五条橋
 解説
 「五条橋」は牛若丸が源氏再興の為、兵法の虎の巻を手に入れる苦心を描いた“菊畑”で有名な「鬼一法眼三略巻」の五段目にあたります。“菊畑”では牛若丸が鞍馬の大天狗に剣術を学んだ、と云う伝説がうまく取り入れられておりますが、この“五条橋”も、童謡で、有名な、京の五条の大橋での弁慶と牛若丸の出会いを浄瑠璃に仕込んでいます。夏向きの景事として独立して演じられる事の多い曲です。弁慶の出の所に使われている「土佐節」は華麗な中にも勇壮な旋律で、面白いものです。
 楳茂都陸平の振付は弁慶が背負った七ッ道具を一つ一つ使って立廻りを演じて見せ牛若丸には身軽く橋の欄干を飛び歩かせる等お伽噺の楽しさを現出してくれます。

(国立劇場発行 第15回=昭和618月文楽公演番付より) 

 資料
     「五条橋の段」(上演資料集485号より抄録)
 『鬼一法眼三略巻』の五段目にあたる「五条橋の段」は、今回上演のように、景事として単独で上演されることも多く、平成13年12月東京国立劇場小劇場所演(文楽鑑賞教室)では、狂言名もそのものズバリ『五條橋』として上演された。単独上演の嚆矢は、文政8(1825)年11月座摩境内芝居初演の『けい事 ふし事 橋弁慶』「五条のはしのだん」のようである。原作では、播磨大掾広盛の他に、吉岡鬼次郎・鬼三太兄弟や皆鶴姫も登場するのだが、この時すでに、源牛若丸と武蔵坊弁慶の二人のみであった。

 明治22年10月御霊文楽座の通し上演を最後に、「五条橋の段」は専ら単独で上演されることになり、その狂言名も「五条橋の段」「五條橋の段」「橋弁慶の段」など様々であった。

 昭和41年9月朝日座で、『鬼一法眼三略巻』が通しで上演された。通し上演は、明治37年11月御霊文楽座以来62年ぶりであったが、その時には「五条橋の段」は上演されていなかったので、「五条橋の段」を含めた構成では、明治22年10月御霊文楽座以来78年ぶりであった。この久々の通し上演が実現したのは、八代竹本綱大夫が、子息の現・豊竹咲大夫襲名狂言として、六代鶴沢友次郎より直伝の「菊畑の段」を提案したことが契機であった。この経緯は、当時の筋書に掲載された、八代竹本綱大夫=著『「鬼一法眼三略巻」について』が詳しい。
 山口廣一の改修・演出により、二段目「播州書写山の段」や三段目「清盛館兵法の段」「菊畑の段」を復活、五段目「五條橋の段」で締め括るだけでなく、原作にはない場面であるが、前述の明治22年及び37年所演などの先例もあり、三段目の伏線となる効果から、この時に新しく書かれた「鞍馬山の段」を冒頭に出し、牛若丸と弁慶の修業時代から二人の出会いまでに焦点を絞った構成でまとめられた。そして、「五條橋の段」につき、従来の単独上演での演出で二点、検討が加えられることになった。

 この時以降、「五条橋の段」につき、二通りの演出が生まれ(七つ道具の件を除く)、公演形態に伴って選択されている。その異なる点を列記すると、次の通りである。 ※単独上演の場合(従来の演出)
  *登場人物は牛若丸と弁慶のみ
  *弁慶の首は「大団七」

※通し上演の場合(昭和41年9月朝日座所演を基本)
 *登場人物は牛若丸・弁慶・鬼次郎・鬼三太の四人
 *弁慶の首は「鬼若」
詞章の内容や弁慶の扮装も、各々の場面に合わせて、変えられる。

(独立行政法人 日本芸術文化振興会発行 平成1712月=上演資料集485号より)

