二人禿
解説
 文楽諸演目の平均上演頻度は6年に1回と言われますが、本作は当劇場開場以来9回目の上演ですからざっと4年に1回で、屈指の人気曲の1つです。今回はちょうど5年ぶりの上演。
 野澤松之輔作詞・作曲、山村若栄(吉田文五郎の長女)振付の景事。昭和16(1941)年4月四ツ橋文樂座で『春げしき双草紙』の1曲として初演されました。
 (F.T.)
伽羅先代萩 
 解説
 これは当劇場7回目で5年に1回の人気曲。前回から5年9か月ぶりの登場です。
 万治(まんじ)3(1660)年陸奥(むつ)仙台藩主伊達(だて)綱宗(政宗の嫡孫)が幕府から隠居を命じられ、その子亀千代が2歳で家督を継ぎ、後見人伊達兵部少輔(ひょうぶしょうゆう)宗勝(政宗の末子)と国老(こくろう)原田甲斐(かい)宗輔が藩政の実権を握りました。10年が経過、一門の伊達安芸(あき)宗重らが伊達兵部・原田甲斐の暴政を幕府に訴えたため、老中板倉重矩(しげのり)が数回取り調べた後の寛文(かんぶん)11(1671)年3月、大老酒井忠清(忠清の養女が兵部の子宗興の妻になっていた)の屋敷で双方の対決を行なったところ、原田甲斐が乱心して伊達安芸を斬殺、自らもその場で討ち果たされる、という事件が突発しました。幕府の裁決の結果、藩主伊達総次郎綱基(つなもと)(亀千代が寛文9年11歳のとき元服。のち延宝(えんぽう)5年19歳のとき綱村(つなむら)と改名)は若年(当時13歳)のため責任なしとして62万石の本領を安堵(あんど)、伊達宗勝は流罪(るざい)、原田甲斐の一族はすべて死罪となりました。
  このいわゆる「伊達騒動」の最初の劇化は延享(えんきょう)3(1746)年江戸で上演された『大鳥毛(おおとりげ)五十四郡』。その後安永(あんえい)6(1777)年4月大坂(おおざか)道頓堀中(なか)の芝居・嵐七三郎座で奈河亀輔(ながわかめすけ)作『伽羅先代萩』、翌安永7(1778)年閏(うるう)7月江戸・中村座で初世桜田治助作『伊達競阿国戯場(だてくらべおくにかぶき)』がそれぞれ初演され、前者は同年9月京・竹本春太夫座で、後者は安永8(1779)年3月達田弁二・吉田鬼眼・烏亭焉馬合作で浄瑠璃化された(肥前座)。正本が現存している浄瑠璃『伽羅先代萩』は以上の諸作をもとに松貫四・高橋武兵衛・吉田角丸が合作した全9段の時代物で、天明(てんめい)5(1785)年1月江戸・結城(ゆうき)座で初演……と通常説明されるのですが、『伽羅先代萩』の最初の浄曲化が歌舞伎での初演から1年半近くたった安永7年9月京都、というのは少々遅いように思います。
  安永6年の大坂・嵐七三郎座の立作者・奈河亀輔は前年12月の二の替(かわ)り『伊賀越乗掛合羽(いがごえのりかけがっぱ)』で大当たりをとり、この狂言は早くも安永6年3月に北堀江市ノ側(いちのかわ)芝居・豊竹此吉(このきち)座で浄瑠璃化されています。三の替りに出した『先代萩』はこれに続くヒットなのですから、早ければ同年5月、遅くとも9月ごろまでには大坂のどこかの操り芝居に出ていておかしくありません。豊竹此吉座のほうは『乗掛合羽』以後5月・8月・12月といずれも別の浄瑠璃を出していますから、そのライバルで竹本春太夫が紋下を勤めていた竹田万治郎座だったのではないでしょうか? 春太夫は同年の冬に江戸に下り、翌安永7年の前半は外記座で豊竹春太夫として活動しますが、そのお目見えの口上で「一世一代」と言い、9月の京都での出演を一世一代として引退しています。とすれば、東下り直前の興行が大坂での一世一代でしょう。それが安永6年の8月ごろで『伽羅先代萩』だったとしたら平仄(ひょうそく)が合うように思います。そして、春太夫は江戸でも『先代萩』を上演し、これが刺激になって歌舞伎『伊達競阿国戯場』ができたのではないでしょうか? 現存の浄瑠璃正本『伽羅先代萩』は前述の通り天明5年1月に江戸で版行されたもので、奥付には当時の江戸作者の名前が出ています。しかし、もし初演が安永6年の夏から秋にかけての竹田万治郎座だったら、作者は八民平七・苣源七・竹田新四郎といったところでしょう。以上、後考を待ちたいと思います。
  『先代萩』は世界を「吾妻鏡(あづまかがみ)」に、『阿国戯場』は「東山」にとっているために両者の役名は全く異なります。現在の歌舞伎で『通し狂言 伽羅先代萩』として上演されるものは歌舞伎『伊達競阿国戯場』と浄瑠璃『伽羅先代萩』から「いいとこどり」をしたうえで『阿国戯場』の役名を使用していますが、文楽は当然浄瑠璃『伽羅先代萩』通りで鎌倉時代初期の設定になっています。
  陸奥出羽(でわ)54郡の主・冠者太郎(かんじゃたろう)義綱(藤原秀衡(ひでひら)の嫡孫)の京家老(源頼朝の政庁は京都にあることになっています)貝田勘解由(かいだかげゆ)は義綱の伯父錦戸刑部(にしきどぎょうぶ)と語らい、侍所別当(さむらいどころべっとう)梶原景時(かげとき)の後ろ盾を得て主家横領を企んでいるが、さらに父平国香(たいらのくにか)を秀衡に殺され(史実では国香を殺したのは同族平将門)、妖術使いとなって義綱への復讐を狙う常陸之助国雄(ひたちのすけくにお)と手を結ぶ。勘解由・刑部一派は義綱を隠居に追い込み、後を継いだ鶴喜代(つるきよ)を亡き者にせんとする。この陰謀を京都に訴えた伊達明衡(あきひら)は決断所での対決中に勘解由に斬られるが、勘解由・国雄も討ち果たされ、畠山重忠(はたけやましげただ)の明断でお家は安泰、刑部は遠流(おんる)、というのが主筋で、中心場面は3段目「神明町貝田屋敷」・4段目「南禅寺豆腐屋」・6段目「義綱館」・8段目「衣川定倉(ころもがわさだくら)屋敷」ですが、今日では6段目だけが上演されています。6段目は義綱が隠居して幼い鶴喜代君が当主となった館(現存正本には「鎌倉」と明記してありますが、ここは京の神明町でないと理屈に合わないように思います)が舞台。幼君に迫る魔の手を、必死で振り払おうとする乳人(めのと)・政岡(まさおか)(伊達明衡の妹)の姿と息子千松(せんまつ)の犠牲死・政岡の悲嘆が描かれるところで、全編のクライマックス・シーン。
