寿式三番叟
解説
 能の『翁』は国土安穏、五穀豊穣を祈る祝儀曲として、大切に扱われています。『寿式三番叟』は、宝暦13年(1763)4月大坂豊竹座初演の『新舞台式三番叟』 を元にしており、祝儀曲としてだけでなく、耳と目を楽しませる演目となっています。文楽では舞台開きや祝賀、正月公演で演じられ、舞台を清め、公演の成功、お客様のご多幸を祈ります。まず能楽を意識した義太夫の荘厳な演奏のもと、颯爽とした千歳の舞、翁の天下泰平国土安穏の舞が披露されます。続く三番叟は、現在の文楽では二人立ちとなっています。揉みの段・鈴の段に至り義太夫も躍動的となり、二人の三番叟は五穀豊穣を祈ります。  
 (独立行政法人日本芸術文化振興会発行 第121回=平成231月文楽公演番付より)
 
      「寿式三番叟」      初代 鶴沢 道八師/述
                        鴻池 幸武氏/編
 最近では文楽座でも度々出ますし、45年前に京都の顔見世興行で猿之助さんが踊って私が弾きましたのが大変当たって、それ以来毎年出るようになりました。
 この曲で一番大切なことは、翁、千歳、三番叟の三つの位取りです。我田引水のようですが、その点で、能の「翁」は別として、各流の「三番叟」の中で義太夫の「三番叟」が一番結構に出来ているように思います。これ程位取りの鮮やかなのを外に知りません。私がいつも知りたいと思っていますのは、これを節付された方のお名前です。これ程結構な曲が残っているのに未だに不明なのです。
 文章は中々難しいもので、よくその意味を研究しませんと飛んでもない間違いをします。かの「とうとうたらり---」は蒙古か西蔵(チベット)あたりの言葉だそうで、以前ある博士が解説されたのが新聞に出て、切抜いて置きましたが、要するに位取りが最も肝腎で、それによって夫々「音遣い」、「足取」、「間」、「模様」のやり方が違うのです。
 翁は宇宙の支配者の格で、殊に面をつけてからは畏れ多くも天照皇太神宮様の位ですから、雄大無比でなければいけません。「万代の池の亀は甲に三曲を戴いたり。滝の水麗々と落て夜の月あざやかにうかんだり渚の砂さくさくとして旦(あした)の日の色をろうず」有様をご覧になって、「天下がよく治まっている、悦ばしいことだ」と舞を舞うて御座るのです。といってこれを殊更に勿体振ってやりますと陰気になってしまいます。翁を語って陰気になったら恥です。私が聞かせて頂いた翁の中で最も結構でしたのはやはり大掾(二代目竹本越路太夫)さんでした。明治18年東京猿若町の文楽座開場祝のときで、その音遣いは子供ながらに神々しく感じました。その前に彦六座の改築祝のときに柳適さん(初代)が語られましたが、これも結構でした。この時は清水町の師匠が弾かれ、三味線ではこの方の右に出るものはないことは申すまでもないことです。千歳は武士ですから、何物にも拉(ひる)がぬ勢がその「間」になければなりません。
 三番叟は農民で、世界中の悦びを我身一つに受けて悦んでいる、という心でなければいけません。それにこれは狂言ですから、詞は狂言風にいわねばならず、今日の文楽座でこれが出来ているのを聞いたことがありません。それから「御田(おんだ)」の条で、早乙女と神主さまのやりとりの語り分け、弾き分けが曖昧になりやすいもので、よく気をつけねばなりません。
 
 (独立行政法人日本芸術文化振興会発行 上演資料集522号=平成21年5月より・・出典『道八芸談』昭和62年11月・ペリカン社刊)
 
