寿柱立万歳
解説
 家の門ごとに訪れ福を与えるために芸を披露する“門付け”は古くから日本各地に幅広く見られ、その種類もとくに中世以降には多岐にわたり、万歳を始めとして節季候、厄払い、祭文、ちょんがれといった、人形浄瑠璃の舞台でもおなじみの芸の数かずが見受けられます。「柱立て」は、家を建てる際に大黒柱に神を宿らせる儀式より起こり、正月に家々を門付けして滑稽なやりとりや舞を披露し祝福をもたらす三河万歳のレパートリーに入りました。待乳山聖天、富士山を背景に、太夫と才三が扇や鼓を片手に家々の繁栄を願う言葉を述べ舞い始めます。ご祝儀曲として陽春公演をにぎやかに開幕します。 
 (独立行政法人日本芸術文化振興会発行 第102回=平成184月文楽公演番付より)
 
菅原伝授手習鑑 
主な登場人物 
 
 解説
 菅原道真(845~909)は10才で詩をつくって父を驚かせたといわれるほどの天才で、文章博士となり、抜擢されて朝廷の機密に参与するようになった。後醍醐帝の御代には右大臣となり、左大臣藤原時平とともに帝を輔(たす)けていたが、時平のために讒言されて、突然、太宰帥(だざいのそつ)におとされ、その配所で亡くなった。京都の人々は道真の徳をしたい、北野に社をたてて霊をまつり、文道の祖と仰いだ。  近松門左衛門は道真に対する信仰や天神の伝説をもととして正徳3年(1713)に「天神記」を書いたが、竹田出雲、三好松洛、並木千柳らはこれを基本として、さらに当時、大阪の天満で三つ子を産んで、お上からお金をいただいた町のニュースを取り上げ、道真の作と伝える「梅は飛び桜は枯るる世の中になにとて松のつれなかるらん」の歌にヒントを得て、趣向をこらし「菅原伝授手習鑑」を書きおろしたといわれる。三つ子を上から梅王丸、松王丸、桜丸と名付けたのもそのためである。 「義経千本桜」「仮名手本忠臣蔵」とともに時代物を代表する本格的な五段組織の狂言の傑作で、初演は延享3年(1746)8月の竹本座であった。
  (国立劇場事業部発行 第22回=昭和47年5月文楽公演〈東京〉番付より)
 菅丞相(かんしょうじょう)の領地に住む百姓の四郎九郎(しろくろう)は、三つ子の兄弟を授かりました。菅丞相は、三つ子は天下泰平の吉相なので、成人したら舎人として出仕させるようにと命じます。四郎九郎は佐太村にある菅丞相の下屋敷を預かって、庭の梅・松・桜の木を守りながら、安楽に暮らせることになりました。この菅丞相の三本のご愛樹に因んで、三つ子は梅王丸、松王丸、桜丸と名付けられます。やがて梅王丸は右大臣菅相丞に、松王丸は左大臣藤原時平(ふじわらのしへい)に、桜丸は帝の弟宮斎世親王(ときよしんのう)に舎人として仕えるようになるのでした。  菅丞相の優れた書の技がこのまま絶えてしまうことを惜しんだ帝は、菅原の筆法を伝授しておくようにとの勅諚を下します。子息の菅秀才(かんしゅうさい)は未だ幼子であったため、勘当した旧臣武部源蔵(たけべげんぞう)を探し出し筆法を伝授しました。  左大臣藤原時平には謀反の志がありました。邪魔な存在の右大臣菅丞相を、讒言によって筑紫(つくし)流罪に追いこみます。時平の悪計が子息にまで及ぶのを恐れた武部源蔵夫婦は、菅秀才を匿うことにするのでした。  菅丞相が筑紫へ流されてから浪人となった梅王丸は、吉田神社の近くで偶然に桜丸と出会います。  時平の讒言の種となったのは、帝の弟宮と菅丞相の娘との恋を、桜丸夫婦が取り持ったことでした。桜丸は責任を感じ、切腹を覚悟しています。また梅王丸は主人菅丞相を追って筑紫へ行くべきか、行方不明になっている御台所を探すべきかと、心の迷いを打ち明けます。二人は、間近に迫った父四郎九郎の七十歳の祝いを、とにかく無事に済ませようと話すのでした。  そこへ、吉田神社に参詣する時平の行列が通りかかります。梅王丸と桜丸は、この機会に恨みを晴らそうと立ち塞がりました。時平の舎人として仕えていた松王丸とは図らずも敵味方となり、兄弟同士で押し問答が始まります。しかし、車を蹴破って現れた時平の威光に、梅王丸と桜丸はどうすることもできず、父の賀の祝いが済むまで勝負を預けることにするのでした。
 (日本芸術文化振興会発行 第86回=平成14年4月文楽公演番付より)
 抜き書きノート