芸談 
    「玉男芸話12(上演資料集439号=平成1312月より)
 「鬼一法眼三略巻」  
  「五條橋」も一幕物としてよく出る演目で、私は早くから弁慶を持っています。最初は、昭和26年9月の四ツ橋文楽座、牛若丸は玉五郎さんでした。三吉も牛若も、いわば玉五郎さんの持ち役だったのです。
 41年9月の朝日座では半通し上演されて、書写山で鬼若丸と名乗っていた少年時代から、成人して弁慶になるまでを演じました。「播州書写山の段」は、この時に復活されたものです。
 「五條橋」だけですと、弁慶の首は団七なのですが、通しで出ると鬼若になる。鬼若は、白塗りの丸い顔に三角眉、目もまん丸いでしょう。子どもの時の描写はそれで出来るのですけれど、弁慶になってからの「五條橋」に使うのはちょっと不自然な感じがします。やはり、こちらは団七の方がやりやすい。
 この時は、綱子大夫改め豊竹咲大夫襲名披露を兼ねており、私はもうひと役、「菊畑」で智恵内も勤めています。そして、同じ演目が、11月の国立劇場開場第一回文楽公演としても上演されました。その後は平成3年11月、国立文楽劇 場で通し上演された時に吉岡鬼一法眼を遣っています。
 定之進同様、首の鬼若も鬼一も、この役が由来になっているのですね。鬼若は、他に『絵本太功記(えほんたいこうき)』の加藤虎之助、『双蝶々曲輪日記(ふたつちょうちょうくるわにっき)』の放駒長吉、鬼一は、『妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)』の大判事、『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』の加古川本蔵などにも用います。
 ところで、弁慶の役は、『五條橋』だけでなく、『勧進帳(かんじんちょう)』や『御所桜堀川夜討(ごしょざくらほりかわようち)』、『義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)』にも出て来る。同じ人物でも、それぞれ、役の性根が微妙に異なり、それに合わせて首、髪型、衣裳、みな違う。私は、『千本桜』以外の弁慶を勤めていますけど、最も、重みのあるのは『勧進帳』ですね。能から取り入れているだけに、位取りが必要ですし、首も、悲劇の主人公に用いられる文七です。
 今回は、舞踊劇「五條橋」として独立させての上演ですので、牛若丸と弁慶の、お馴染みの物語を楽しんでいただきながら、若い人たちに、文楽に親しんでもらえたら幸いです。(聞き手 森西真弓氏による)

(日本芸術文化振興会発行 平成1312月=上演資料集439号より)

薫樹累物語 
 解説
 寛文12年(1672)、下総国岡田郡羽生村(現茨城県水海道市羽生町)の百姓与右衛門家に起こった死霊累の怪異は、事件を解決した浄土僧祐天の活躍とともに様々な文芸に扱われて広まりました。今回ご覧いただくのは「身売りの累」と呼ばれる芝居で、伊達騒動の芝居に組み込んだ設定で安永7年(1778)閏7 月江戸中村座初演の歌舞伎「伊達競阿国戯場(だてくらべおくにかぶき)」を同8年3月江戸肥前座で浄瑠璃化したものがもとです。作者は達田弁二、吉田鬼丸、烏亭焉馬です。後に累の件のみを「薫樹累物語」の外題で上演、「伽羅先代萩」の通し上演にも演じられることになりました。
  (日本芸術文化振興会発行 第87回=平成1478月文楽公演番付より)
一口メモ 
    (昭和51年7月 朝日座公演の番付より)
 累(かさね)―「薫樹累物語」の累は、豆腐屋の段では“娘かしら”を使いますが、埴生村・土橋の段では「累」と名付けられた、特殊な変化物のかしらを使います。享和2年刊行の「戯場楽屋図会拾遺」には、女形頭面之働仕掛見図の件に“女形頭のはたらきは安達原老女、かさねのたぐひなり。面の作り美くしてにらむ時は至ってものすごく髪さかだち口ひらき真事に生るがごとし”とあり、目の玉には鍮石(しんちう)をとるとあります。図解を見ると、返り目と口は、あご落ちの仕掛けになっています。あご落ちの仕掛けのついたかしらは、江戸時代には大分見られたようですが、現在では「隅田川続俤」の法界坊以外見られなくなりました。
 現在、舞台で使用の累のかしらは、戦後大江己之助の製作したもので、若い女房のかしらが、コザルを引くと、目が返り、赤い玉眼になり、見開いた瞳孔が描かれており、口は耳まで割れ、割れ目には赤のちりめんを張り嫉妬と怨霊の姿を、あらわしております。
 金色の角、目、歯の角出しの“ガブ”が時代物ならば「累」はいかにも世話物のつくりです。(吉田文雀師)

