首の名前
花上野誉碑
舞台となった志度寺について 
     田結荘哲治氏「ゆかりの地あれこれ」より
 「志渡寺」の段の志度寺は、香川県大川郡志度町にある真言宗の古寺で、古くから観音信仰の道場として、また四国霊場八十八ヵ所の第八六番札所として人々の信仰を集めてきた。
 寺伝によると、推古天皇のころに志度浦に流れ着いた霊木を刻んで十一面観音像を彫り、安置したのが始まりと伝えられているが、実際は平安初期の創建と推定されている。本尊の木像十一面観音像、脇待の不動明王、毘沙門天は国の重文に指定されている。
 志度寺はまた、能の『海女(あま)』の素材となった「珠取り」伝説でも知られている。それによると、藤原不比等と契りを交わした志度寺の海女が、わが子、房前のために海底に潜って竜に奪われた宝珠を取り返してくる。海女はそのために命を落とすが、不比等父子は、その菩提を弔ってこの地に墓を築き堂塔を増建したという。本堂の脇にはその海女の墓だという石塔がある。
 
 (日本芸術文化振興会発行 第68回=平成911月文楽公演番付より)
『花上野誉碑』ゆかりの地巡りはこちら 
 
 
 解説
  (上演資料集577号 塚田千恵美氏)
  世話物 七段
(作者)松貫四・吉田角丸
(名称)「恋娘」は恋のために命を捨てようとした主人公の城木屋お駒を表す。「黄八丈」はお駒のモデルである白子屋お熊が、本作初演から約50年前の実事件において、黄八丈の小袖を着て馬上を引き回しのうえ処刑され、それが事件当時の人々の話題になったことからきている。
(題材) 享保12年(1727)に江戸で裁判のあった事件を題材にしている。実説として伝えられている事件はつぎのようなもの。すなわち新材木町の大店白子屋の娘お熊は手代の忠七と恋仲になるが、やむをえず両親の決めた持参金付きの婿をとる。
 しかしお熊はその婿をうとみ、忠七とお熊の母と相談のうえ毒殺を計画。それが未遂に終わると、下女をそそのかし婿との心中未遂を偽装してそれを理由に離縁しようと企てる。しかしこれに失敗、逆に婿の手で訴えられて、お熊と忠七は密通の罪で町中引き廻しのうえ死罪、母は遠流となったという。
  彼らの策略はすべて、一方的に婿を離婚して持参金を返さねばならなくなるのを避けるために仕組まれた、きわめて打算的なものであったという。お熊は処刑のときに白無垢のうえに黄八丈の小袖を着、首に水晶の数珠をかけ高らかに法華経を唱えたといい、それ以来黄八丈が当時の女性から忌み嫌われたという(宝暦7年〈1757〉『近世江都著聞集』による)。
  (独立行政法人日本芸術文化振興会発行 上演資料集577号=平成2512月より)
 大名萩原蔵人の弟千草之助(ちくさのすけ)は、太閤久吉公より賜った家宝、勝鬨(かちどき)の茶入を遊女十六夜(いざよい)を身請けするため持ち出し、紛失してしまいます。
 家老尾花六郎右衛門(おばなろくろうえもん)は腰元お駒(こま)との不義を理由に、息子才三郎(さいざぶろう)を勘当し、茶入の詮議にあたらせます。お駒も実家へと戻されました。しかし、茶入の詮議の途中で、六郎右衛門は命を落としてしまいます。

(独立行政法人日本芸術文化振興会発行 第97回=平成17年1月文楽公演番付より) 

『恋娘昔八丈』ゆかりの地巡りはこちら 
 
日高川入相花王 
 解説
 清姫が旅僧安珍に恋焦がれその跡を追い、逃れようと道成寺の鐘に隠れた安珍を蛇体となって焼き殺した伝説から、謡曲『道成寺』をはじめ数多くの作品が生まれました。浄瑠璃では、この伝説に藤原純友の乱を借景に取った『日高川入相花王』が代表的です。この「渡し場の段」は、上演を重ねるごとに先行の『道成寺現在蛇鱗』(どうじょうじげんざいうろこ)の詞章を取り入れ、義太夫の量感溢れる演奏、清姫の人形の変化などが独特の効果を生み、人形浄瑠璃の景事の人気作品として定着しました。

(独立行政法人日本芸術文化振興会発行 第98回=平成17年4月文楽公演番付より)

