文楽すぽっと
演目ゆかりのすぽっと    
 『伊賀越道中双六』  
 鶴が岡の段  

10月の気候の良い時期に、古都鎌倉を尋ねました。

 
 貴族や武士階級の事件を扱った時代物作品の幕開きは、内裏や神社が舞台となっています。徳川時代は、実際の武家社会の事件をそのまま脚色して上演することを禁止されていたので、「伊賀越道中双六」でも舞台は鎌倉、時代も室町時代(足利時代)になっています。

 その鶴岡八幡宮、実際は尊氏が建てたわけではなく、1063年、奥州を平定した源頼義が鎌倉に帰り、源氏の氏神として八幡宮を祀ったことに始まり、その後、源頼朝が現在の地に移し、1191年に現在の姿に整えたと言われています。

 JR鎌倉駅東口を出て、真っ直ぐ進むと大通りに出ます。左へ曲がると八幡宮の二の鳥居がそびえていて、観光客を出迎えてくれます。そのまま車道より一段高くなった段葛(だんかずら)を一直線に歩くと、約10分足らずで三の鳥居に到着です。段葛は、政子の安産を祈願して造られた参道で、若宮大路(史跡)の中心部となります。
(鎌倉駅を出て左手に見える「小町通り」を、両側に並ぶお店を楽しみながらお参りするのも結構面白いですよ。)

 さて、正面には、静御前が義経を慕い、心を込めて舞った舞殿があり、大石段を上ると、国の重要文化財にも指定されている本宮(上宮)が建っています。
 大石段の左手には、樹齢千年とも言われる大いちょうがそびえたっていましたが、平成22年3月、台風による強風で倒れてしまいました。しかしその後、移植された幹から新芽が出てきたそうで、そばには復活を願う「がんばれ 大イチョウ」の寄せ書きが添えられています。
 また、三の鳥居の右手には、旗上弁財天社が祀られており、夫婦円満の祈願石で姫石ともいわれている政子石もありますよ。(SK)

 
 
段葛
  
三の鳥居
  
舞殿
  
本宮(上宮)
 
大いちょう
 
上弁財天 
 ■鶴岡八幡宮
〒248-8588
神奈川県鎌倉市雪ノ下2-1-31
(最寄り駅)JR鎌倉駅東口・江ノ電鎌倉駅より徒歩10分
         

 
 和田行家屋敷の段   
 
 床本には、「春毎に、詠(なが)めは飽かぬ鎌倉山、仁義を守る武士(もののふ)も旦(あした)に隠す桐ケ谷(きりがやつ)、和田行家が人構え、…」とあり、和田行家の屋敷は鎌倉桐ケ谷にありました。
 現在では、桐ケ谷という地名も残っていなくて、駅前の観光案内所で尋ねると、八幡宮のずっと南、海沿いの光明寺から、その北の長勝寺辺りを桐ケ谷というそうで、取り敢えず、光明寺を尋ねました。

 JR鎌倉駅から京浜急行バス・小坪経由逗子駅行きに乗り、約15分ほどで「光明寺」バス停に着きました。目の前が目指す光明寺。
寺号は、天照山蓮華院光明寺といい、開基は鎌倉幕府・北条四代の執権・北条経時公で、浄土宗の大本山の一つだそうです。
 訪れた日は、たまたま「お十夜法要」が行われており、露店も沢山出ており大勢の参拝の人々でにぎわっていました。「お十夜」とは、浄土宗寺院で行われる法会で、三日三晩にわたり、本堂で念仏や御詠歌を唱えると千日の修行に値するといわれています。

 お十夜の日(毎年10月12日から15日)には、山門(三門)の楼上も拝観でき、楼上からは、材木座の海が一望できます。急な階段でしたが、折角の機会ですので、拝観させていただきました。

 大殿の左手には記主庭園とも呼ばれる浄土宗庭園があり、園内には聳える大聖閣(たいしょうかく)は宗祖法然上人800年大御忌を期して建てられたものです。夏には蓮池の蓮が優雅に開花するそうです。再度訪れたく思いました。(SK)

 
 
総門
 
山門
 
山門楼上からの眺望
 
大殿
 
大聖閣
   

 
円覚寺の段    
  JR鎌倉駅から横須賀線で大船方面に一駅戻った北鎌倉駅からすぐ、円覚寺の境内が広がっています。本当に広いですよ。たっぷり歩いたような記憶が残っています。

  臨済宗・円覚寺派本山の円覚寺は、弘安5年(1282年)元寇の役に活躍した鎌倉幕府の執権北条時宗によって創建されました。蒙古襲来で戦没した多くの霊を敵味方なく弔うために建てられたそうです。

  山門、仏殿、方丈と一直線に並んでおり、境内は静寂そのものです。
  ずっと奥に進めば、唐様式を代表する美しい舎利殿(国宝)があります。(SK)
 
 
円覚寺
 
山門
 
方丈
 
開基廟
 
   

 
唐木政右衛門屋敷の段   
誉田家大広間の段   

 「政右衛門屋敷の段」「誉田家大広間の段」にゆかりの大和郡山に行ってきました。

  9月の末の水曜日。近鉄難波西改札口11:00集合。参加者4人。11:02発の近鉄奈良行き急行に乗車。11:36大和西大寺着。11:46発橿原神宮前行き急行に乗換。近鉄郡山まで20分ほどで到着。近鉄難波からほぼ1時間。