《丞相》・・・ショウジョウと読みます。“丞”は承、“相”はたすけることで、君主の命を承(う)け、これを助けるという意味。つまり宰相大臣のことです。中国の秦の代から漢の時代にかけて使われたのが、日本にも伝わり大臣の異称として用いられるようになりました。菅丞相とは大臣菅原道真の愛称で、道真がいかに庶民から親しまれていたかを示すものです。

《賀の祝》・・・もと大陸で起った風習を移入したもので、四十歳・五十歳・六十歳というように、十年ごとにおこなわれる年寿の祝いのことです。日本では天平12年(740)10月、聖武天皇の四十歳を記念して良辯僧正が講を設けたのが、最初だといわれています。平安時代には宮廷や貴族の間でさかんにおこなわれ、その後庶民にも伝わり、江戸時代になると六十一歳の還暦の祝、七十七歳の喜寿の祝、八十八歳の米寿の祝など、種類もふえておこなわれるようになりました。『菅原』における白太夫の「賀の祝」はいわゆる七十賀で、杜甫の曲江の詩の中にある「人生七十古来稀」の句から取って“古希の祝”と称されるものです。

《寺子屋》・・・中世の寺院教育をもとにして生まれ、江戸時代の庶民のあいだで発達した初等教育機関、つまり、当時の小学校です。史実からいえば、菅原道真の時代に寺子屋などはなかったわけですが、浄瑠璃や歌舞伎の作者は初めから時代考証を無視していましたので、こうして寺子屋を「菅原」中最も重要な場面として扱いました。もちろん舞台に見られる寺子屋の風俗は、江戸時代のそれを写したものです。教授科目の中では書道が一番重要だったこと。師匠は浪人が多かったこと。師弟の関係は親子以上に絶対的で、一たん結ばれた以上は生涯消えなかったこと。これらはすべて江戸時代の寺子屋教育に見られたものです。

 (日本芸術文化振興会発行 第22回=昭和47年5月文楽公演〈東京〉番付より)
参考 
上演資料集〈10〉(昭和60年6月・国立劇場発行)より
         「菅原伝授手習鑑」についての目次一覧


   『菅原伝授手習鑑』上演年表
   解説と梗概   三宅周太郎
   型と演出     四段目切 寺子屋の段 杉山其日庵  
   芸談       寺子屋談議 八世 竹本綱大夫
              『寺子屋』の語り口  山口廣一
   研究        『菅原』初演の太夫、人形遣いのことなど 吉永孝雄
             菅原伝授手習鑑の作者 間民雄
             浄瑠璃解註 吉永孝雄・佐野愛子

   劇評 大阪御霊文楽座を観る(明治44・2 文楽座) 清潭生
       文楽座の人形浄るり(昭和11・7 歌舞伎座) 安部豊
       新橋演舞場の文楽人形浄瑠璃(昭和13・7 ) 安部豊
       明治座の文楽聴観(昭和14・8 明治座)   安部豊
   参考  『菅原伝授手習鑑』初演時の資料
 
 
『菅原伝授手習鑑』「佐多村の段」ゆかりの地巡りはこちら 
 
 
楠昔噺 
主な登場人物 
 
 解説
 「太平記」を題材に、楠正成を扱った五段続きの時代物です。  初段から順に、人日(じんじつ 一月七日)、雛、端午、七夕、重陽の五節句が織り込まれています。  今回上演される「碪拍子(きぬたびょうし)」「徳太夫住家」は、三段目で、「桃太郎」「舌切雀」といった昔話も利用されています。  作者は並木千柳、三好松洛ほか、初演は1746(延享3)年、大阪竹本座です。
 これまでの物語
 14世紀、鎌倉幕府と、それを倒そうとする後醍醐天皇の争いが続いています。
 河内(大阪)の楠正成は、天皇に味方し、天王寺をめざして出陣しました。幕府側からは、宇都宮公綱が出陣しました。