 これまでのあらすじ…
 病弱の朱雀天皇は、弟の桜木親王に譲位しようとしますが、天下を狙う左大臣藤原忠文に妨害されます。忠文に命を狙われ、親王は一旦奥州へ逃れます。
 一方紀州(現、和歌山県)、真那古庄司(まなごのしょうじ)の娘清姫は、都見物の折に出会った親王を見染め、激しい恋心を抱きます。庄司の館に、山伏に身をやつし、安珍と名乗る親王がやってきます。清姫は恋心を打ち明けますが、親王は偶然落ち合った恋人のおだ巻姫とともに、追っ手から逃れるため道成寺へと急ぐのでした。その後を嫉妬に燃える清姫が追い駆けます。

(独立行政法人日本芸術文化振興会発行 第123回=平成237・8月文楽公演番付より) 

『道成寺4現在蛇鱗』について 
〈作者と初演〉作者は浅田一鳥・並木宗輔。寛保2年(1742)8月11日、大阪豊竹座初演。五段の時代物。
〈登場人物〉山の部親王、他戸の皇子、藤原百川、安よし、清姫ほか。
〈解説〉本作と、宝暦9年初演の「日高川入相花王」、および現行曲「日高川入相花王」、三者の関係は複雑である。まず本作について述べる。光仁天皇の御代、山の部親王と、悪皇子他戸の皇子の御位争いをめぐって、忠臣藤原百川の苦衷、百川の子安よし(安珍)といいなずけ錦の前、真子庄司の娘清姫の恋の葛藤などを描く王代物。左に掲げる四段目の作者は並木宗輔(並木千柳と同一人物で「義経千本桜」「一谷嫰軍記」などの立作者)と推定され、嫉妬に身を焼く清姫が、その業の深さに悩み、みずから恋敵錦の前の身代りとなって死ぬまでの心理が克明に描かれ、人間の本能の激しさと、宗教的救いへの希求を主題とするこの作者の特色が認められる。「清姫日高川の段」の初演者は、豊竹座の創立者で美声家の豊竹越前少掾(初代豊竹若太夫)。
 本作の原題名による上演記録は、初演を含め1、2回しか知られていないが、近世末期ごろから、「清姫日高川之段」にわずかに改作を行った「日高川現在鱗」「増補現在鱗」(ともに写本が現存)などが生まれ、それが「日高川入相花王」の題名のもとに吸収されて演ぜられ、今日に至っている。文楽の現行曲では「渡し場」の前の清姫と通行人とのやりとりは省かれるのが普通である。(以下四段目本文詞章等は省略)

(独立行政法人日本芸術文化振興会発行 上演資料集522号=平成21年5月「(道成寺現在蛇鱗 日高川入相花王)解説・本文」内山美樹子氏 による) 

増補忠臣蔵 
解説 
 幕末から明治にかけて、知名度の高い浄瑠璃の世界を借り、その作品では描かれない部分の物語が展開される“増補物”というジャンルの浄瑠璃が出されました。この作品はその代表的なもので、浄瑠璃の中の最高の大作とされる『仮名手本忠臣蔵』九段目山科閑居の段をモチーフに、殿中刃傷(加古川本蔵が、主君桃井若狭之助が殺害せんとした高師直に賄賂を贈り未然に防ぎ、かつその直後に師直に斬り付けた塩谷判官を抱きとめる)の後日談、そして本蔵が大星由良助の宅へ討たれる覚悟で訪れる九段目に至るまでの絵解きとして楽しめます。
 
 (独立行政法人日本芸術文化振興会発行 第113回=平成211月文楽公演番付より) 
 
    「本蔵下屋敷の思ひ出」  竹本大隅太夫師〈「幕間」昭和25年7月掲載〉
 私のまだ若かつたころのことですから、随分昔のお話です。旅先で今度語つてゐます「本蔵下屋敷」の役がつきました。その頃は「本下」などはまだ一度も語つたことがありませんでしたので、頭取の白井さん(今の鶴沢寛治郎の父、亀次郎)に断りに行きましたところ、お前はまだ師匠(三世大隅太夫)の「本下」を知らんのか、そりやえゝもんやで、稽古してもろたらええがーと教へられましたので、早速師匠の宿へお伺いして、「本下」の役をいたゞきました。どうぞお稽古をとお願ひしますと、そうか明日お出でと、いつて下さいました。翌朝お伺ひして食事の後片付けなどを仕終りますと、前夜の約束を覚えて下さつてゐて、お前本持つて来たかとのお言葉です。ありあはせの台を師匠の前に据えて「本下」の床本をおきますと、お前語つてみ、ヘイ、私は語つたことがありませんのでー私はかう答へる外はありません。なんにも難しいことあれへん、その通りを語つたらよいのや、それでもよう語りまへんと、尻込みしました末に、その辺の障子を締めさせて、師匠の語つて聞かせて下さいましたものが、なんともいへん結構なものでした。すつかり聞き惚れてゐますと。サア今度はお前の番やと促されました。お師匠はん、あんまりよろしおましたので、うつとりして居りました。もう一遍、お聞かせ下さいとお願ひしましたが、聞入れられません。

