首の名前
妹背山婦女庭訓
 
 
 解説
 蘇我入鹿の横暴、藤原鎌足の入鹿誅伐、そしてそこに引き起こされる親子・ 恋人同士の別れを描いた王代物の傑作です。猿沢池の衣掛柳(きぬかけやなぎ)伝説、春日大社の神鹿殺しにまつわる石子詰の伝説、三輪伝説など、大和地方の伝説が取り入れられています。
 五段続きで、作者は近松半二ほか、明和八年(1771)年に大坂竹田新松座(竹本座)で初演されました。
(独立行政法人日本芸術文化振興会発行 第118回=平成22年4月文楽公演番付より) 
 題材
 蘇我入鹿の暴虐と藤原鎌足の入鹿討伐が主要な題材となっている。これは謡曲『海士』、幸若舞曲の『たいしょかん』などに見る珠取伝説と結合し、大職冠物として、古浄瑠璃にも諸種の類作があり、竹田出雲の『入鹿大臣皇都諍』にも及んでいる。
 作者半二はこれらの中から入鹿討伐を摂取して、それに大和地方に行われた采女の絹掛柳の伝説と神鹿殺しの石子詰の十三鐘の説話などを取り合わせ、さらに謡曲『三輪』の苧環の伝説を総合、翻案構成した複雑な戯曲である。なお山の段の趣向は『役行者大峯桜』の三段目、矢背の場の構図を踏襲したものであり、明和三年の『源太騒動』(綾足の『西山物語』秋成の『死者の咲顔』)よりヒントを得たものと言われている。
(国立文楽劇場発行 平成6年4月=上演資料集〈26〉より
これまでの物語・・・・ 
 初段 〈大序〉 「大内の段」  
 天智天皇の宮中には、蘇我蝦夷・安倍中納言行主・大判事清澄・宮越玄蕃たちが一堂に会している。そこへ太宰少弐の後室定高が大内に参内して娘雛鳥に婿を迎えて跡目相続させたいと願い出て退出する。やがて、鎌足が遅れて参内する。蝦夷大臣は、鎌足の娘采女の局が帝の寵愛をうけ男子が誕生したのをよいことに、鎌足に反逆の疑いがあると主張して謹慎を命じる。

(国立文楽劇場発行 平成64月=上演資料集〈26〉より)

この後の物語 
  橘姫は、十握の剣を盗み出すが、それは偽物であり却って兄の入鹿に肩先を斬られる。折から聞こえる笛の音に入鹿が鹿の性質があらわれて正体を失うと、十握の剣は竜となって空中に飛び去る。やがて、鎌足は玄上太郎と淡海を率いてやってきて、竜となった十握の剣は自分の袖に入って元の宝剣に戻ったと話す。さすがの入鹿も神鏡の前に目がくらみ玄上太郎、金輪五郎にとりおさえられ鎌足のふるった焼鎌によって首をはねられる〈入鹿討伐〉

 都は江州志賀に移り、大内では入鹿討伐に功あった者についての恩賞任官のことが決められ、さらに久我之助と雛鳥の追福がいとなまれる。〈五段・志賀の皇居〉
  (国立文楽劇場発行 平成64月=上演資料集〈26〉より)
演目の探訪=抜き書き集 

【1】 昭和15年4月発行『浪花名物 浄瑠璃雑誌』より抜粋

・・・四月の文楽浄瑠璃人形芝居合評記・・・
                          鴻池 幸民氏
                          武智 鉄二氏
                          森下 辰之助氏
                          樋口 吾笑氏
  「妹背山婦女庭訓  金殿の段」 切   豊竹 古靱大夫
                     三味線 鶴沢 清六