 《碪拍子の段 あらすじ》
 その戦乱の世の中で、河内の国の松原村に住む老夫婦、徳太夫と小仙は、昔話そのままの生活をしながら、仲よく暮らしています。
 今日も、徳太夫は山で芝刈りをし、小仙は川で洗濯をしています。
 この二人は、ともに子供を連れて再婚した夫婦でした。今は、小仙の娘のおとわとその夫正作、息子千太郎と暮らしています。(ただし、正作は、牛の仲買のため春から留守でした。)
 徳太夫は、血のつながりのないおとわたちが、本当の親のように親切にしてくれることが嬉しくてなりません。
 一方、徳太夫の息子の竹五郎は、気性が荒く、再婚する前に既に勘当されていました。従って、小仙とは面識はありません。それでも、小仙を慕い、勘当を許してもらおうと、密かに手紙のやりとりをしています。
 やがて、洗濯をする小仙のもとへ、山から徳太夫が戻りました。
 二人が話していると、橘の花が川を流れて来ました。小仙は孫のみやげにと花を拾いました。徳太夫も孫のため山で雀を捕まえていました。互いの持ち物を見た夫婦は次のように考えます。
 徳太夫は、「橘」氏出身の正作と橘の組み合わせは、正作の出世の吉兆ではないかと。小仙は、竹五郎の「竹」につきものの雀を養えば、やがて勘当の許される日が来るのではないかと。
 どちらも、義理ある関係に気を配っているのです。そこで、二人は互いの持ち物を交換しあいました。
 さて、その頃、天王寺での合戦も、一段落着いていました。まずは、正成が幕府の大軍を破り勝利を納めました。しかし、不思議なことに、正成はその後の公綱との戦いではすぐに兵を引いてしまいました。今。天王寺に陣を敷いているのは、公綱です。
 この噂を聞いた夫婦は、喧嘩となります。徳太夫が正成の、小仙が公綱の肩を持ったからです。二人は、橘と雀を取り返すと乱暴に捨て去り、家に戻りました。

《徳太夫住家の段 あらすじ》 

 その翌日、端午の節句。
 節句に飾る長刀や鑓を、商人が売り歩いています。おとわは、商人から長刀や鑓を買い求め、ついでに牛小屋で休憩させてやりました。
 実は、このおとわの夫が正成でした。親に心配をかけないために牛の仲買いに出たことにしているのです。
 ところが、徳太夫は以前からそれに気づいていたのです。
 天王寺での戦いが気にかかる徳太夫は、おとわに真実を確かめます。と同時に、公綱に味方する小仙には一切を隠すよう注意するのでした。
 夕方になりました。
 娘を連れた武家の女性が、徳太夫の家を訪れます。公綱の妻照葉と娘のみどりでした。
 公綱とは、出世した竹五郎だったのです。小仙はそれを知っていて公綱に味方したのでした。
 小仙は、二人を奥の部屋へ通しました。照葉は、孫娘と天王寺での手柄に免じ勘当を許してもらうつもりで、徳太夫を訪ねて来ています。徳太夫の正成びいきを知る小仙は一人思案に暮れます。
 夫婦は、昨日の喧嘩以来口をきいていませんでしたが、思い切って互いの秘密を打ち明けることにしました。
 天王寺で戦っているのが自分の身内であると知れば、当然そちらに味方するだろうと、考えたのです。たとえば、もし小仙が、正成が婿であることを知れば、正成に味方するはずです。
 ところが、徳太夫も公綱が息子であることを、小仙も正成が婿であることを知っていたのです。すべてを承知の上で、義理ある息子、婿に味方していたのです。
 けれども、二人が最も悲しく思っていたのは、このまま一家が敵味方に別れてしまうことでした。そこで、正成と公綱を和解させるため、まだ幼い孫の千太郎とみどりを結婚させることにします。
 二人の孫を連れ出し、いよいよ盃を酌み交わそうとしたとき、ふたりの母親が飛び込んで来ました。
 この縁組を猛反対され、落胆した夫婦は仏間へと姿を消します。
 おとわと照葉が言い争っていると、庭から烽火が上がり、山にたくさんの篝火が現れました。正成の軍勢と見て取った照葉はその場を立ち退こうとしますが、おとわがそれをさえぎり、争いが続きます。
 そのとき、隣の部屋から刀で争う音が聞こえて来ました。見れば、徳太夫と小仙が刺し違えて、血まみれです。
 実は、先ほどの烽火は徳太夫が上げたものでした。それを合図に、火を焚いて鬨の声を上げるよう、山仕事の仲間に頼んであったのです。
 徳太夫は、こうして正成の軍勢のように見せかけて公綱勢を天王寺から追い払おうとしたのです。これは、正成に対する徳太夫の返礼でした。
 というのは、徳太夫は、正成が公綱と戦わずに兵を引いたのは公綱に手柄をたてさせ父親を喜ばそうとしたためだと、考えていたからです。
 しかし、それが、公綱を助けようとする小仙との争いを引き起こしてしまいました。和解に失敗したとき死を覚悟したものの、悲しい結果となりました。
 公綱が天皇方につけば勘当を許すという言葉を残し、老夫婦は、手を取り合って息絶えます。
 それまで牛小屋で眠っていた商人が立ち去ろうとします。しかし、いつの間にか家へ戻っていた正成に呼び止められます。
 この商人こそが、正成を狙う公綱でした。公綱は、正成めがけ矢を射ましたが、正成と見えたのは藁人形でした。
 正成は、この老夫婦の最期の場所での争いを避けるつもりですが、公綱は鑓を構えます。すると、徳太夫の死骸が起きあがり、その鑓を折ってしまいました。
 死者の魂は、死後四十九日間はその家に留まると言われています。さすがの公綱も、あくまでも二人の争いをやめさせようとする父親の心を思いやるのでした。
 正成と公綱は、忌明けまでは勝負しないことを約束して、別れます。