 (F.T.)
 壺坂観音霊験記
 解説
 明治8(1875)年ごろに書かれた浄瑠璃『西国三十三所観音霊場記』を加古千賀(かこちか)女が補綴(ほてい)し、夫の2世豊澤團平が作曲して明治12(1879)年10月大阪・大江橋席で初演。その後團平が作曲し直し、明治20(1887)年2月、大阪・いなり彦六座で『三拾三所花野山』として上演した折のものが現行曲として定着。32(1899)年4月の明樂座で初めて壺阪寺の部分だけが付け物として上演され(外題は『三拾三所観音霊場記』)、36(1903)年5月の御霊文樂座では『壺阪霊験記』という外題が使われました。
  『三拾三所花野山』は人形浄瑠璃初演の翌年歌舞伎化されましたが、「壺坂」の一幕物も浄瑠璃初演と同じ年から盛んに上演され、たちまち浄瑠璃・歌舞伎双方での人気狂言となりました。昭和に入り盲目の浪曲師浪花亭綾太郎(1889~1960)によって浪曲化された『壺坂霊験記』も、ラジオやレコードという新メディアの登場もあって「妻は夫をいたわりつ、夫は妻をしたいつつ」という読み始めから誰知らぬものもない屈指の流行曲になっています。中村美律子の歌謡曲「壺坂情話」(1993年発売)を含め、すべて原作の浄瑠璃に力があるからこそのことでしょう。なお、実説は寛文年間(1661~73)に起こった出来事、とのことです。当劇場8回目で4年半に1回の割。今回は意外に間があいて7年ぶりの上演。
 (F.T.)
 冥途の飛脚
 解説
 近松門左衛門作、全3巻の世話物。本作は「正徳元(1711)年初秋吉日」付の序文のある筑後掾(ちくごのじょう)段物集『鸚鵡ヶ杣(おうむがそま)』に収められていることから、それ以前に竹本座で初演されたと推定されています。実説は明らかではありませんが、宝永6(1709)年以前の事件でしょう。宝永7(1710)年に梅川が京都で「2度の勤め」に出、前以上の評判になったことから、翌8(1711)年正月、京・都万太夫座で『けいせい九品浄土(くほんのじょうど)』として劇化されました。「際物」を取り上げるのは興行界の常とはいえ、実に酷薄な話です。本作はそれに続くものなのですが、近松は梅川を真実忠兵衛を思うやさしい女性として描いています。
 安永2(1773)年12月に菅専助・若竹笛躬による改作『けいせい恋飛脚』が初演されました(曾根崎新地芝居・豊竹此吉座)が、この作の「封印切」や「新口村」の趣向をそのままに寛政8(1796)年1月の大坂・角の芝居で歌舞伎化し、『恋飛脚大和往来』として上演されました。歌舞伎の現行演出の始まりです。
 一方、文化2(1805)年に手摺りにかかった『けいせい恋飛脚』では、その「新町の段」を4世竹本染太夫が『冥途の飛脚』の中之巻を復活して演じ、これ以後人形浄瑠璃では「封印切」は近松原作で上演することがスタンダードになったと考えられています。『先代萩』と同じく当劇場7回目、今回は4年ぶりの上演になります。
 昭和34(1959)年公開、内田吐夢(とむ)監督、中村錦之助(後名萬屋錦之介)・有馬稲子主演の東映映画『浪花の恋の物語』は近松門左衛門(片岡千惠藏所演)を事件の観察者として登場させ、梅川の2度の勤めの悲惨と近松が『冥途の飛脚』を上演して2人の恋を浄化するまでを描いています。ラストの「新口村の段」は三和会が演じましたが、ここは史実通りではなく三人遣いの人形・雪の新口村でした。
 (F.T)
 壇浦兜軍記
 解説
 朝日座時代はよく出たのですが、当劇場になってからは5回目で7年に1回の割。前回からちょうど5年ぶりの上演です。
 享保17(1732)年9月竹本座で初演、文耕堂・長谷川千四合作、平家滅亡後、源氏方に追われる平家の侍大将・悪七兵衛景清(あくしちびょうえかげきよ)とその情婦・阿古屋(あこや)の物語を描いた全5段の時代物ですが、宝暦5(1755)年11月の竹本座での見取り興行の際美声で鳴る竹本大和掾(やまとのじょう)が担当、同13(1763)年以降の各地での引退興行でも上演したことから、3段目の口である「阿古屋琴責(ことぜめ)」だけが今日まで残ったという珍しいケースです。
 平家が壇ノ浦に滅んで10年が経過した建久6(1195)年の春、かつて平重衡(しげひら)の焼き討ちによって炎上し、源頼朝が大檀越(だいだんおつ)となって進められていた東大寺の復興が完了しました。壇ノ浦で生き残り、源氏への復仇の機会を窺っていた上総(かずさ)七兵衛景清は落慶式に頼朝が参列すると聞き、東大寺にしつらえられた仮屋(かりや)を襲いますが、来ていたのが代参の正室・政子だったため一暴れして再び姿を隠しました。政子の供としてやってきた東大寺で景清から散々な目にあった岩永左衛門尉致連(さえもんのじょうむねつら)は、そのまま京に上って禁裏守護の代官を勤める秩父庄司重忠(ちちぶのしょうじしげただ)(畠山重忠)の助役となり、景清と馴染みを重ねていた京・五条坂の遊君(ゆうくん)・阿古屋を捕らえました。阿古屋の取り調べは重忠と岩永が1日交代で行うことになり、重忠は郎党(ろうどう)・榛沢(はんざわ)六郎に命じて景清の行方を尋問させましたが、知らぬ存ぜぬの一点張りなので、堀川御所で重忠が直々(じきじき)に詮議することになりました。
 (F.T)
首の名前
 役名 かしら名 
二人禿
禿
禿
 