 此の金殿総じては結構でした。前の講七(原文ママ)に比して立派な出来であつたと思ひます。只前段のお三輪に喰たらぬ処がありました「さつきのお清殿とは寺友達」以下「聞けば聞く程涙がこぼれて、あた目出度い事ぢやげな」のあたり「己れヤレ拝んでなりと腹癒よ」も「拝まして貰ふたら、忝う御座ります」など苦心の作品でありながら後段の疑着の物狂はし気を引立てん為か何となく喰たらぬ様に思ひました。
 私はお説の箇所が疑着の下拵へと官女の手前との変りを語ろうとして居る点は受取れましたが、只モウ一息其点に対しての本よみが足らなかつたと思ひます。其例は「たばこのめ」を憂ひに語つて「あた滅相な」まで響いて来てそれが平凡な詞に聞えた憾みがありました「己れヤレ拝んでなりと」にもそんな感じが欲しかつたと思ひます、然し其外の処は殆んど半句ごとに変化があつたのは感心の外ありません「さつきのお清殿」の云ひ方は文章が読み切れて居ませんでした「千箱の玉」以下は絶品でした。
 私も「千箱の玉」以下は無類と思ひますが前半には大部異見があります。それは「道からとんと見失ふた」の次に息の間がほしかつた「見やるよりさき」などいつもならもつと此大夫独特のよい音づかひがあるべき処ですが・・・
 豆腐の御用全部に対して大夫自身ガアアてれてしまふてはいけません、冒頭の間までが此の大夫としては不充分な出来であつたのは恐らく此の豆腐の御用を語るのがいやだと云ふ事が累をなしたのでせう。然し豆腐の御用を語る以上には古靱自身の趣味に反しても豆腐の御用に徹底して貰ひたいと思ひます。
 武智さんの豆腐の御用の累ひ説は誠に新発見至極です、冒頭に限定されずに「サアゝゝひよんな事が出来た、ほんにゝ油断も隙も」以下にも古靱として何となく喰ひたらぬのが随所に見へたのも同じく豆腐の御用の副作用からでせう。
 それは同感です「行かんとせしが」以下古靱としては普通すぎる浄瑠璃でした、尚「心も空、登る階」が此人としては大に喰足りません。三味線も前半は太した出来とは云へません、殊に「藪うぐいす、トン」此トンは男のトンでした。
 後半に於ては申分のない出来でした、此の上に注文も希望もありません。
 要するに此一段は古靱の口になくても柄にあると云ふべきで、それに今度の金殿ほど四段目らしい格を持つた金殿は一度も聞いた事も見た事もありません。人形では栄三の金輪五郎が当代随一で刀を突込む前に二度泣いたり、其あとで憂ひの腹を持つてうなだれて居る処などよくもあれ丈周到に使へたものだと頭が下る思ひがしました。

(日本芸術文化振興会発行 上演資料集349号=平成64月より抜粋 原出は昭和154月発行 「浪花名物浄瑠璃雑誌」) 

【2】 内山美樹子氏「浄瑠璃再発見(三)」より抄録

・・・女庭訓と遥かなる古代・・・
 「妹背山婦女庭訓」四段目道行でお三輪が「女庭訓しつけがた。よふ見やしやんせ」という「女庭訓」は、「江戸時代の女の教訓書」と基本的には定義されています。「女庭訓御所文庫(明和4年・1767)「女庭訓躾種(しつけぐさ)」あるいは「女教訓躾方」といった本が、多数出版されていますが、それらの多くは堅い教訓書ではなく、きれいな絵が豊富に入り、女性用の通俗的教訓譚と、古典文学の啓蒙的解説、および日常生活に必要な諸手引きを載せた、いわば女性全書です。「一冊あれば女の読書は事足りる、面白くためになる本」として重宝がられ、版を重ねていったものです。
 小さな酒屋の娘のお三輪も寺子屋を卒業し、今日はその寺子屋の七夕パーティに招かれて、帰ってきたところです。寺子屋で習った乞功奠(きっこうでん・後の七夕祭り)のことや和歌のことを、無邪気に求馬に話して聞かせるのですが、求馬(=淡海)はもちろん大臣の子息で、和歌や宮廷行事である乞功奠については専門家です。田舎の町の娘でも風流な話をするとは、庶民の教育程度も上がったものだ、などと淡海は思って聞いていたのでしょう。「女庭訓しつけがた。よふ見やしやんせ」と、例の女性全書を読んでいることを得意がって、橘姫をやりこめるお三輪ですが、相手はこれも大臣の姫君、伊勢物語や源氏物語も原文で読んでいる(・・・・時代錯誤でした)のですから、お三輪の無邪気さはいじらしい限りです。

 「妹背山婦女庭訓」では、各段で、夫婦、恋人同士、つまり妹背の中での女性の犠牲と献身が謳い上げられ、題名につながるテーマともなっています。が「妹背山」のもう一つのテーマは古代憧憬ではないでしょうか。「古へ(いにしへ)の。神代の昔」と語り出す三段目「山の段」、「岩戸隠れし神様は」で始まる四段目道行、三輪の苧環(おだまき)伝説や絹懸柳(きぬかけやなぎ)伝説、そして大化の改新の時代設定、作者は明確に、遥かなる古代ロマンをイメージしていると思われます。半二が直接書いていない道行でも、段切り近く、太夫も三味線も走り、人形も一きわ躍動するなかで「花よりしらむ横雲に。たなひき渡り有りゝと。三笠の山も」と三人の目線が一つになって空の彼方を見上げるあの一瞬、作者が意識したか否かは知らず、遥かなる古代へのあこがれが湧き上がってくる、と感じるのは私だけでしょうか。
 この古代憧憬と、酒屋の娘が読書を楽しんでいる18世紀中ごろの現代風俗とが、渾然と融け合っているのが、とくに文楽の「妹背山」の魅力的なところです。この古代憧憬と、女性を含む庶民の教養のレベルアップが、やがて徳川封建社会を揺さぶる原動力となることも、近松半二は予感していたのかも知れません。