 そこで私も元気を出して「ヒトッシレヌ」と語りますと、それではちつとも「人知れぬ」やあれへん、「人知れぬ」は人には判らないといふ意味やから、「人知れぬ」やうに語らなあかん、と教へられました。サアこの一句を何度繰り返させられたことでせう。師匠の芸を写実とゐはれてゐますが、浄るりはそのものを語るものやと、師匠は常々仰言つてゐました。只今のところなど、その例でありませう。

 どうやらこのところが終わりますと、後は誰でも語れるものや、たゞ歌舞伎にならんようにと、いはれたゞけで、どこも直そうとはされませんでした。  ところが、先へ進んで「へつらうても苦しうない、ナニへつらひ武士は世間にいくらもあるわい」で突き当たりました。へつらひ武士は世間にざらにある、そんなことを気にするに及ばん、と事もなげな言葉なり、態度なりを、実に師匠はうまく語られたのです。われわれには仲々さうは行きません。こゝも何度となく繰り返して、どうやら格好だけは付きかかったところで、あとは団公(団二郎、今の寛治郎)の三味線と合わし、といはれました。

 かうしていよいよこの「本下」を語ります段になって、お客様から非常な評判をいたゞきましたので早速、師匠にこれこれでしたと、お礼のご挨拶に行きますと、さうかと答えられただけで、も一遍「人知れぬ」と「ナニへつらひ武士は世間にいくらもあるわい」の二箇所を語らされました。  写実といひ、自然といひますのも、師匠の言葉を借りれば、ものそのものを語ればよいわけで、そこにサラリとした中によい味の浄るりが出来るものであります。私は出来ぬながらも師匠はこんな具合に語られたと、語って居ります。
 
 (国立劇場発行 上演資料集〈12号〉=昭和60年9月より)
 艶容女舞衣
解説 
  安永元年(1772)12月26日、大坂豊竹座初演。竹本三郎兵衛、豊竹応律、八民平七の合作で、上中下三巻からなる世話物です。
 今回上演する「酒屋の段」は、下の巻の切りに当たり、全編を通じて最も重要な場面です。
 外題の角書に「美濃や三勝/あかねや半七」とあって、三勝半七の心中事件を踏まえていることを窺わせます。実説の事件は、元禄8年(1695)12月6日夜、大坂千日前火屋裏のサイタラ畑(冥途ながら極楽でも地獄でもない所)で、大坂長町4丁目美濃屋平左衛門の養女三勝と大和五条新町の赤根屋半七とが心中を遂げた事件で、早くから歌舞伎に脚色され、歌謡にも歌われました。
 本作は延享3年(1746)10月、陸竹和泉座初演の『女舞剣紅葉(おんなまいつるぎのもみじ)』を踏まえて作られたといいます。
  (独立行政法人日本芸術文化振興会発行 第108回=平成19年11月文楽公演番付より) 
 
