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『仮名手本忠臣蔵』  
「大序」 鶴が岡兜改めの段

 幕が開くと、目の前に色鮮やかに現れるのが鎌倉の鶴岡八幡宮です。

 足利尊氏の命をうけ、弟の直義が討ち取った源氏の流れをくむ新田義貞の兜を八幡宮の宝蔵に納めるため訪れています。実際に、忠臣蔵事件が起きたのは江戸で、時も元禄時代ですが、当時、江戸幕府が実際の武家社会の事件を上演禁止としたために、物語では舞台は鎌倉、時代も室町時代(足利時代)へと変わっています。

 その鶴岡八幡宮、実際は尊氏が建てたわけではなく、1063年、奥州を平定した源頼義が鎌倉に帰り、源氏の氏神として八幡宮を祀ったことに始まり、その後、源頼朝が現在の地に移し、1191年に現在の姿に整えたと言われています。大序の舞台になっているのは、本宮(上宮、国重要文化財)の神前で、その前には、かの静御前が義経を慕って舞をおさめたと言われる舞殿があります。そこでは現在、神事や結婚式が行われています。

神前の左には、舞台同様、樹齢千年とも言われる大いちょうがそびえたっていましたが、平成22年3月、台風による強風で倒れてしまいました。しかしその後、移植された幹から新芽が出てきたそうで、そばには復活を願う「がんばれ 大イチョウ」の寄せ書きが添えられています。(TT)




■鶴岡八幡宮
〒248-8588 神奈川県鎌倉市雪ノ下2-1-31
(最寄り駅)JR鎌倉駅東口・江ノ電鎌倉駅より徒歩10分




鶴岡八幡宮

舞殿

がんばれ 大イチョウ

「三段目」 殿中刃傷の段
 
  松之大廊下跡碑




 『松の廊下跡』に行ってきました!

 東京メトロ大手町駅(C13出口)を出て目の前を通る永代通りを歩いて行くと、正面突き当たりが皇居東御苑の大手門です。『松の廊下跡』を見るのが主目的ですので、一番近いこの入口から入りました。他に平川門・北桔橋門があります。門を入るとすぐに、受付がありますのでここで「入園票」をもらいます。(出るときに必ず返さないといけないので、なくさないように…。もちろん、違う門から出てもOKです。)

 門から道なりに1~2分歩くと、「大手休憩所」があります。お土産も販売されていますが、まずは無料の“ガイドブック”を入手、それを片手に目指すは『松の廊下跡』
 休憩所を出て、左方向に5分位行くとありました!説明看板によると「江戸城内で2番目に長い廊下で、畳敷きの立派なもの」だったそう…(ドラマでお馴染みですね)でも、今は石碑と松の木が静かにたっています。向かいのベンチに腰をおろし、江戸時代に思いを馳せてみるのもいいかもしれません。

 皇居東御苑は旧江戸城本丸、二の丸及び三の丸の一部を皇居付属庭園として整備されたもので、面積は約21万㎡。季節により色々な花も見ることができます。

 公開時間・休園日はHPで確認してください。

 今回は地下鉄大手町駅から約5分歩きましたが、気候のいい時期はJR東京駅(丸の内北口)から歩いてみるのもいいですね。東京駅から歩くと約15分です。(AS)

 


「四段目」・「大詰」 (東京編)

2012.9.16泉岳寺から吉良邸跡まで

 東京文楽公演に出掛ける途中、品川駅で下車して次回公演「仮名手本忠臣蔵」のゆかりの地を巡ってきました。
ホンマなら吉良邸跡から四十七義士の足跡からでしょうが、今回は到着地が逆になりました。
 

 当日は良いお天気でした。在京の方なら品川から歩いても20分と聞きましたが、不慣れなところなので京急で泉岳寺へ。(他に都営浅草線泉岳寺駅下車。)迷うことなく泉岳寺が見え坂を上りきると中門があり、その奥に山門が見え正面奥が本堂、その左手に鐘楼。山門をくぐると。右手に大きな大石良雄の像が見下ろしていました。持って来た11月公演ポスターチラシを置いて貰おうと社務所に向かうと目に飛び込んで来たのが、今11月公演のポスター2枚。掲示されていました。もう何方が持ってこられたんだと嬉しくなりました。

 境内の左手には四十七士を弔う墓所、赤穂義士記念館をはじめ赤穂義士ゆかりのものが点在しています。四十七義士一人ずつにお線香と置き丁寧にお参りしました。折角持って来たチラシは、応援団の活動を説明すると置いてもらうが出来ました。

