演目ゆかりのすぽっと    
 『女殺油地獄』  
   
  順慶町  

 2014年7月12日午後1時、応援団研修会を終え、演目ゆかりの地巡りに出かけようと集まったのは10名の団員。今回はホームグランドの国立文楽劇場から出かけました。
 地下鉄堺筋線の日本橋駅から天六方面に1駅。長堀橋駅で下車。進行方向前方のエスカレータを目指します。改札口を出て、今度は右手のエスカレータに乗り、1番出口を出ます。右へ曲がると前を通っているのが堺筋線。右手に「長堀橋跡記念碑」を見て堺筋線を北に向かい、三筋目を東西に走る道路周辺が旧町名の順慶町。物語の主人公河内屋与兵衛の兄太兵衛が、徳兵衛に出してもらった店がこの順慶町のどこかにあったのでしょう。現在は南船場という町名になっています。

 
 長堀橋跡の碑 
順慶町の通り(東側)
 

順慶町の通り(西側)
 南船場1丁目からの眺め   
電柱に残る順慶町
 
 
 
 本天満町  

  来た道を再び辿って、地下鉄長堀橋駅から2駅目、北浜を目指します。今度は一番後ろから降ります。後方のエスカレータに乗って改札を出、5番出口に向かいます。階段を上って地上に出ると右へ、一つ目の交差点辺りで撮影したのが下左の写真です。現在の町名ではこの辺りは伏見町1丁目となっています。
  来た道を戻り、堺筋を向こう側へ渡ります。道筋がちょっと右(北)にずれていますが、この通り周辺が伏見町2丁目。本天満町と呼ばれていたところで、河内屋と豊島屋が筋向いに店を構えていたそうです。昔の面影って何にもないですよね…。
 堺筋から4筋目の手前にアパヴィラホテル淀屋橋があり、この角を右に曲がってすぐの筋を左へ行くと、右手に「上方の味 神宗(かんそう)」のお店があります。玄関わきでは夏祭浪花鑑の団七九郎兵衛・義平次がみんなを迎えてくれました。ここでみんなちょっと休憩し、しばしのお買いものタイム。お茶もいただき、ほっと一息着いたところで、用事のある仲間とここでお別れし、残ったメンバー6人で次の目的地へ。
  神宗のお店を左へ出て、交差点を又左へ、三筋目を右に曲がると右手に「適塾・緒方洪庵旧宅」があります。大阪は歴史の舞台だなあ…
 
 
(適塾説明板より一部抜粋)

                             史跡 緒方洪庵旧宅及び塾

 幕末の医師・蘭学者であった緒方洪庵が弘化2年(1845)に買い受けて、天保9年(1838)に大坂瓦町に開いた私塾、適塾(適的斎塾)を移転した場所である。洪庵は、文久2年(1862)に幕府の奥医師として江戸へ迎えられるまでの約17年間にわたり、ここに居住した。
 洪庵は、ここで諸国から集った門人たちに蘭学を教え、幕末から明治にかけて日本の近代化に貢献した多くの人物を育てた。

  
 
     
現在の伏見町1丁目  
本天満町の現在の通り
 
神宗
(同社のホームページから)
 
適塾
 
適塾説明板

 
 
 栴檀木橋  

 適塾を右に出て、すぐの交差点を左折すると、目の前に見えてくるのが栴檀木橋。与兵衛がお吉を殺した凶器の脇差を、この橋から川へ投げ捨てました。下を流れるのは土佐堀川。江戸時代の初期、蔵屋敷のあった中之島と船場の行き来のために架けられたと考えられているそうです。正面に見える赤レンガの建物が、中之島のシンボル中央公会堂です。その右手には東洋美術のコレクションとして名高い、安宅コレクションを収蔵した東洋陶磁美術館が聳えています。

  最終目的地である徳庵堤を目指そうとしましたが、この時点で午後4時前だったので、無理をしないでおこうと断念しました。後日改めて訪れることとして、最後に残った4名のメンバーでゆっくりお茶をして帰りました。

   

栴檀木橋説明板
 
栴檀木橋

中央公会堂を望む

明治時代の橋

昭和初期の橋
 
 徳庵堤   

  2014年7月15日、改めて徳庵堤を訪れました。JR東西線北新地駅から出発しました。最寄りのJR片町線(学研都市線)徳庵駅まで15分。普通電車しか止まらないので注意しましょう。途中には放出(はなてん)といった難読地名の駅もありますよ。
  北浜の栴檀木橋から引き続いて行く場合は、京阪北浜駅か、若しくは京阪中之島線なにわ橋駅から京橋まで京阪電車で行き、JR京橋駅からJR片町線に乗り換えて3つ目が徳庵駅です。
  改札を左で出て、階段を降り、駅前を真っ直ぐ進むと商店街があります。右に折れるとそこからは真っ直ぐの一本道。道路に突き当たり、左手にある歩道橋のスロープを上っていくと徳庵橋が見えてきます。(SK)

  現在の大阪府大東市に位置する野崎観音への参詣は、大坂の年中行事として着飾った人々で例年賑わいを見せていました。大阪から船で行くには天満の八軒家から乗船し、大川から寝屋川をさかのぼり徳庵、諸福をへて住道で上陸して歩くのが一般でした。 陸路は、ほとんどが堤の上で船と平行しており、徳庵堤では道行く者と船で行く者との口でのやり合いは「ふり売りけんか」といわれ、けんかに勝つとその年は縁起が良いが、けっして怒ってはいけないとされていました。 川沿いは出店もでてにぎわい、特に徳庵や住道や浜は混雑したようです。 (大阪市鶴見区のホームページから抜粋)

 
 
 
徳庵駅前の商店街
 
現在の徳庵橋

徳庵橋

橋から大阪方面を望む

上流(大東方面)の様子
   
   
   
   
   
   
   
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