奥州安達原 
 解説
  (上演資料集514号 「奥州安達原 解説・梗概」(吉野裕子氏・吉永孝雄氏による)より抜粋)
〔作者〕
 竹田和泉・近松半二・北窓後一・竹本三郎兵衛らの合作
〔名称〕
 奥州の豪族安倍一族の再興への企てが主たる内容であり、奥州に因んだ安達原の鬼女伝説が盛り込まれていることに拠る。
〔題材〕
  前九年の合戦後、滅亡した奥州の豪族安倍の残党と、安倍頼時の遺子貞任・宗任兄弟が、一族の再挙を図る苦心を主材とし、奥州に縁のある伝説で既に謡曲にも作られている『善知鳥』や安達原の鬼女伝説を絡ませたものである。
〔初演〕
  宝暦12年(1762)9月10日初日、大坂竹本座初演。
〔構想・価値〕
 人物の関係や筋の展開等が複雑に入組み、やや技巧的過ぎるが、鶴の金札を鍵として覆面の人物の正体が次々と解かれて行き、全編を通じてうまくまとまっている点に於て、半二の時代物の中でも有数の作品である。貞任の子千代童を守り育て再挙を計るのは、先行の並木宗輔作『安倍宗任松浦簦』に仕組まれているが、善知鳥伝説と絡ませたのは作者の働きであり、また三の切「環の宮明御殿」の袖萩祭文は劇的にも勝れた場面となっている。さらに、四の中、切は安達原の一つ家の伝説も巧妙に取り入れられ、この場で一切の謎が解明されてゆくなど、趣向に富んだ作品である。
  (独立行政法人日本芸術文化振興会発行 上演資料集514号=平成209月より)
 11世紀の中ごろ、奥州(東北)の豪族安倍頼時が起こした反乱「前九年の役」は、源八幡太郎義家(みなもとのはちまんたろうよしいえ)によって平定されましたが、皇位を象徴する三種の神器の一つ、十握の宝剣は、何者かに奪われたまま所在不明でした。
 さらに、天皇の弟である環の宮(たまきのみや)が、付添いの匣の内侍(くしげのないし)とともに行方がわからなくなってしまいました。
 八幡太郎義家の舅で、環の宮のお守り役としてその行方を探っている平傔仗直方が、不義ゆえに勘当した長女袖萩とその娘お君が物貰いとなっているところに出会います。傔仗は親と名乗りませんが、傔仗が去った後に袖萩は、今までいたのが父であり、しかもその父に何らかの危機が迫っていることを知り、お君の手を取って、傔仗の後を追って行きます。

(日本芸術文化振興会発行 第38回=平成2年11月文楽公演番付より) 

 
本朝廿四孝 
 解説
 近松半二、三好松洛、竹田因幡らによる五段続きの時代物。明和3年(1766)正月、竹本座で初演されました。外題の心は中国の故事『廿四孝』の日本版の意で、三段目切にその故事が取り入れられています。
 武田・上杉の争いを題材にしていますが、近松門左衛門作「信州川中島合戦」の影響が強いといわれ、殆どその改作とさえみられる箇所もあります。
 信玄・謙信の確執や殊に勝頼・八重垣姫の件りは本編の重きをなします。極めて複雑な組立をしていますが、破綻を来さないところが、名作の名作たる所以です。

(独立行政法人日本芸術文化振興会発行 第112回=平成20年11月文楽公演番付より)

 これまでのあらすじ…
 室町時代、執権武田晴信(信玄)と長尾(上杉)謙信の不和が続いていました。原因は氏神諏訪明神より与えられた武田の重宝諏訪法性(すわほっしょう)の兜を、謙信が借りたまま返さないためでした。将軍家は和睦を願い、晴信の息子勝頼と謙信の娘八重垣姫を婚約させます。その後将軍が暗殺され、疑いをかけられた両家は、将軍の三回忌までに犯人を捜し出すことができなければ、両家の息子の首を斬って身の潔白を証明することを約束させられました。

 三回忌が済み、犯人不明のため勝頼が命を失います。ところが、この勝頼は幼い頃に取り替えられた偽者で、本当の勝頼は蓑作という名で諏訪で育てられていたのです。蓑作と、死んだ勝頼の恋人濡衣(ぬれぎぬ)は、兜を取り戻し犯人を捜し出すため、謙信の元へ向かいました。