  美濃屋三勝は、幸若舞大頭(だいがしら)の女舞太夫。その三勝と茜屋半七は深い恋仲で、お通という子供までもうけています。
 ところが、半七には、祝言してから3年になるお園という女房がいました。しかし、女房とは名ばかり。空閨を託っていました。半七の両親、半兵衛夫婦は、倅の不行跡を嘆くばかりでした。
 お園の父宗岸は、半七の浮気に腹を立て、お園を実家に連れ帰ったものの、悔やまれてなりません。親同士の喧嘩となり、半兵衛は、宗岸の手前、半七を 勘当します。
 ある日、新町橋辺で、半七が大道易者に変装したことをいいことに、八卦にかこつけお園に愛想づかしを言います。しかしお園は易者の正体を半七と見破り恨み辛みをぶつけるのでした。
 そこでお園は意を決して三勝に会い、半七との縁を切るよう懇願します。お園の真情に打たれた三勝は泣く泣く承諾します。
 他方、半七は、十日戎の夜、山の口で、今市の善右衛門に贋金をつかまされたことから喧嘩となり、遂に善右衛門を殺めるのでした。
  (独立行政法人日本芸術文化振興会発行 第108回=平成19年11月文楽公演番付より)  
大頭について 
 (だいがしら・台頭とも)
  幸若舞より少し遅れて勃興したのが大頭といわれる一派です。大永3年(1523)2月7日に記録された『二水記』の記述から、上京した素人衆が、京都で玄人に転向したものとみられています。
  幸若舞は、織豊時代から大名との結び付きを強め、一般での上演はしなくなり、代わって大頭が巷間で持てはやされ、近世においては舞はむしろ大頭をさしたと言われ、元禄に至るまで、都市部の劇場や仮設小屋などで活動を続けたとされいます。
  絶えて上演されることのない『艶容女舞衣』上の巻「生玉の段」に、「先ず表には櫓を上げ名にあふ美濃屋三勝殿 仏御前の扇の手夫れから静の鼓の段 源平八嶋壇の浦 須磨の浦には汐汲姿・・」と、舞台を彷彿とさせる詞章が伝わります。
  (独立行政法人日本芸術文化振興会発行 第108回=平成19年11月文楽公演番付より)  
勧進帳 
 解説
  兄源頼朝に追われ奥州へ逃れる義経が弁慶の機知によって難関を越えたことが、『義経記』などに描かれています。こうした義経伝承を題材とした作品に謡曲『安宅』があり、このほか、幸若舞、古浄瑠璃、義太夫節や歌舞伎などにもこの趣向は多く取り入れられました。
 1840年、歌舞伎十八番の一つ『勧進帳』が謡曲『安宅』に拠って創られました。本作は、さらにこれをもとに1895(明治28)年に『鳴響安宅新関』として大阪で初演された浄瑠璃に基づくものです。
  (日本芸術文化振興会発行 第58回=平成74月文楽公演番付より) 
これまでの物語 
  源義経は、源平の戦いで源氏を勝利に導きましたが、その功績を妬む者の中傷により、兄頼朝から追われる身となってしまいました。そこで、武蔵坊弁慶ら数人の家来は山伏に、義経は強力(ごうりき・荷物持ち)に姿をかえ、藤原秀衡を頼って奥州(東北)へ向かいます。頼朝は、各地に関所を建て、山伏を厳しく取り締まるように命じました。
  (日本芸術文化振興会発行 第83回=平成137・8月文楽公演番付より)  
 
  延年は、寺院芸能の一つで、平安時代の末期から室町時代にかけて盛んに行われた。法会の後や貴族接待などの遊宴の場で、遊僧(ゆそう)と呼ばれる、芸能に習熟した僧職が中心となって行った。詳細は明確でないが、猿楽・白拍子・舞楽・風流(ふりゅう)・今様・朗詠・小歌など、当時の芸能を雑多に取り入れたものだという。
  (日本芸術文化振興会発行 第83回=平成13年7・8月文楽公演番付より) 
『吉田玉男師(初世)文楽芸話』 
 鳴響安宅新関(なりひびくあたかのしんせき)勧進帳(かんじんちょう))より 〈抄録〉
  能『安宅』を歌舞伎に取り入れた『勧進帳』は、松羽目物の代表作として人気の高い演目ですが、それを文楽化したのがこの作品です。初演は明治28年ですけど、昭和5年になって詞章や曲が改訂されたのに合わせ、人形も初代栄三師匠によってさまざまに工夫が加えられました(2月四ツ橋文楽座)。私が入門する前のことですが、『吉田栄三自伝』(昭和13年11月相模書房発行)によると、それまで武蔵坊弁慶の首は団七だったのを文七に改め、後半の延年の舞は新たに楳茂都陸平さんが振付け、段切には六方を踏むことになった。現在の上演はこの形を踏襲しています。

 私が弟子入りした昭和8年の12月に東京歌舞伎座で出て、この時、初めて段切の六方で花道が使われた。道八さんのアイデアだったそうですけど、あそこは、普段顔を見せない左遣い、足遣いの活躍、特に足の奮闘ぶりが観客にもよく分るので、大変な評判を呼びました。足は、左の扇太郎さん同様に栄三師匠の信頼が厚く直接ご指名の栄三郎さんです。私はこの公演で番卒を勤めています。

 師匠の配慮で、人形遣いの大事な心得を学ばせてもらった一方で、番卒は舞台に立っているので、たとえば四天王の足に回るより、役の動きも断然よく見えます。以後も番卒の役をつけてもらった私は、当面の目標である栄三郎さんが持たれる弁慶の足を見て勉強したものです。

