唐代の僧玄奘三蔵(602~664)が10年に及ぶ天竺(インド)への旅を記した見聞記『大唐西域記』は、16世紀の明の時代に、玄奘の従者孫悟空・猪八戒・沙悟浄の活躍を描く伝奇小説『西遊記』を生みだしました。『西遊記』は早くから日本にも持ち込まれましたが、一般に広まったのは『絵本西遊全伝』が文化3年(1806)から刊行がはじまったことによります。文楽の西遊記は『五天竺』と題され、文化13年7月御霊境内芝居で初演されたものです。文楽劇場では昭和63年(1988)に孫悟空の活躍に絞って改作し、『西遊記』として上演、親子劇場では度々取り上げられる人気演目となりました。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(独立行政法人日本芸術文化振興会発行 第127回=平成24年7・8月文楽公演番付より) |
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1719年(享保4年)、竹本座にて初演。近松門左衛門晩年(67歳)の円熟大盛期の傑作で全五段の時代物です。初演以来ほとんど二段目のみが上演されてきました。 しばらく上演が絶えていた本作は、昭和5年1月四ツ橋文楽座の竣工記念興行に、豊竹古靱大夫(山城少掾)、鶴澤清六(四世)、吉田栄三(初世)、吉田文五郎(三世)ほかによって二段目切の“鬼界ケ島の段”が復活上演されて今日に至っています。はじめて文楽に接する人にもわかりやすいため、高校生のための文楽教室や海外公演でもしばしば上演され、人気狂言の一つとなっています。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
≪俊寛≫ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
平安末期の僧、後白河院近臣、仁和寺法印寛雅の子、法勝寺執行。鹿ケ谷の山荘で、後白河院・藤原成親成経父子・平康頼・西光らと清盛打倒の計画を立てますが多田蔵人行綱の密告で露見、康頼・成経とともに鬼界ケ島に流されました。翌年、建礼門院御産の大赦で康頼・成経は帰洛を許されますが、俊寛は謀反の張本人として島に残され、ここで寂しく没しました。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
≪鬼界が島≫ |
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俊寛たちが流された「鬼界が島」については、いろいろの説があるが、その一つに鹿児島市の南方100キロ、種子島の西の海上に浮かぶ硫黄島がある。島の中央には、噴煙を上げる硫黄岳がそびえ、島内には俊寛堂をはじめ足摺り石、涙石など、俊寛伝説にちなむ故跡がある。もう一つの鬼界が島は、この硫黄島のさらに南、奄美大島の東にある喜界島で、ここにも俊寛が流されたという伝説があり、その墓だといわれるものも残っている | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(日本芸術文化振興会発行 第46回=平成4年7月文楽公演番付より) |
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享保2年(1717)8月22日、大阪竹本座で初演されました。『堀川波の鼓』の10年後、『大経師昔暦』の2年後に書かれた三姦通物最後の作品です。 享保2年7月17日の夜、大阪高麗橋上で妻敵討(めがたきうち)がありました。雲州松平出羽守の家中の茶道役正井宗味が、姦通した妻とよと、同家中の近習中小姓の池田文次を討ったのです。男は越後縮みの帷子、女は絹縮みの帷子を着ていたと記録に残ります。(『月堂見聞集』)。 この事件は当時大変な評判となり、歌舞伎では京阪各座で競演され、浮世草紙もいくつか上梓されたといいます。 主人公の名前は、当時のはやり唄「鑓の権三踊歌」でよく知られた名前をとったものとされます。昭和30年6月、野澤松之輔脚色で作曲復活されて以来、屡々上演されるようになりました。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(独立行政法人日本芸術文化振興会発行 第111回=平成20年7・8月文楽公演番付より) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
提供:上方の味 神宗 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
近松門左衛門(承応2〈1653〉~享保9〈1724〉)晩年の69歳のときの作品で、初演は享保6(1721)年7月竹本座。江戸時代に再演された記録はないが、明治以降近松研究がさかんになり、坪内逍遥の近松研究会などでとり上げられたことで見直され、先に歌舞伎で復活された。 文楽では、昭和27年(1952)年11月2日、芸術祭参加のNHKラジオ放送で、八代竹本綱大夫・十代竹沢弥七の作曲により素浄瑠璃として下の巻「豊島屋油店の段」が復活された。 その10年後、昭和37(1962)年4月道頓堀文楽座(因会)において、上の巻「徳庵堤茶店の段」・中の巻「河内屋与兵衛内の段」が野沢松之輔(西亭)の作曲により加えられ、人形浄瑠璃としては初演以来の上演となった。竹本綱大夫は病気で休演し、「豊島屋油店の段」は掛け合いとなった。 そして昭和57(1982)年2月東京国立劇場では、「逮夜の段」を五代鶴沢燕三の作曲により復活、261年ぶりの通し上演が行われた。 |
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(独立法人日本芸術文化振興会発行 上演資料集581号より抜粋) |
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