(財団法人文楽協会発行 昭和517月=朝日座公演番付より) 

伊勢音頭恋寝刃 
 解説
 1796(寛政8)年、伊勢古市の遊郭油屋(あぶらや)で、医師孫福斎宮(まごふくいつき)が、遊女、客ら数人を殺傷するという、実際にあった事件をもとに、近松徳叟(ちかまつとくそう)がわずか三日で書きあげたといわれる作品です。事件から二カ月後、大阪角の芝居で歌舞伎上演されました。
 人形浄瑠璃では、1838(天保9)年に、稲荷境内東の芝居(今の中央区博労町)で演じられたのが最初とされています。

(日本芸術文化振興会発行 第36回=平成27月文楽公演番付より)

 これまでのあらすじ…
 伊勢神宮に仕える福岡貢(ふくおかみつぎ)は、福岡家の養子になる前は、阿波の国(徳島県)の侍でした。もとの主筋である今田万次郎が、紛失した青江下坂(あおえしもさか)という銘刀を探しに伊勢に来たので、その手伝いをすることになりました。
  刀は手に入りましたが、折紙(鑑定書)の行方がわかりません。しかし、今田家失脚をたくらむ徳島岩次(とくしまいわじ)が折紙を持っているとにらんだ貢は、油屋の女郎お紺(こん)に岩次を探るように頼みました。貢と夫婦の約束をした間柄のお紺は、岩次にしつこく言い寄られていたのです。

(日本芸術文化振興会発行 第36回=平成27月文楽公演番付より) 

芸談 
 伊勢音頭『油屋に就て』  二代 竹本 春子大夫(抄録)

  私は今お話しをする通り、この休業中に何か異った(かはった)語り物を拵えておかねばならぬと思いました。近日久々出勤するにしても、扨出しものとなると、また三勝半七の酒屋だとか、紙治の炬燵では、アアまた春子の酒屋かと思召すお客様があるでしょう。何か目先の異った世話物でと種々考えた所が、幸い故人の竹本組大夫さんが、得意中の得意として語られた「伊勢音頭恋寝刃」の油屋の段、私はその語られた呼吸、最も地合も言葉も能く記憶して居りますから、何でもこの油屋を語りものに致そうと、斯うして組さんの章の入った本を眺めて、研究をして居る所です。

  ご参考までに申して置きますが、元来この「伊勢音頭」は、義太夫としては往古(むかし)はなかったもので、全く歌舞伎から採って何人(だれ)かが義太夫に作したもので、それゆえに丸本もなければ、板に印刷した稽古本と云っても無かったものです。ところが今から20数年前に、油屋の段の切だけを「貢十人斬の段」と云う表題で五行本が出来ました。この本は、組太夫さんが明治18年7月に、彦六座(博労町いなり)で語られるに就いて、彼の有名な故豊沢団平さんが、在来の節付をすっかりやりかえるに就き、妻君の加古千賀子に文章(もんく)を訂正させたものです。

  この千賀女は元某華族に奉仕をして居た人で、和歌も嗜み、文章も出来た人で、彼の「壺坂」もこの千賀女の作で・・・これは今更申すまでもございませんが、それまで余人の語って居ました油屋の段は、誠に無味で、そして十人斬と云って、十人は殺されていなかったようです。それを故人の団平さんが全く十人を斬らせる事にして、この刃傷の間の節付けは実に巧いもので、そして充分派手に語らせるようになって居ります。まず私が覚えて居ります所では、この油屋を組さん程巧く語る人はございませんでした。

 ≪義太夫としての価値≫
 歌舞伎の根本(ねほん)から採って義太夫に作したもので、それも名ある文士の方が筆をお執りになったと云うではなし、また昔のこう云う名人が語ったと云う事も無いもので、義太夫からいま歌舞伎になって居る紙治のようなものや、よく仁左衛門が演られます、お妻八郎兵衛の鰻谷などと違って、この油屋の段は義太夫として聴くよりも、矢張り歌舞伎で観た方が面白かろうと存じます。が、義太夫の方が面白くなかろうと云うのは、それは吾々太夫が、語りようが悪いのでございましょう。そこで私は及ばずながら、何でも一ツこの油屋を自分の得意(もの)の為ようと、昨今頻りに研究して居りますのです。