 さらに1年経ち、未だに息子の首を打たずにいた謙信は、約束の実行を迫られています。その返答の使者として、蓑作は塩尻(長野県)へ行き、花作りの手伝いとして諏訪湖畔にある謙信の館へ入り込みますが、謙信は蓑作の正体を知っていました。

(独立行政法人日本芸術文化振興会発行 第129回=平成25年1月文楽公演番付より) 

 
      ≪ 八重垣姫    三代 吉田 文五郎≫
 八重垣姫は武田勝頼の許婚の妻であります。―――
 そんな事を申しますと、何を今更、人を馬鹿にして・・・と仰しゃる方がありましょうが、まず聞いて下さいまし。八重垣姫は勝頼の妻であります。その妻ということをハッキリ心得ておくということが、大切なことであろうと思います。  実は先年、雀右衛門さんが、廿四孝を出して八重垣姫を人形振でやりたいから、私に影遣いとなってつき合ってくれと頼んで来られたことがあります。

 私は快くそれを御引受けして、其の日の舞台に立って見ますと、十種香の場で、生きた水鳥が一番(ひとつがい)籠に入れておいてあります。ハテ、どういう工風であろうかと不審に思って見ていますと、それは八重垣姫が、朝夕回向の絵姿に似た花作りの蓑作に思いを寄せ、それが思いもかけぬ本ものの勝頼と分ってから、「許婚ばかりにて枕交さぬ妹背中、おつつみあるは無理ならねど、同じ羽色の鳥つばさ、人目にそれと分らねど、親とよび又つま鳥と、呼ぶは生あるならひぞや、いかにお顔が似たればとて、恋しと思う勝頼さま、そも見紛うてあられうか。」というサハリになってから、「同じ羽色の鳥つばさ」の振を、池に水鳥を浮べてやろうという凝った工風であったのであります。

   私はおどろいて、「一体これは誰のやりゃはった型だっか。」と聞きますと、「五代目の音羽家さんがやられたのです。」ということでありました。それで、雀右衛門さんの我流の工風でないことは分りましたが、たとい五代目さんのやられた型であろうとも、それは大きな考え違いだと思いましたから、
  「それはお止めなはれ、八重垣姫は勝頼の妻だっさかい、ここはどこまでも妻らしうする所だっせ。それに勝頼の居やはる前だすさかい、決して一人芝居をするとこやおまへん。」
と意見しますと、さすがは雀右衛門さん、即座に分って戴いて、右の生きた水鳥は初日きりで引込められ、二日目からは、襖の絵の水鳥に言い寄せてやられました。  

 成程、十種香から奥庭へかけては、八重垣姫が主役であります。主役である以上は八重垣姫は、謂わば一人舞台で、思う存分の芝居をしても好い筈でありますが、併し十種香の場では、良人の勝頼がちゃんと出ているのであります。其の勝頼は主役でないとしても、万一、自分よりも先輩の役者がつき合ってくれたとしたら、それをほったらかしで、勝手なひとり一人芝居をしたら失礼でありましょう。よし又それが端下役者であったとしても、八重垣姫は何処までも勝頼の妻なのでありますから、良人は良人らしく立てて行くのが妻の努めであると同様に、芝居をするにしても、其の気持ちでやって行かねばならぬと、私は思うのであります。

 それでなくとも、お客の眼は八重垣姫に集まっています。其の八重垣姫が、勝頼を中心にして切ない思いを運ばねばならぬのに、その勝頼をそっち除けにして、池に浮んだ水鳥などを相手に芝居をしたのでは、勝頼をデクの坊にするばかりでなく、其の場面も中心が二つに割れて、八重垣姫は一人で遊び事をしているようなものとなって了いましょう。
 斯うした心得を常に持って居ねばならぬようなことは、此の十種香の場合ばかりでなく、他の場合にも沢山あろうと思います。
 私は雀右衛門さんの大きな腹に感心して、此の芝居中とても愉快におつき合いしまして、奥庭の場では、私が狐を遣って、宙乗りで雀右衛門さんの八重垣姫を、中有に抱いて上りました。

