『仮名手本忠臣蔵』 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
「大序」 鶴が岡兜改めの段 幕が開くと、目の前に色鮮やかに現れるのが鎌倉の鶴岡八幡宮です。 足利尊氏の命をうけ、弟の直義が討ち取った源氏の流れをくむ新田義貞の兜を八幡宮の宝蔵に納めるため訪れています。実際に、忠臣蔵事件が起きたのは江戸で、時も元禄時代ですが、当時、江戸幕府が実際の武家社会の事件を上演禁止としたために、物語では舞台は鎌倉、時代も室町時代(足利時代)へと変わっています。 その鶴岡八幡宮、実際は尊氏が建てたわけではなく、1063年、奥州を平定した源頼義が鎌倉に帰り、源氏の氏神として八幡宮を祀ったことに始まり、その後、源頼朝が現在の地に移し、1191年に現在の姿に整えたと言われています。大序の舞台になっているのは、本宮(上宮、国重要文化財)の神前で、その前には、かの静御前が義経を慕って舞をおさめたと言われる舞殿があります。そこでは現在、神事や結婚式が行われています。 神前の左には、舞台同様、樹齢千年とも言われる大いちょうがそびえたっていましたが、平成22年3月、台風による強風で倒れてしまいました。しかしその後、移植された幹から新芽が出てきたそうで、そばには復活を願う「がんばれ 大イチョウ」の寄せ書きが添えられています。(TT)
■鶴岡八幡宮 |
鶴岡八幡宮 舞殿 がんばれ 大イチョウ |
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「三段目」 殿中刃傷の段 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
松之大廊下跡碑 |
『松の廊下跡』に行ってきました! |
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「四段目」・「大詰」 (東京編) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2012.9.16泉岳寺から吉良邸跡まで
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「五段目」 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
江戸時代に、京都の羅城門から下関の赤間関に至る道として再整備された山陽道を、当時は西国街道と呼び、その内の京都ー西宮間を山崎街道と呼称していたようです。 その山崎街道(西国街道)沿いに与市兵衛夫婦の墓があると聞いて、訪れて来ました。 JR長岡京駅改札口を右に出て、歩道橋をそのまま真っ直ぐ行くと、「西国街道」の石碑が有ります。左に曲がって一本道を歩いて行くと、途中右手には「神足ふれあい町家」があり、表の構えは格子、虫籠窓などが昔のまま保存されています。 三差路に出ると、「右やまざき 左よど」の石碑がありますので、右へ。新西国街道と標記された国道との交差点に出ますので、たくさんの車の通る国道筋を右に見て、与市兵衛墓の案内石碑に従って左のやや狭い道を取ります。 しばらく進むと右手に目指す「与市兵衛の墓」が…。見落として通り過ごしてしまいそうなので、しっかりと見つけてくださいね。 勘平の義父与市兵衛が、勘平を討入りの一員に加えるために、娘のおかるを祗園に身売りし、半金の50両を懐に人通りの無い暗い危険な夜道を急いで帰る途中、浪人斧定九郎に殺されてしまいます。それを悼んで供養塔として建てられたそうです。勘平の悲劇の始まりですね。(SK) |
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西国街道石碑 |
道しるべ |
矢印の通り進みます |
与市兵衛の墓 |
与市兵衛の墓説明板 |
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「六段目」 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
山崎から西国街道を西へ進むと、箕面市萱野があります。ここに早野勘平のモデルとなった萱野三平の旧邸があります。 三平は13歳で父重利の主人である大嶋出羽守の推挙により、播州赤穂の浅野家に中小姓として仕官します。 元禄14年(1701)3月14日、浅野内匠頭が江戸城松の廊下で、吉良上野介に切りつけた刃傷事件の時、鉄砲州の赤穂藩上屋敷にいた三平は、事件を赤穂に知らせる使者として、早駕籠で昼夜の区別なく早駆けしました。途中、駕籠が故郷萱野の生家の前を通り過ぎる時、偶然にも母の葬儀に出会いますが、主君の御用のため、そのまま駕籠を急がせて赤穂に向います。 