 伽羅先代萩
八汐  八汐 
沖の井 老女方
鶴喜代君 男子役
千松 男子役
乳人政岡  老女方
小巻  老女方
忍び  端敵
栄御前  老女方 
  
壺坂観音霊験記 
茶店の嬶 お福
女房お里 老女方
座頭沢市 ねむりの源太
観世音 
冥途の飛脚 
手代伊兵衛 又平
国侍甚内 端敵
母妙閑
亀屋忠兵衛  源太
下女まん お福
丹波屋八右衛門 陀羅助
宰領 端役
花車 老女方
遊女梅川
遊女千代歳
遊女鳴渡瀬 
禿  女子役
太鼓持五兵衛  端役
駕籠屋  端役
駕籠屋  端役
壇浦兜軍記 
秩父庄司重忠 孔明
岩永左衛門 与勘平
榛沢六郎 源太
遊君阿古屋 傾城
水奴 端役
水奴 端役
水奴 端役
水奴 端役
 
 






 
衣裳
二人禿
禿  赤縮緬毛毬折鶴梅散し染縫禿着付(あかちりめんけまりおりづるうめちらしそめぬいかむろきつけ)
伽羅先代萩
乳人政岡  赤花紗綾形綸子着付(あかはなさやがたりんずきつけ)
白地唐織華紋打掛(しろじからおりかもんうちかけ)
黒繻子竹に雀縫打掛(くろしゅすたけにすずめぬいうちかけ)

冥途の飛脚
亀屋忠兵衛  納戸縮緬小棒縞下衣裳付着付(なんどちりめんこぼうじましたいしょうつききつけ)
遊女梅川  納戸縮緬御所解友禅赤縮緬平金散し胴抜着付(なんどちりめんごしょときゆうぜんあかちりめんひらきんちらしどうぬききつけ)
壇浦兜軍記
遊君阿古屋  藤色繻子破れ七宝花縫赤縮緬平金散し胴抜着付(ふじいろしゅすやぶれしっぽうはなぬいあかちりめんひらきんちらしどうぬききつけ)
黒繻子滝桜紅葉縫打掛(くろしゅすたきさくらもみじぬいつけうちかけ)
 



資料提供:国立文楽劇場文楽技術室衣裳担当
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