(独立行政法人日本芸術文化振興会発行 上演資料集514号=平成20年9月より 出典は『文五郎芸談』昭和18年2月・桜井書店刊 

染模様妹背門松 
解説 
  (上演資料集〈6〉 「染模様妹背門松 解説・梗概」(則藤 了氏・吉永孝雄氏による)より抜粋) 

 世話物二巻 〔作者〕菅専助〔名称〕角書に「語伝た袂の白絞 言伝た忍の寝油」とあり、また奥書に拠っても海音作「袂の白絞り」を粉本にしていることが知られる。
  外題の染と松にお染久松を効かせてあり、二人の情死が正月に起こった(作中では元旦)ことも暗示している。

〔題材〕
 宝永7年正月に起こった油屋娘お染と丁稚久松との情死事件を題材としたもので、実話については、主人の幼児を誤って死なせたものだ等々という説が行われていたが「鸚鵡籠中記」の記事によって事実を脚色したものであることが確認された。この事件を脚色したものには、早く紀海音の「お染久松 袂の白絞り」があり、本曲はそれにおう所が多いが、時代世話物を経てきた影響も多く見られ、作品内容よりもむしろ後期二、三巻形式の最初の作品として浄瑠璃史上大きな意味を持つ。

〔初演〕
 明和四年(1767)12月15日初日。「井筒業平河内通」「鬼一法眼三略巻」等、みどり狂言四種を前狂言とする切狂言として、北堀江市の芝居、豊竹此吉座元で上演される。この作品が大当りをとり、その収益で座は道具蔵を新築し、後にこれをお染蔵と称したと伝えられる。(「増補浄瑠璃大系図」)

〔構想・価値〕
 海音の「袂の白絞」に拠りつつ、中期時代世話物時代を通過した跡をはっきり見せている。上の巻ではお染の兄多三郎と小糸(おいと)との仲を中心に筋を展開し、下の巻でお染久松中心の話へとつないでいく二重構造になっており、前期の純世話物に比して筋が複雑化している。因みに、主人公ともう一組、二つのカップルを絡ませて筋を構成していく手法は専助の好んで用いた方法であり、専助世話物の一つの特色である。特に勝れているのは下の巻質店の段で、久松の親久作の皮足袋の強意見、太郎兵衛の白骨の御文章の件は、此太夫の語りと相俟って大評判を取り、菅専助の名を一躍有名にした。同時にこの作品は中期時代世話物時代の後を受けて生まれた。後期の複雑化した二、三巻形式の世話物の第一作であり、「艶容女舞衣」等後期世話物の佳品を生みだす原動力となった作品として浄瑠璃史上に残るべき作品である。

〔影響〕
 この作品は近松半二の改作「新版歌祭文」に影響を与え、特に質店の段の親久作の意見が野崎村の段に採り入れられて大当りをとった。
 
 (国立劇場発行 上演資料集〈6号〉=昭和59年11月より) 
参考 
    原作  『染模様妹背門松』質店の段・後半
 『染模様妹背門松』下之巻「質店の段」後半は現在「蔵前の段」として独立して上演されるが、お染のクドキ「口説き歎くぞ道理なる」迄は原作どおりで、以後は改訂台本となっているので、左に原作(七行正本四十四ウ4行目以降)を参考として翻刻する。