赤穂城開城後、萱野へ帰った三平は、大石内蔵助を中心とする仇討の一党に名を連ねますが、江戸へ下ることを願った三平に対し父重利は、三平を浅野家へ推挙した大嶋家へ迷惑が及ぶことを思慮して、許しませんでした。 内匠頭への忠義と、父への孝行の板ばさみになり苦悩した三平は、元禄15年(1702)1月14日、自宅長屋門の一室で自刃し、27歳の生涯を閉じます。 萱野三平は、多くの優れた俳句を残した、著名な俳人としても、その足跡を残しています。 三平が赤穂藩に仕官していた、貞享・元禄の時代は、芭蕉に代表される多くの著名な俳人が活躍し、江戸を中心に全国的に俳諧が盛行していました。赤穂藩でも浅野内匠頭が風流を好み、連歌・俳諧に堪能であったのを始め、義士の多くが俳人として活躍しました。義士の大高源吾(子葉)、神埼與五郎(竹平)、萱野三平(涓泉)の技倆は、当時の俳諧人にも広く認められていました。 辞世の句 晴ゆくや日ごろ心の花曇り 涓泉 (「大阪府指定史跡 萱野三平旧邸長屋門・涓泉亭」案内パンフレットより) 「萱野三平記念館・涓泉亭」への行き方 阪急茨木駅、JR茨木駅から阪急石橋行きの阪急バスで、「萱野三平前」で下車。少し下って南(乗って来たバスの方向に向かって右)に折れ、約5分で「萱野三平記念館・涓泉亭」に着きます。三平の墓へは、屋敷門を出て右回りに邸に沿って南へ行くと田んぼがあり、やや前方に共同墓地があります。その中に立派な墓が建てられています。涓泉亭から約10分ほど。 阪急石橋からだとJR・阪急茨木行きの阪急バスに乗り「萱野三平前」で下車、国道171号線を渡って約5分。 北大阪急行千里中央からもバスが出ています。箕面行きのバスで、「萱野小学校前」下車。南へ約5分です。(SK) |
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萱野三平旧邸 | 萱野三平旧邸屋敷門 | 萱野三平木像 | 萱野三平辞世句碑 | 萱野三平墓 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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「七段目」・「九段目」 (京都編) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
某日、京都の忠臣蔵ゆかりの地巡りをしました。 朝10時に四条河原町マルイ前(元阪急百貨店)に集合しました。 明け方まで降っていた雨があがったので、「誰が晴れ女かしら?」などとおしゃべりをしながら、少し南へ下ったバス停から、京阪バス(大石神社経由醍醐バスターミナル、京阪六地蔵、大宅方面行き)に乗り、約20分ほどで大石神社前に到着、下車。(Pitapaの使用が出来ます。) バス停を交差点まで少し戻り、左へ曲がると、大石神社への細い道があり、約2分で山科区にある、大石良雄を祭神とする大石神社に着きました。大石内蔵助良雄の隠棲の地です。この地は閑静で人目につきにくく、かつ交通に便利でしばしば同志と会合を開いたそうです。討入りの12月14日に義士行列等の義士祭があります。 境内の宝物殿を見学し、本殿で公演の成功を願い、おまいりしました。 社務所脇の細い道を南へ行くと邸宅跡碑と四十七士を祀る岩屋寺があります。 毎年12月14日の義士祭の時に、大石内蔵助の遺品、四十七士の木像などが一般公開されるそうです。境内には、四十七士の一人寺坂吉右衛門が持ち帰った遺髪を祀った内蔵助の遺髪塚があります。塚の両脇に、右二つ巴の家紋が付いている石碑があります。(大石家の家紋だそうです。) 山科神社は、岩屋寺のすぐ南側高台にあります。大石良雄が山科神社の奥の院岩屋神社へ参拝し、大願成就を祈ったと伝わっています。参道は坂道で、おまけに砂利道で舗装されていません。私は帰り道ぬかるみですべり、とっさに隣りにいた応援団員の腕をむんずとつかみ、しりもちをつかずにすみました。雨あがりの参道はすべりやすいので気をつけてくださいね。
大石神社前のバス停から京阪バスに乗り、四条京阪で下車しました。ちょっと戻り花見小路通を右に曲がると、七段目の舞台の「一力茶屋」。山科に閑居していた大石内蔵助が通ったのは、伏見・撞木町だったとかで、一力茶屋の写真を撮った後は、撞木町の遊郭跡へ。京阪電車祗園四条駅から墨染駅へ。墨染駅を出て右手の踏切を渡って撞木町へ。でもその前に空いたお腹を満たそうと左へ。1階がパン屋さん、2階が喫茶店になってるお店で昼食をとりました。1階でパンを買って、2階で食べられます。定食もありますよ。エネルギーを補充して、午後のツアーに出発。踏切を越えて、伏見墨染郵便局の交差点を左折、しばらく行くと右手に「撞木町廓入口」の石碑があります。大石内蔵助が敵の目を欺くために遊興した場所です。今は「大石良雄遊興之地よろづや」と刻んだ石碑が残っています。
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