泉岳寺 大石内蔵助像 首洗井戸 浅野家墓 四十七士の墓


 再び京急泉岳寺に戻り新橋へ。
日比谷通りに面した一角に、史跡「田村右京太夫屋敷跡」(浅野内匠頭は刃傷の後一関城主、田村右京大夫の屋敷にお預けとなり、ここで切腹している。)の立て札、環状 2号線工事のため「石碑」は一時撤去され、東京都第一建設事務所に保管しているという説明文。浅野内匠頭終之地はまたいずれか訪れることにしましょう。直ぐ近くに「新生堂」さんという、和菓子屋さんがあります。名物は「切腹最中」訪れたのが日曜だったのでお休みでした。国立小劇場売店に売っています。五つ入って1,350円だったと思います。
 

 次は、新橋から築地へ。聖路加看護大学を目指して徒歩10分くらい。前を歩く二人の女子が「あっ、芥川龍之介生誕の地だって」と小さく叫びました。見ると、その立て看板の直ぐ横の大学の正門の左側に「都旧跡 浅野内匠頭邸跡の石碑。有りました。

田村右京大夫屋敷跡 和菓子屋・新生堂 浅野内匠頭屋敷跡 芥川龍之介生誕地


 築地から茅場町へ。永代橋(「大詰 花水橋引揚の段」の花水橋は実際には永代橋。本所の吉良邸から引き揚げた赤穂浪士の一行は、永代橋を渡って高輪の泉岳寺に向かう。)の真ん中で今一番の観光名所が現れました。東京スカイツリー。見るとやっぱりワクワクします。

吉良邸から泉岳寺に向かう途中、永代橋のたもとで休んで居たところ乳熊味噌屋さんに招かれ甘酒を振る舞われたという碑を探すのに20分。隅田川沿いを首都高9号線高架近くまで探し、諦めて永代橋まで戻って来て目をあげると、有りました、ありました、やっと見つけました。乳熊ビルという建物。ここだわ。甘酒を振る舞ったと記されていました。

現在の永代橋 永代橋から望むスカイツリー 赤穂浪士休息の地



 ここまで結構歩きましたので、喉はカラカラ。目にしたコンビニに飛び込んでお茶500CCを飲み干しました。元気が出て門前仲町まで歩き都営大江戸線を初体験。

 この日は大相撲秋場所興業中で秋祭り。小さい御輿にしばし見とれ吉良邸跡へ。東京都墨田区両国3丁目にあるミニ公園。門は閉ざされていて左のくぐり戸から中に。実際の屋敷はこの公園から手前が邸内で、公園から先が邸外だったようです。
吉良上野介義央公の上屋敷跡。
松坂稲荷大明神吉良上野介義央公の追慕碑吉良家家臣二十士の碑、義央公の「首洗い井戸」。松坂稲荷大明神は、討ち入り後に地所清めのため遷宮稲荷1935.12.(昭和10)上野稲荷と合祀し遷座したものです。

秋祭 吉良邸跡(本所松坂公園) 吉良上野介義央公像 松坂稲荷大明神 吉良邸跡案内板


 歩き旅はここで終わり。丁度13:40。ほぼ4時間13km歩きました。

歩き慣れた履き物でしたが靴擦れしてしまいました。
 一休みして、国立劇場に向かいました。(H


「五段目」 
 江戸時代に、京都の羅城門から下関の赤間関に至る道として再整備された山陽道を、当時は西国街道と呼び、その内の京都ー西宮間を山崎街道と呼称していたようです。
 
その山崎街道(西国街道)沿いに与市兵衛夫婦の墓があると聞いて、訪れて来ました。
 JR長岡京駅改札口を右に出て、歩道橋をそのまま真っ直ぐ行くと、「西国街道」の石碑が有ります。左に曲がって一本道を歩いて行くと、途中右手には「神足ふれあい町家」があり、表の構えは格子、虫籠窓などが昔のまま保存されています。
 三差路に出ると、「右やまざき 左よど」の石碑がありますので、右へ。新西国街道と標記された国道との交差点に出ますので、たくさんの車の通る国道筋を右に見て、与市兵衛墓の案内石碑に従って左のやや狭い道を取ります。

 しばらく進むと右手に目指す「与市兵衛の墓」が…。見落として通り過ごしてしまいそうなので、しっかりと見つけてくださいね。

 勘平の義父与市兵衛が、勘平を討入りの一員に加えるために、娘のおかるを祗園に身売りし、半金の50両を懐に人通りの無い暗い危険な夜道を急いで帰る途中、浪人斧定九郎に殺されてしまいます。それを悼んで供養塔として建てられたそうです。勘平の悲劇の始まりですね。(SK)