アアコレ声が高い。アレ仏ツ前ンにも旦那の声。お勤めが始まった。アノお声が聞納。長々お世話に成ツた上。恩を仇なる此しだら。御赦されて下さりませ。お染さま。スリヤどふいふても御一ツ所に。どふも生キては居られぬわいの。御尤でござります。其お腹では。成ル程生キては居られますまい。エエ悲しい事云出してたもる。五月キこせば人の形。二人リが中の奔走子。可愛や。因果な腹に懐て。月日の光りも見ず。闇からやみに迷ふと思や。身ふしが砕ていぢらしいわいのわいの。ヲヲそふでござります。其子計リかお前もそなたも。此世の名残は真の闇。所隔て死る共。未来は必一つ蓮連レ立て参りますと。内と外とに園原や。有とは見えて声計リ今を限りの暇乞。仏前には親太郎兵衛。看経の声殊勝なり。アレアレ久松。夜明ケも近いか元朝のお勤。是からが白骨のお文様。そなたやわしや腹な子の。未来の引導聴聞仕や。それ人間の浮生なる相を倩感ずるに。おほよそはかなきものは此世の始中終幻のごとくなる一期なり。お染様お聞きなされませ。アノお文リに違ひはない。思へば夢の一期でござりましたな。朝は紅顔有て夕には白骨となれる身也。既に無常の風来りぬれば。即ち二つの眼忽に閉。一トつの息長く絶えぬれば。紅顔空しく変じて桃李の粧ひを失ひぬる時は。六親眷族集まりて嘆キ悲しめ共更に其甲斐有べからず。さてしも有ルへき事ならねば迚野外に送って。夜半の煙となし果ぬれば只白骨のみぞ残れり。嘸あの通リに死だ跡では。爺さまかゝ様の歎悲しみ今見る様でおいとしぼい。ふ孝を赦して下さんせへ。早く後生の一大事を心にかけて。阿弥陀仏を深く頼参らせて。念ン仏申へき者也。穴賢穴賢。云合さねど二人共。是か此世のお別れと。わつと泣出す其中にも。今死る身の偽りを。誠と思ひ親父様。寒かろうけれど夜明ケ迄。此蔵に居てくれい。旦那に隠して夜明には。お家が出して下さる筈。二日の朝は迎にくると。いそいそとしていなしやつたが。死骸を在所へ連レていて。嘸や恨ミの諄と。思へば悲しい悲しいと窓に喰付。泣居たる。其とはしらず坪の内。何やら物音気遣イと。障子ぐはらりと親太郎兵衛。そこに立ツて居るは誰レしや。アイ。私でござります。フウお染か。此寒いに何してゐる。サ。是いな。アノ。ヲゝ夫レ々。余り炬燵の火がきつうて。上気したさかいで。こゝへ醒ましに。フムウ夫レでそこに居ルか。アイ。そんなら。マアちよつと爰へこいこい。しる通リ先度のもやもやから。内外の者や嚊が手前。子に甘いと云れふかと思ひ。常住こはい顔して居れど。心の内ではおりや何にも呵て居やせぬぞよ。マア案じな。兄の原めも清兵衛殿の世話で。とんと心入かへ。商売に精出そと云詫言で。年明ケけたら早々戻る。いととやらいふ女郎は清兵衛殿の妹にして。われざ嫁入と跡先キに。こつちへ嫁に取筈に極た。又われもむちやくちやと。山家屋へいくはいやじやそふなけれど。コリヤ義理の有嫁入。いはいでも合点であろ。何かは置て媒が両方の町のお年寄。今更変改しては此お衆の顔も立タず。本家を麁抹にすると云はれては。太郎兵衛人中へ顔出しがならぬ。われも時分ンの娘じや物。惚た者もあろ。こそこそとやつた事もあろ。夫じやてゝ呵りやせぬ。けれ共。こふした訳しや程に。何もかも東堀へ流して。さつぱりと嫁入してくれ。同し男を待タすなら。好た者に添しはせいで。むごい親じやと恨ンでくれよ。イヤモ恨る分ンは何ンほ恨ミても憎んでも構やせぬが。一ト筋な子供心で。埒もない事やどして。園八ぶしとやらの道行に。語られる様に成たらば。おりやモウ泣死にかなするであろ。ナ。呑込ンたか。得心したか。今御前ンで戴た白骨のお文リは。元ン朝と灰寄とに戴段。あの通じや程に。生キて居る間か花。死ンで仕廻ば美しい其顔も。はでな形リも只白ツ骨のみぞ残れり。必々アノお文リを。灰寄に読さぬ様にしてくれよと。こぼす涙は身に燙湯。只アイ。アイ。アイと計リにて延紙の。数々泣尽す。サアサア七つでも有ふ。おれはそろそろ礼拵へ。稲でもつめと手を引れ。鴛鴦のかたはの別れ路や。泣音立たねどふり袖に。包む涙に脇さむく。胸は冷やせど是非もなく伴ひ。内へ入リにけり。いつの間にかは忍び入ならず者の源右衛門。善六も頬かぶり囁黙頭蔵の引キ戸。めつきめつきとこぢ放す。内には久松透見て。死るを高と身を堅め。質の脇指抜キ放し。侍共しらずしてやつたと。飛込ム善六待かけて日比の意趣と切付る。あつとのめれば源右衛門。恟りうろたへ逃出す。首筋摑で聟清兵衛。引ツかづいてどうと投。盗人捕た挑燈と。呼はる声に家内の上下。弓張手燭とつさくさ。悲しやお染が自害したと。死骸を抱キ二親は涙ながらにかけ出れば。清兵衛はじだんだ踏。エエ手延にしたが残念ン残念ン。嫁入て来次第其形で直クに野崎へ。久作と夫婦にせふと思ふたも。後手に成たか口惜しやと。身をもむ所へ多三郎夫婦。久作はまやしの源太。引くゝつて連レ来り。お染久松心ン中と読売は此まやしめ。善六に頼まれたと一部始終を皆白状。重々憎い此三人。代官所へ引立帰しよ。マア気がゝりは蔵の内。ヤア久作も首くゝつた。アア可愛やと腰も抜。泣クは難波の河内鳥。浮名を流す追善と。哀を残す角屋しき尽せぬ。筆に伝へける。
 