  尤も歌舞伎の方では、貢にしろ万野にしろ、また料理人の喜助でも、女郎のおこんにしろ、台詞の外にそれぞれ表情でその人物の性格を示し、言葉即ち台詞を活す事が充分に出来ますが、義太夫は一人で貢もおこんも万野も演らねばならず、万野を演って居る間は、仮令万野その人となって居るにしてからが、その万野の台詞の間に貢やおこんの表情で、万野の台詞、謂ゆる万野の演所(しどころ・・義太夫の方での台詞)を扶けて貰う事は出来ません。デそれだけ歌舞伎と義太夫と異った所があります。これは何もこの油屋に限ったことではなく、何でもその通りではありますが、殊にこの油屋は、別にサワリの所で聴かせると云うでもなし、義太夫社会で昔から厳ましく禁じてありますけれど、どうしてもこの義太夫は、少々カブいて(歌舞伎の台詞のように)演らねば語るに力も入らず、また聴いて面白くもございません。

  ≪語る時の心得≫
 何の世話物を語りましても、時代ものよりは一層言葉に注意をせねばなりません。尤もその人物に依って充分に研究をして、武士から町人になった者、また商人、百姓、町の女房、娘、女郎でも芸子でも、武家出の女でも、その性格を能く会得をして、語ると云うのが当然の事ではございますが、そこが誠にむずかしい。福岡貢は武家の出で、当時は御師の家の養子の身の上、そこで武士の詞でもなく、素より町人で演る事も出来ず、と云って貢その人の当時の身分、刀の折紙詮議の為、古主今田万次郎への忠義の為にもしろ、古市の廓へ毎夜入浸りになって、油屋のおこんと云う敵妓(あいかた)のある程の人ですから、その心して語らねばなりません。

  ところが和らかに語ろうとする為に、この貢が軟らか過ぎて万次郎のようになります。また料理人の喜助が悪くすると奴のようになります。仲居の万野の言葉がまた、時とするとチャリ(滑稽)になって、ある一部の聴衆には歓迎されても、真面目の聴衆の感興を殺くような事になります。

  何しろ一段の中に現れる人物が、福岡貢,仲居の万野、料理人の喜助、女郎のおこんにお鹿、徳島岩次に藍玉屋北六等ですが、後の十人切まで一人で通して語りますと、言葉はないが地合の中に、酔漢(よいどれ)客もあれば、その敵妓もあり、殺される十人を皆それぞれに分かるように演らねばなりませぬ。尤も故人の団平さんはこの殺しの間の節付けと、三味線の合の手に充分苦心せられました丈けに、至極面白く派手な手が付いて居りますから、唯その派手な面白い三味線の手に迂(うつ)かりと乗り過ぎて、出て居る人物を踊らせるような語り口をせぬ注意が肝要でございます。

  ≪語り所と難しい所≫
  多くある世話ものの義太夫は、大抵サワリとかクドキが語り所で、お俊伝兵衛の堀川でも、三勝の酒屋でも、梅忠の新口村でも、声で聴かせるとか、節で聴かせるとか、語り所はあるものですが、この油屋のサワリ『折角思ひ思はれて、二世とかはした貢さん』からサワリの間は誠に平凡で、一向に語り甲斐がございません。併し貢と喜助の対話、歌舞伎の方御承知の通り、喜助が貢に異見する所、ここが第一の語り所でしょう。真世話に砕けて演る所と、一寸時代に演る所を巧く語り分けねばなりません。そこが悪くすると、その時代の言葉が妙になってしまう事があります。

  おこんの愛想づかしの間は演り難くいは無論ですが、これは他の義太夫にも能くあります型で、このおこんに限って別にここが演り難いと云う程の所はございません。万野の言葉は前にも申しました通り、この義太夫の文句が、一歩踏み違えると滑稽の領分に足を入れるような事になりますから、その辺の注意はせねばなりません。