西国街道石碑 

道しるべ

矢印の通り進みます


与市兵衛の墓
 








与市兵衛の墓説明板

「六段目」
 山崎から西国街道を西へ進むと、箕面市萱野があります。ここに早野勘平のモデルとなった萱野三平の旧邸があります。
 
 三平は13歳で父重利の主人である大嶋出羽守の推挙により、播州赤穂の浅野家に中小姓として仕官します。
 元禄14年(1701)3月14日、浅野内匠頭が江戸城松の廊下で、吉良上野介に切りつけた刃傷事件の時、鉄砲州の赤穂藩上屋敷にいた三平は、事件を赤穂に知らせる使者として、早駕籠で昼夜の区別なく早駆けしました。途中、駕籠が故郷萱野の生家の前を通り過ぎる時、偶然にも母の葬儀に出会いますが、主君の御用のため、そのまま駕籠を急がせて赤穂に向います。
 赤穂城開城後、萱野へ帰った三平は、大石内蔵助を中心とする仇討の一党に名を連ねますが、江戸へ下ることを願った三平に対し父重利は、三平を浅野家へ推挙した大嶋家へ迷惑が及ぶことを思慮して、許しませんでした。
 内匠頭への忠義と、父への孝行の板ばさみになり苦悩した三平は、元禄15年(1702)1月14日、自宅長屋門の一室で自刃し、27歳の生涯を閉じます。

 萱野三平は、多くの優れた俳句を残した、著名な俳人としても、その足跡を残しています。
 三平が赤穂藩に仕官していた、貞享・元禄の時代は、芭蕉に代表される多くの著名な俳人が活躍し、江戸を中心に全国的に俳諧が盛行していました。赤穂藩でも浅野内匠頭が風流を好み、連歌・俳諧に堪能であったのを始め、義士の多くが俳人として活躍しました。義士の大高源吾(子葉)、神埼與五郎(竹平)、萱野三平(涓泉)の技倆は、当時の俳諧人にも広く認められていました。

 辞世の句
    晴ゆくや日ごろ心の花曇り  涓泉  
 (「大阪府指定史跡 萱野三平旧邸長屋門・涓泉亭」案内パンフレットより)

「萱野三平記念館・涓泉亭」への行き方
 阪急茨木駅、JR茨木駅から阪急石橋行きの阪急バスで、「萱野三平前」で下車。少し下って南(乗って来たバスの方向に向かって右)に折れ、約5分で「萱野三平記念館・涓泉亭」に着きます。三平の墓へは、屋敷門を出て右回りに邸に沿って南へ行くと田んぼがあり、やや前方に共同墓地があります。その中に立派な墓が建てられています。涓泉亭から約10分ほど。
 阪急石橋からだとJR・阪急茨木行きの阪急バスに乗り「萱野三平前」で下車、国道171号線を渡って約5分。
 北大阪急行千里中央からもバスが出ています。箕面行きのバスで、「萱野小学校前」下車。南へ約5分です。(SK)
 




 
萱野三平旧邸  萱野三平旧邸屋敷門 萱野三平木像 萱野三平辞世句碑 萱野三平墓

「七段目」・「九段目」 (京都編)
 某日、京都の忠臣蔵ゆかりの地巡りをしました。
 朝10時に四条河原町マルイ前(元阪急百貨店)に集合しました。
 明け方まで降っていた雨があがったので、「誰が晴れ女かしら?」などとおしゃべりをしながら、少し南へ下ったバス停から、京阪バス(大石神社経由醍醐バスターミナル、京阪六地蔵、大宅方面行き)に乗り、約20分ほどで大石神社前に到着、下車。(Pitapaの使用が出来ます。)
 バス停を交差点まで少し戻り、左へ曲がると、大石神社への細い道があり、約2分で山科区にある、大石良雄を祭神とする大石神社に着きました。大石内蔵助良雄の隠棲の地です。この地は閑静で人目につきにくく、かつ交通に便利でしばしば同志と会合を開いたそうです。討入りの12月14日に義士行列等の義士祭があります。
 境内の宝物殿を見学し、本殿で公演の成功を願い、おまいりしました。

 社務所脇の細い道を南へ行くと邸宅跡碑と四十七士を祀る岩屋寺があります。
 毎年12月14日の義士祭の時に、大石内蔵助の遺品、四十七士の木像などが一般公開されるそうです。境内には、四十七士の一人寺坂吉右衛門が持ち帰った遺髪を祀った内蔵助の遺髪塚があります。塚の両脇に、右二つ巴の家紋が付いている石碑があります。(大石家の家紋だそうです。)

