え、そして三代清六師匠の音の鋭さ、以上を基本として、自分なりの工夫を加えていきました。


  本公演で久々に手掛けたのは、昭和61年7月国立文楽劇場でした。この時に「櫓太鼓曲弾き」を次の時代に継承して欲しいという思いを込めて、それまで私一人で演奏していましたが、ツレ弾きを出しました。また、「相撲場の段」で猪名川と鉄ヶ嶽の取り組みの場面が復活されたので、「櫓太鼓曲弾き」や復活場面の補曲も含めて、全体を再構成しました。

おわりに
  私は、若い頃から親父の作曲や補曲を手伝っていたおかげで、『夫婦善哉』などの新作や文楽以外の作品も含めて、約130曲の作曲や補曲を手掛けました。『関取千両幟』でも、昔は長かった曲弾きでは、現在のお客様の感覚に合うように、演奏時間を考慮して、技術が難しかったり効果のないものをカットするなど、先人から受け継いだ芸を土台にして、アレンジを加えました。それがご好評をいただき、私自身の代表曲の一つとして思い入れの強い作品となりました。是非、次の世代の皆さんにも、常に自分なりの努力と工夫を重ねながら、継承して演奏してもらいたいと、願ってやみません。(平成17年12月23日 喜左衛門氏自宅にて。聞き書き。)

(独立行政法人 日本芸術文化振興会発行 平成182月=上演資料集488号より抜粋)  
 
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解説 
  能狂言の「釣針」をもとにして歌舞伎に作られた常磐津の舞踊劇「釣女」をさらに文楽に移入したものです。
  歌舞伎で初演されたのは明治34年(1901)で、この時は「戎詣恋釣針(えびすもうでこいのつりばり)」という名題でした。
  文楽は昭和11年(1936)、初代鶴沢道八の作曲で初演されました。もとが狂言だけに、ユーモラスな一幕になっています。
 (日本芸術文化振興会発行 第69回=平成101月文楽公演番付より)
 
 逸話

景事 釣女の作曲   三味線道八師に残る逸話  
  
「釣女」は長唄や常磐津に取入れてあるが、文楽には鶴沢道八が作曲した。道八が清水町の名人団平に三味線の教えをうけたいと思うがむつかしい。ソコで団平の家の横が路次でソノ奥にあき家がある。この家は女の幽霊が出る人魂が出る風評で誰もこの家を借りない。これを借りた道八(友松時代)には考えがあった。団平の台所口と向いあっているのでスグ女中と心易くなったお内儀の千賀女は「壺阪」や「二月堂」の作者であったが顔を見ない。
  友松は文楽に出入りはするが給料が安いのでアキ家同様の中で冬は野良犬を抱いて暖をとっていた。或る日団平が、手水を使って「うら口」を出てこの家を覗いた。「オイ友松や暗いなあ、畳ひいてないのか」と云った。それから団平が友松の稽古を承知した。筋がよいから段々出世して友松は靭や浮世小路に稽古場を持つようになったが団平の「狐火」や「吃又」などにつれ引のときは、友松は伏見稲荷に日参して、お山の七本の滝にうたれた。この信心のおかげで「阿古屋」や「堀川」は、ほめられるほど面目を施したそうだ。団平は小さい撥が好きで百二三十匁のもので軽いもの重厚のものを自由自在に弾いたが、全弟子も皆薄い小さいバチを使うた。大体三味線弾きは大きい重いものが自慢で百五十匁、二百匁を使って腕の強さを誇っていた。このバチは撥先、握り、撥尻(さい尻)の三つの釣合いがむつかしいものだ。道八の弟子であった四代目鶴沢清六の音色の見事さは今も私たちの耳に残っている。(「文楽友の会通信」第6号)

 (国立劇場発行 昭和60年5月=上演資料集239号より)  
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解説
  近松門左衛門の名作の一つに数えられています。岡本文弥の『国仙野手柄日記』を参考にした、五段からなる時代物です。正徳5年(1715)11月大阪竹本座で初演、17ヶ月に渡るロングランを記録しました。
  角書きに「父は唐土母は日本」とあり、日本と中国の血を引く(和藤内という名は「和」でも「唐」でも「ない」という洒落といわれています)、後の鄭成功(ていせいこう)が、動乱の中国に渡り、明の再興を計って清と戦った史実を基に書かれています。
  本作は変化に富み、舞台効果も優れています。日本・中国を舞台に繰り広げられる大ロマン。華やかな中に悲惨な戦を挟み、当時大いに高まっていた日本国民精神、日本武士の義理人情などが縦横に描かれています。
  なお、国姓爺の「姓」は中国における正字ですが、近松はわざと「性」の文字を用いたものと見られています。
(独立行政法人 日本芸術文化振興会発行 第109回=平成20年1月文楽公演番付より)
 
この後の物語 
四段目以降の展開
  小むつは武術を鍛錬し、栴檀皇女を伴って唐土に渡ります。呉三桂は山から山に隠れ住み太子を育てるうち、九仙山で碁の勝負に興じる二人の仙人から、和藤内の連戦連勝のありさまを知らされます。太子は即位して永暦皇帝となり、呉三桂、甘輝、和藤内は南京城を攻略。韃靼王を捕え、李天を処刑し、ここに天下が治まるのでした。
(国立劇場発行 第3回=昭和597月文楽公演番付より) 
 