(日本芸術文化振興会発行 第40回=平成3年4月文楽公演番付より 

曾根崎心中 
解説 
 近松門左衛門の世話物の第一作というばかりでなく、この作品が大当たりしたことによって、時代物が主流だった浄瑠璃の世界に、初めて世話物の地位を確立した記念すべき作品です。時に近松51歳。
 元禄16年(1703)4月7日、大阪曽根崎天神森で実際にあった徳兵衛とお初の心中事件に取材、丁度一カ月後の5月7日、竹本座で初演されました。
 その後は「曽根崎模様」「往古曽根崎村噂」などの改作が上演されてきましたが、昭和28年歌舞伎で、文楽としては同30年1月、四ツ橋文楽座で復活。原曲は廃曲になっていたため、野澤松之助の脚色、作曲によって復活上演し、今日に至っています。
 
 (独立行政法人日本芸術文化振興会発行 第108回=平成19年11月文楽公演番付より) 
『吉田玉男(初世)文楽藝話』(曽根崎心中の項)より抄録
 当時(松竹時代)、芝居の配役は、奥役さんといって、今でいう制作部の方が、各芸人の家を回り、それぞれ役納めをしておられました。昭和29年晩秋、いつものように、奥役さんが我が家を訪ねて来られた。三業別で各々、顔付の順に上から回られるので、人形部で序列が七番目だった私の所へ来られるのは、常に夕方です。その奥役さんの口から思いがけない話が出たのです。来年1月、近松門左衛門の『曽根崎心中』を復活上演する。ついては、私に主役の一人、徳兵衛を持つように、と。それまでも、偉い人から順番に役を納めて、私の所へ至る時分にはほとんどの役が決まっていて、否も応もなかったのですけど、この時はさすがに「大変なことになったなあ」と思いましたね。

 近松さんの物でも古典では、治兵衛や忠兵衛を手がけてはいたのですけれど、復活物となるとお手本がないわけですから、果たして自分に出来るかどうか、不安もあった。しかし、せっかくのお声がかり、舞台人にとって大きなチャンスですので、喜んでお引き受けすることにしました。
 事前に、野澤松之輔さんによる台本と作曲が出来ていましたので、それを読み、また、曲を聴かせていただき、役づくりの参考にして、稽古に臨みました。

 準備の段階で議論になったのが、「天満屋」で、お初の足を出すか出さないかという問題。私としては、心中を覚悟する大事な場面の感情表現がしやすいので、出してほしいと思ったのですけど、お初を持たれる二世栄三さんが、あくまで反対された。でも、演出家を初め大勢の意見が、出す方に傾いて、最後は栄三さんも納得されました。

 「天満屋」では、やって来た徳兵衛が門口から中を覗いてお初を見つけた後、その場にしゃがみ込む。初めは柳の下にじっと立っていたのですけれど、ある時、舞台をご覧になった松竹の大谷会長に監事室へ呼ばれ、「玉男君、あそこは立ったままよりへたり込んだ方が、哀れらしゅうてええのと違うか」といわれ、直しました。本当のところ、私は「生玉社前」での喧嘩騒ぎの後でいくらくたびれているといっても、徳兵衛は、お初のことが気がかりで、一刻も早く中へ入りたいはずですから、立っていた方により哀感が出ると思っていました。今は、立っているとしんどくて、人形が持ち下がりしてくるので、楽して座っていますけれど、これからこの役を持つ若い者は何もその通りに真似ることはありません。独自に役を解釈して変えてもらっていい。