  (国立劇場発行 上演資料集〈6号〉=昭和59年11月より。尚、引用本文には読みかなと文字譜の添記あり)
 
 
 
 
 
 
首の名前
 役名 かしら名 
寿式三番叟
千歳 若男
孔明
三番叟 検非違使 
三番叟 又平
 
奥州安達原 
平傔仗直方  鬼一 
妻浜夕  
敷妙御前 老女形
八幡太郎義家 源太
桂中納言則氏実は安倍貞任 文七
外が浜南兵衛実は安倍宗任 小団七
外が浜南兵衛実は安倍宗任 大団七 
袖萩 老女形
娘お君 女子役
  
本朝廿四孝 
花作り簑作実は武田勝頼 若男
八重垣姫
腰元濡衣
長尾謙信 鬼一
白須賀六郎 検非違使
原小文治 小団七
 
染模様妹背門松
娘お染
丁稚久松 若男
番頭善六 手代
下女りん 丁稚
倅多三郎 源太
芸妓おいと
山家屋清兵衛 検非違使
母おかつ 老女形
大阪屋源右衛門 陀羅助
小道具屋利兵衛 端役
祭文売り 端役
質受男 端役
質入女房 老女形
百姓久作 白太夫使
親太郎兵衛 定之進



 







 
衣裳
寿式三番叟
千歳 紫繻子槍梅染縫大口半素袍(むらさきしゅすやりうめそめぬいおおぐちはんすおう)
茶地錦蜀江華紋狩衣(ちゃじにしきしょっこうかもんかりぎぬ)
三番叟 黒繻子若松鶴染縫半素袍(くろしゅすわかまつつるそめぬいはんすおう)
  
奥州安達原
袖萩 黒縮緬藤色縮緬御所解模様切継着付(くろちりめんふじいろちりめんごしょときもようきりつぎきつけ)
 
本朝廿四孝
八重垣姫(奥庭) 白羽二重火炎台付着付(しろはぶたえかえんだいつききつけ)
 
染模様妹背門松
娘お染(油店) 紫縮緬薬玉友禅振袖着付(むらさきちりめんくすだまゆうぜんふりそできつけ)
娘お染(生玉)  黒縮緬蝶々花友禅振袖着付(くろちりめんちょうちょはなゆうぜんふりそできつけ)
娘お染(蔵前)  縮緬浅葱赤段鹿の子振袖着付(ちりめんあさぎあかだんがのこふりそできつけ)
 



資料提供:国立文楽劇場衣裳部
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首の名前
ぷち解説
衣裳
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