 
国性爺の実説
  実在の人物である鄭成功の父は、今の中国に当る明から日本の九州平戸に亡命して、日本人の妻との間に成功を儲けたが、明が正保元年(1644)に隣国の清に侵略されたので、成功は父母と共に彼の地に渡って活躍した。明の皇帝はその壮挙を賞して、朱という国姓を成功に与えたが、この壮挙も成功が39歳の若さで病歿したため中断された。但し、成功の活躍は鎖国当時の日本の民衆にとって、血沸き肉踊る事実譚であった。  
(国立劇場発行 第52回=昭和552月文楽公演〈東京〉番付より)
芸談
 『玉男芸話』(上演資料集430号より)一部分抜粋
  『国性爺合戦』甘輝の初役は、48年10月の朝日座です。この時は二段目からの通しで、和藤内は玉昇君、錦祥女は清十郎君、老一官が作十郎君、その妻は文雀君でした。
  この演目はほとんどの場面が中国で、装置や小道具、衣裳も独特です。甘輝ももちろん、普通の立役とは異なる扮装。人形拵えは、特別に難儀というほどではありませんが、袖の長いのには少々てこずります。肩板から腕を吊る時も、紐はぎりぎり短くしているのですけど、それでも衣裳を手繰らないと、手が出にくい。小道具の団扇や煙管も持ちにくいのですよ。
 
 加えて、衣裳が重いので、ともすれば二の腕が往んでしまう。それを防ぐために、両腕を組んだり、煙草を吸うシーンでは、人形の右手をうんと前に伸ばし、上腕部がたるまないよう、肘を張って形を整えます。それにしても巨大な煙管ですね(笑)舞台だから多少は誇張してあるのでしょうが、昔、戦争で中国大陸にいた時、休みの日に中国人のお宅へ遊びに行かせてもらうと、お爺さんがよく長い煙管で煙草を吸っておられました。若い人はさすがに紙の巻煙草でしたけどね。
  もうひとつは、やはり衣裳が大層ですから、あれくらいの大きさでないと、つろくしない。見た目のバランスが悪いということでしょう。

  首は大きめの検非違使で、立派な髭も蓄えているのですけど、これまた、衣裳との釣り合いを取りにくい。かといって、文七では似合いませんし、遣いにくい。やはり、分別のある役柄ですので、検非違使が一番ふさわしいのです。和藤内は人形が大きいので、中国服も映る。かたや甘輝は、軽い人形で、人間の重みを表現しなければなりません。
  難しいのは、結局そこですね。出の一瞬から、一国の将軍としての威厳をいかに現すか。出番はそれほど多くないのですけど、常に泰然自若としている。老母の話を聞いて、和藤内に味方するために、まず妻の錦祥女を手にかけようとするところ、また後半、錦祥女が自ら命を断ったことを知っても、動じることのない精神力など、全体に気の許せない役です。
  日本人と中国人が、通訳もなしに会話しているのも、考えたら不自然な話ですけれど、初演時には、中国大陸を舞台にしたスケールの大きな物語として喜ばれたのでしょう。珍しい風俗や、虎狩りの勇壮さも、人気を生んだ背景ではないでしょうか。
(日本芸術振興会発行 平成13年2月=上演資料集430号より抜粋)
 
首の名前
 役名 かしら名 
山家屋佐四郎 陀羅助
丁稚久松 若男
手代小助 手代 
山伏法印  鼻動き 
油絞り勘六 小団七 
鈴木弥忠太 端敵
娘お染
下女お伝  
下男喜八 端役 
岡村金右衛門 端敵
娘おみつ  
親久作  白太夫 
祭文売り 端役 
下女およし お福 
おみつの母  
油屋お勝 老女形 
船頭 男つめ 
駕籠屋 男つめ
 
猪名川 文七
鉄ヶ嶽 金時
女房おとわ 老女形
大坂屋 端役
呼遣い 端役
行司 源太
北野屋 定之進
 
太郎冠者 又平
大名 検非違使
美女
醜女 お福
 
大明皇帝 検非違使
右軍将李蹈天 金時
使者梅勒王 与勘平
司馬将軍呉三桂 文七
栴檀皇女
柳哥君 老女形
安大人 釣船
和藤内 大団七
女房小むつ  老女形 
鄭芝龍老一官  鬼一 
老一官妻 婆(時代) 
錦祥女   
五常軍甘輝  検非違使 
衣裳
丁稚久松 樺色紬着付(かばいろつむぎきつけ)
娘お染 黒縮緬花に蝶友禅振袖着付(くろちりめんはなにちょうゆうぜんふりそできつけ)
 
猪名川 紫繻子いな川台付力士着付(むらさきじゅすいながわだいつけりきしきつけ)
鉄ヶ嶽 黒縮緬御幣台付力士着付(くろちりめんごへいだいつけりきしきつけ)
  
和藤内 黒天鵞絨縄繍平袖大寸着付(くろびろーどなわぬいひらそでだいすんきつけ)
 
資料提供:国立文楽劇場衣裳部
 
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ぷち解説
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