 止めたといえば、幕切れに足拍子を入れるのもそうです。普通、「封印切」(『冥途の飛脚』)の梅川忠兵衛などでは、「跡は野となれ大和路や」で三味線のチンチンチチンチンにのせて、足拍子を踏ませます。その式でやるつもりでいたら、「天満屋」を語っておられた先代綱大夫さんより、「お客さんから手の来る、人形遣いの見せ場であることは承知しているけれども、そこを堪えて、足拍子をさせずに入ってもらいたい」とご注文がありました。

 道行の徳兵衛の衣裳は、これも当初のやり方と変わっています。初演時は、「天満屋」と着付を替えていた。梅川忠兵衛でも道行では対の衣裳にしていますから、理屈を離れて、芝居ではあることです。けれど、どうも私には、衣裳を替えてしまうと、「天満屋」との気持ちのつながりがなくなるように思えてならず、同じ年の7月に新橋演舞場で上演した時から、着替えないことにしました。
  すぐにではなく、徐々に変化していった部分もあって、ラストシーンもその一つです。以前は、徳兵衛が刀を構えたところで、チョンと祈頭(きがしら)となって、そのままキザミで幕、としていた。ところが、海外公演などではそれでは分かりにくいらしく、徳兵衛がお初を刺して、自らも喉笛を掻き切り、抱き合って死ぬところまで演じるようになりました。本当なら、お初を突いた後、懐剣を持ち直すはずですが、そこはお芝居の嘘で、そのまま自分の喉へ刃を当てるようにしています。ただし、ここも、刀を構えたままで幕とした方に余韻があっていいという意見もあり、私も実はそう思わなくはないのです。海外や鑑賞教室と通常の公演とで演出を変えてみるのも一つの方法でしょう。

 『曽根崎心中』は、復活初演以来、お陰様でたいへん好評をいただき、人気に支えられて、日本だけでなく海外でも再演をくり返しています。お初役は、栄三さんから、清十郎君(四世豊松清十郎)、蓑助君、文雀君、一暢君と移り変わり、平成6年8月20日に、私の遣う徳兵衛が1000回に達しました。その後も回を重ね、これほど多く持った役は他にありません。さまざまな工夫や研究を積み上げながら創り上げてきた、ひときわ愛着の深い作品です。(聞き手 森西真弓氏)
 
  (日本芸術文化振興会発行 効率劇場上演資料集増刊=2007年9月『吉田玉男文楽藝話』より)
 (S.M.)
 
 
 
 
首の名前
 役名 かしら名 
寿柱立万歳
太夫 若男
才三 祐仙
 
菅原伝授手習鑑 
親白太夫  白太夫 
百姓十作 斧右衛門
女房八重
女房春 老女形
女房千代 老女形
松王丸 文七
梅王丸 検非違使 
桜丸 若男
よだれくり 丁稚
女房戸浪 老女形
一子小太郎 男子役
下男三助 端役
武部源蔵 検非違使
春藤玄蕃 金時
御台所 老女形 
  
楠昔噺 
祖父徳太夫 武氏
祖母小仙
柴刈男 端役
麦刈男 端役
団子売 又平
落武者 祐仙
女房おとわ 老女形 
倅千太郎 男子役
宇都宮公綱 大団七
妻照葉 老女形
娘みどり 女子役
楠正成 検非違使
注進 鬼若
 
曾根崎心中
手代徳兵衛 源太
丁稚長蔵 丁稚
天満屋お初 ねむりの娘
油屋九平次 陀羅助
田舎客 端役
遊女
天満屋亭主 端役
女中お玉 お福



 







 
衣裳
寿柱立万歳
太夫 羽二重四色段染半腰・納戸精好若松白抜染半素袍(はぶたえよんしょくだんぞめはんこし・なんどせいごうわかまつしろぬきそめはんずおう)
才三 羽二重四色段染半腰・鶸精好橘白抜染半素袍(はぶたえよんしょくだんぞめはんこし・ひわせいごうたちばなしろぬきそめはんずおう)
  
菅原伝授手習鑑
松王丸(寺子屋) 黒天鵞絨雪持松鷲縫平袖大寸着付・長羽織くろびろうどゆきもちまつたかぬいひらそでだいすんきつけ・ながはおり)
 
曾根崎心中
天満屋お初(生玉) 白縮緬露芝石竹友禅着付(しろちりめんつゆしばせきちくゆうぜんきつけ)
天満屋お初(天満屋)  朱色縮緬枝梅友禅着付(しゅいろちりめんえだうめゆうぜんきつけ)
天満屋お初(道行)  白羽二重着付(しろはぶたえきつけ)
 



資料提供:国立文楽劇場文楽技術室衣裳担当
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首の名前
ぷち解説
衣裳
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