  ≪太夫からみた『油屋』≫
 義太夫の方では歌舞伎のように、最初に貢が来て、おこんに会わして呉れと云うのを、万野が邪魔をして、客にせぬと断る所はございません。万野に伴れられておこんは奥座敷へ這入る、その跡へ貢は万次郎の身の上を案じ、且つ折紙の事を頼んであるおこんに逢いに来る、入口で出会頭に喜助に逢うて、貢はおこんに逢わして呉れと頼む。ここで喜助が自分の親は以前家来であった事を云って、不品行の諫言をする件は歌舞伎と同じ事で、この主従の対話の間を見ますと、義太夫の方でも少しはカブいて演らねば、聴いて居て面白くはなかろうと云うような感じが起るのです。おこんは義太夫の方よりも、歌舞伎の方が余程役が宜しい、自分の台詞の間ばかりでなく、貢や万野やお鹿に対して立腹して居る間に、充分表情でせつない心の底を示す事が出来ますが、義太夫の方では表情で見せる事は出来ません。

  福岡貢にしても、矢張り台詞以外に動作でその役を活す事が出来ます。一々申すのも贅(むだ)ですから説明はいたしませんが、鴈次郎さんのも、仁左衛門さんのもなかなか巧い所があって、アア義太夫でも彼処はこういう風に語ったらばと、参考になる箇所が沢山ございます。

  総じて私共が何狂言の演劇を見ましても、唯平気で見物する事もありますが、どうしてもそこが妙なもので、我田引水とでも申すのか、自分の商売の方へ引付け、ある点に就いては参考ともするのですが、就中この「伊勢音頭恋寝刃」などは、その役々を俳優が旨く仕こなして居ても、彼処はああでもあるまいなどと云う勝手な所へ目が注(つ)くようでございます。
  何分突然の事で、頗る要領を得ぬ事を申しまして汗顔の至りでございます。
 (「演芸画報」大正5年10月号)

(独立行政法人 日本芸術文化振興会発行 平成215月=上演資料集522号より抜粋) 

 
『伊勢音頭恋寝刃』ゆかりの地巡りはこちら 
 
 
首の名前
 役名 かしら名 
五条橋
牛若丸 男中子役
弁慶 大団七
 
新編西遊記 GO WEST ! 
嫦娥  老女形 
天蓬元帥 佐助 
猪八戒 猪八戒
孫悟空 孫悟空
沙悟浄 沙悟浄 
三蔵法師 源太 
王女
城の役人 端敵 
王女実は玉兎  
国王 検非違使 
王妃 老女形
土地神 武氏 
 
薫樹累物語 
娘累
角なしのガブ
兄三婦 検非違使
絹川谷蔵後に百姓与右衛門 検非違使
高尾の亡霊 傾城
百姓与之吉 端役
女房お駒 老女形
鹿金五郎 小団七
女郎屋亭主 三枚目
歌潟姫
伊勢音頭恋寝刃 
女郎お紺
仲居万野 八汐
福岡貢 源太
料理人喜助 検非違使
徳島岩次 陀羅助
藍玉屋北六 手代
女郎お鹿 お福
金壺親父恋達引 
金仲屋金左衛門 三枚目
倅万七 源太
娘お高
番頭行平 源太
手代豆助 三枚目
大貫親方 端敵
お梶婆 悪婆
娘お舟
京屋徳右衛門 孔明





 







 
衣裳
薫樹累物語
娘累橘姫 縮緬納戸伊予染花丸振袖着付(ちりめんなんどいよぞめはなまるふりそできつけ)
鬱金白山紬石持黒衿掛着付(うこんはくさんつむぎこくもちくろえりかけきつけ)
絹川谷蔵後に
百姓与右衛門
鼡縮緬紫荒縞大寸人形付着付(ねずみちりめんむらさきあらじまだいすんにんぎょうつききつけ)
  
伊勢音頭恋寝刃
女郎お紺 紫絽秋草流水裾模様着付(むらさきろあきくさりゅうすいすそもようきつけ)
仲居万野 黒絣単衣下衣裳付着付(くろかすりひとえしたいしょうつききつけ)
福岡貢 淡玉子絽井桁絣単衣着付(うすたまごろいげたがすりひとえきつけ)
 



資料提供:国立文楽劇場衣裳部
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首の名前
ぷち解説
衣裳
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