 山科神社は、岩屋寺のすぐ南側高台にあります。大石良雄が山科神社の奥の院岩屋神社へ参拝し、大願成就を祈ったと伝わっています。参道は坂道で、おまけに砂利道で舗装されていません。私は帰り道ぬかるみですべり、とっさに隣りにいた応援団員の腕をむんずとつかみ、しりもちをつかずにすみました。雨あがりの参道はすべりやすいので気をつけてくださいね。
大石神社 岩屋寺 大石閑居後碑 大石閑居跡 岩屋神社


 大石神社前のバス停から京阪バスに乗り、四条京阪で下車しました。ちょっと戻り花見小路通を右に曲がると、七段目の舞台の「一力茶屋」。山科に閑居していた大石内蔵助が通ったのは、伏見・撞木町だったとかで、一力茶屋の写真を撮った後は、撞木町の遊郭跡へ。京阪電車祗園四条駅から墨染駅へ。墨染駅を出て右手の踏切を渡って撞木町へ。でもその前に空いたお腹を満たそうと左へ。1階がパン屋さん、2階が喫茶店になってるお店で昼食をとりました。1階でパンを買って、2階で食べられます。定食もありますよ。エネルギーを補充して、午後のツアーに出発。踏切を越えて、伏見墨染郵便局の交差点を左折、しばらく行くと右手に「撞木町廓入口」の石碑があります。大石内蔵助が敵の目を欺くために遊興した場所です。今は「大石良雄遊興之地よろづや」と刻んだ石碑が残っています。
一力茶屋 撞木町廓入口 撞木町廓之碑 よろづや跡碑 撞木町住所板


「おまけ」

 ツアーの最後に、おかるのお墓にお参りしました。墨染駅から京阪電車で終点の出町柳駅へ。道路を渡り京都市バスの出町柳駅前バス停から千本今出川で下車。交差点を渡ると上善寺があります。おかるは実在の女性をモデルにしたもので、おかるのモデルになった人の墓がここ上善寺にあります。案内板も無いので、お寺の人に案内していただきました。お線香をお供えして公演の成功をお祈りしました。
 市バスで四条河原町まで戻り、南座前の菊水さんでお茶をし、ツアーが無事終了しました。(SJ)
 
上善寺
おかる墓
 
 
「十段目」
仮名手本忠臣蔵 十段目「天河屋の段」 赤穂義士討ち入りのための武器を調達していた天河屋義平の店に捕手が現れ、大星由良助に頼まれ、武具馬具を買い調えたであろう、討ち入り計画を白状しろと、一子よし松の咽元に刀を突き付けられ責められるが、「天河屋の義平は男でござるぞ」と、頑として口を割らない。そこへ由良助が現れ、捕手は塩谷判官の家臣で、義平を試したのだと謝ります。「花は櫻木、人は武士と申せ共、いつかな/\武士も及ばぬ御所存。…」 その義侠心に敬意を表し、討ち入りの合言葉を「天」と「河」に決めます。その天河屋義平のモデルとされる天野屋利兵衛の碑やお墓が国立文楽劇場から程近いところにあります。
天野屋利兵衛の碑 
国立文楽劇場から地下鉄日本橋駅へ。天神橋筋六丁目方面行2つ目の「堺筋本町」駅で下車。一番前からでましょう。12番出口を出て東方面へ(高速道路の高架が見える)。高架下を過ぎて直ぐの信号を左へ。200m弱歩いて左手、東横堀川沿いに碑があります。
  高架下にあります。昭和14年
   (1939)に建立されました。
    義侠
    天野屋利兵衛之碑
なぜか真ん中が削り取られています。
薬王寺(天野屋利兵衛の墓)
国立文楽劇場から程近いところに天野屋利兵衛の墓があると聞き、二部開演前にふらっと訪れました。
文楽劇場を出て左(東)へ。松屋町筋を越えて上り坂を5分ほど歩く。高津神社←の標識を左折します。   2つ目の信号を越えて、次の筋の手前左手に薬王寺があります。     インターホンを押して、お寺の人に案内していただきました。 
    前の小さいお墓が利兵衛の墓です。  

大高源吾のお墓も下にありますよ、案内していただきました。すぐ裏手のマンション建設の際、振動でお墓が随分と痛んだそうです。そのほか、歌舞伎役者のお墓にもご案内いただきました。お世話になりました。
大高源吾の墓 初代中村富十郎の墓 初代岩井半四郎の墓 改装された片岡仁左衛門の墓
薬王寺にある片岡仁左衛門家の墓は、大阪府吹田市在住の片岡秀太郎丈が守っておられるそうです。仁左衛門丈が池上本門寺のお墓を、我當丈が京都のお墓をそれぞれ守っていらっしゃるとのお話をお聞きしました。
(SK)
 

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