 弁慶の初役は昭和53年7月の朝日座。富樫は清十郎君、義経は蓑助君でした。その後、58年の7月にやはり朝日座で、文雀君の富樫、玉松君の義経を相手に勤めて、「勧進帳」の弁慶はこの2回のみ、東京では一度も遣っていない。40年以上前に拝見した栄三師匠の舞台が鮮明に残っていましたから、弁慶は栄三師匠のまま、特に私が変えた演出はありません。弁慶では、後半の延年の舞や六方に派手な動きがあり、それが見せ場にもなっています。しかし、前半の山伏問答がやはり大切で、ここで弁慶という人物の性根を見せる。役に見合った重みを充分に描き出します。その点、栄三師匠の弁慶には貫禄がありました。

 私は役としては弁慶よりどちらかというと富樫の方が好きですね。弁慶もかっこよかった?そうか(笑)。主君である義経を守護することに一心になっている人物ですから。それに対して富樫はもっと複雑です。最後に義経一行と知りつつ見逃してやるのは、いざという時に自分も命を捨てる覚悟でしょう。そういった重層的な心理描写はやり甲斐があります。
  (独立行政法人日本芸術文化振興会 平成19年9月8日発行 国立劇場上演資料集〈増刊〉『吉田玉男文楽芸話』聞き手森西真弓氏 より)  
 
『勧進帳』ゆかりの地巡りはこちら 
 
 
首の名前
 役名 かしら名 
花上野誉碑
森口源太左衛門 文七
門弟数馬 源太
門弟十蔵 源太 
門弟官蔵 端敵
槌谷内記 孔明
方丈 正宗 
内記妻菅の谷 老女形 
弟子僧雲竹 鼻動き
弟子僧念西 端役 
乳母お辻 老女形 
民谷坊太郎 男子役 
腰元信夫
門弟団右衛門 端敵 
 
恋娘昔八丈 
丁稚三太  丁稚 
番頭丈八 手代 
娘お駒
髪結籐七実は尾花才三郎 源太
下女おきく お福 
城木屋庄兵衛 武氏 
佃屋喜蔵 陀羅助
城木屋女房
堤弥藤次 検非違使 
番太 端敵 
  
日高川入相花王 
清姫
角出しのガブ
船頭 三枚目
 
増補忠臣蔵
井浪伴左衛門 陀羅助
加古川本蔵 鬼一
三千歳姫
小姓 男子役
桃井若狭之助 源太
 
艶容女舞衣 
丁稚長太 丁稚
半兵衛女房
美濃屋三勝
娘お通 女子役
舅半兵衛
五人組の頭 武氏
親宗岸 定之進
娘お園
茜屋半七 源太
  
勧進帳 
富樫乃介正広 検非違使
源義経 源太
伊勢三郎 陀羅助
駿河次郎 検非違使
片岡八郎 小団七
常陸坊海尊 鬼一
武蔵坊弁慶 文七





 







 
衣裳
花上野誉碑
森口源太左衛門 茶羽二重皮色鼡横段熨斗目半腰(ちゃはぶたえかわいろねずみよこだんのしめはんごし) 茶精好皮色鼡横段熨斗目裃(ちゃせいごうかわいろねずみよこだんのしめかみしも)
乳母お辻 皮色縮み小紋黒木綿肩入着付(かわいろちぢみこもんくろもめんかたいれきつけ)
  
恋娘昔八丈
娘お駒 黒地黄八丈黒衿掛振袖着付(くろじきはちじょうくろえりかけふりそできつけ)
髪結籐七実は尾花才三郎 茶地御召縞着付(ちゃじおめししまきつけ)
 
艶容女舞衣
美濃屋三勝 黒縮緬秋草裾模様着付(くろちりめんあきくさすそもようきつけ)
娘お園 紫紺縮緬梅小紋着付(しこんちりめんうめこもんきつけ)
 
勧進帳
武蔵坊弁慶 綾翁格子大寸半腰(あやおきなごうしだいすんはんごし) 黒精好梵字金摺水法衣(くろせいごうぼんじきんずりみずごろもも) 白精好雲輪宝金摺大口(しろせいごうくもりんぼうきんずりおおくち)
 



資料提供:国立文楽劇場衣裳部
このホームページは文楽応援団が運営しています。当ホームページの資料、情報の無断転載は禁止です。
当サイトに関するメッセージは、こちらまでご連絡ください。
ぷち解説
衣裳
inserted by FC2 system