(日本芸術文化振興会発行 第137回=平成1312月文楽公演〈東京〉番付より)

 【3】 131回=文楽公演〈国立文楽劇場〉番付より抜粋

 ・・・作品散歩 〈妹背山婦女庭訓〉 作者 近松半二・・・
 『妹背山婦女庭訓』の作者連名には近松半二、松田ばく、栄善平、近松東南、後見三好松洛とありますが、作品の趣向を選び全体の構想を練る立作者は近松半二でした。近松半二は、享保十年(1725)に儒学者穂積以貫(ほずみこれつら)の二男として生まれました。父の以貫は、元文三年(1738)に刊行された浄瑠璃の語句に関する評釈書『浄瑠璃評注 難波(なにわ)土産』に名前が見えるなど、浄瑠璃界と深い関係がある人物です。半二は、父について劇場に通ううちに二代竹田出雲に入門し、近松門左衛門にあやかり近松姓を名乗ったといわれています。初作である『役行者大峯桜(えんのぎょうじゃおおみねざくら)』の合作から『奥州安達原』『本朝廿四孝』『傾城阿波の鳴門』を経て晩年の『新版歌祭文』や遺作の『伊賀越道中双六』など、現代でも文楽、歌舞伎でお馴染みの作品を数多く残しています。半二は天明三年(1783)に亡くなりますが、十八世紀を代表する浄瑠璃作者の一人と言えます。

 半二晩年の随筆『独判断(ひとりさばき)』は死後の天明七年(1787)に刊行されたものですが、編者の跋に、あるエピソードが紹介されています。半二が、「或偏屈者」から浄瑠璃の文句の不分明と古語故実の誤りを問い詰められた時のことです。学問を身につけているならともかく、菅丞相も楠正成のこともよく理解しないまま本当らしく書いて、聞いた言葉を深みがあるように引き延ばして、和歌管弦をはじめ何ひとつ正しく覚えたことがなく、問答を聞いたり、耳学問であったり、根気をつめてものを学ぶことがない自堕落者が作者となる、と答えたと記されています。この軽妙な切り返しにも半二の人柄が偲ばれます。

 この作品が大坂道頓堀の竹本座で初演されたのは明和八年(1771)一月です。この前後、明和二年(1765)に豊竹座の退転、天明三年(1783)に竹本座が百年の歴史を閉じるなど、興行史的には人形浄瑠璃全盛期のピークを過ぎた時期にあたりますが、同時に優れた新作が生み出されていた時期でもありました。

(独立行政法人日本芸術文化振興会発行 第131回=平成2578月文楽公演番付より)

『妹背山婦女庭訓』ゆかりの地巡りはこちら 
 
 
首の名前
 役名 かしら名 
妹背山婦女庭訓
久我之助 若男
雛鳥
腰元小菊 お福 
腰元桔梗   
宮越玄蕃 小団七 
采女
蘇我蝦夷子 大舅
荒巻弥藤次 検非違使 
めどの方 老女形 
中納言行主
大判事清澄 鬼一 
蘇我入鹿 文七 
口あき文七 
天智帝 源太 
藤原淡海(求馬) 源太 
禁廷の使 検非違使 
後室定高 老女形 
注進 鬼若
猟師芝六 検非違使
倅三作 男子役
女房お雉 老女形
大納言兼秋 端役
米屋新右衛門 手代
倅杉松 男子役
鹿役人 検非違使
興福寺宗徒 端敵
藤原鎌足 孔明
丁稚子太郎 丁稚
橘姫
お三輪
お三輪母 悪婆
漁師鱶七実は金輪五郎 文七
豆腐の御用 お福
金殿の官女 端役
衣裳
妹背山婦女庭訓
藤原淡海 黒縮緬露芝裾縫着付・羽織(くろちりめんつゆしばすそぬいきつけ・はおり)
橘姫 白綸子御所解染縫振袖着付(しろりんずごしょときぞめぬいふりそできつけ)
お三輪 縮緬段鹿子染振袖着付(ちりめんだんがのこそめふりそできつけ)
漁師鱶七実は金輪五郎 藍鼡木綿大弁慶格子半腰・長裃(あいねずみもめんおおべんけいごうしはんごし・ながかみしも)
  
 



資料提供:国立文楽劇場衣裳部
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