 先ず、今回の演目には縁はないけれどせっかく訪れたのだから、『義経千本桜』でお馴染みの源九郎稲荷神社に行きました。
 近鉄郡山駅を東へ。矢田筋という通り。懐かしい雰囲気の町並みを10分ほど歩くと右手に「→源九郎稲荷参道」という看板。大きくはないけど見落とすこともない。その矢印の通りに行くと、遊郭の趣のある家が数軒。今は、普通に暮らされているようです。

 参道のどんつきが、源九郎稲荷神社。写真を撮ろうとしていたら「ようお越し」と声を掛けられ、ご挨拶。
「私達、国立文楽劇場でボランティアをしています。」と、言い終わるやいなや、「まぁ、お上がりください。見せたいもんがあるんや。」 4人がお座敷に上げて頂くと、鴨居のところに吉田文雀師と吉田和生さんが狐忠信を遣って先々代の神主さんと写った写真が掲げてありました。
 後で調べると、文雀師が狐忠信を遣われたのは平成2年(19904月公演でした。道理でお写真の師匠は若かったです。

 
 
標識
 
参道の標識
 
遊郭跡?
 
源九郎稲荷神社
 
おお!懐かしい
   

 「指して行くぅ、」じゃないですがその参道を背に北へ。通りは藺町(いのまち)、県道108号線です。
 その辺りから西側が箱町十三町といわれる街並みでキレイに整備されています。豊臣秀長(15401591)の時代(1585〜)に成立したそうです。歩道には一筋ずつ名前をはめ込んだ標識がみえます。紺屋通りの角には「箱本館 紺屋」があり、藍染めの体験や藍染め資料館、金魚ミュージアムがあるそうですが今回は素通りです。

 その同じ通りに箱本十三町観光案内所という、蔵を改装したところに立ち寄りました。内には45人居てなにやら打合せ中でしたが、そこで「私達云々」の常套句を述べますと「ようこそおいでくださった。お昼はまだ?じゃこれも」といいつつ、ランチマップや、郡山城マップや箱本十三町のマップなど持たせてくれました。「お城と荒木又右衛門ゆかりの場所に行く予定なんですが、」というと即座に「岡田さんとこやね、お城を南下したら行ける」と教わりました。公演チラシを1枚お手渡しし、是非見に来てください、と広報活動。

次の筋、今井町を左へ。10分も歩かないうちに、本家菊屋の古風なお店が有りました。思っていたよりも小さめの佇まい。お客さんはひっきりなしで大繁盛です。店先で名物の御城之口餅がいただけると知り4人分注文。御城之口餅3つと薫り高い焙じ茶。一人前240円。美味しかったです。それぞれ家にお土産を求め「お城は、」と話していると無愛想と思っていたお店の人が「お城に行かれるならこの道真っ直ぐ行ってこっち側」と右手を指しだし説明。

 大和郡山市役所前を通過。信号を右手に折れて、三の丸緑地を北へ3分ほど歩くと直ぐ左に踏切。渡りますと鉄(くろがね)御門跡。パチリ。そこを左へ行くと柳澤文庫。素通りして郡山城跡へ。草々が生い茂り緑の濃い風情。柳澤神社にお参りし、いざ天守台へ、と近づきますと「立ち入り禁止」の立て札。立ち入り禁止期間H251021日〜H293月下旬、天守台の石垣修復及び展望施設整備事業とありました。その日はまだ、天守台の石垣の傍まで行けましたが、天守台には登れないように、規制線が張りめぐらせてありました。折角来たけど仕方ありません。その石垣北面には「さかさ地蔵」の矢印。逆さと言うよりうつぶせでした。立て札には築城の折の石不足で平城京の羅城門の礎石や寺々の庭石、五輪塔などが徴収されたそうです。いっぺんにお腹が空いてしまい、その石垣傍の大きな桜の木の下のベンチに腰掛けて難波で仕入れたおにぎりと本家菊屋のお饅頭を半分ずつ。

 さてそこから、柳澤神社を通り抜けると正面が郡山高校(郡高と呼ばれているそうです)正門でした。学校の塀がどこかのお屋敷のように土壁で塀の上は瓦が積んでありました。正門を見て右へ。学校の塀伝いに行き左へ。そこにあった公衆トイレはキレイでした。

 
箱本館標識
 
本家菊屋
 
追手門
 
追手向櫓
 
柳澤神社
 
さかさ地蔵
 
お地蔵さんが下向きになっているのが分かりますか?

そこを少し後方左の方に南下、下り坂。陽射しは強く歩きもダラダラ。郡高のグランドを左に見ながら行くと右に永慶寺。

 郡山城菊門(南門)を移築した山門(現存する唯一の郡山城の遺構)を、パチリ。そのまま行き過ぎようとすると、寺内をのぞき込んだ一人が「良い感じの鐘堂が見えるわ」。その声に誘われて門の内に入りかけると、「どうぞ吉保さんの没後300年忌で縁の宝物があちらで展示されています。今ご覧いただかないと次は何時見られるかわかりません。是非とも。こちらの方では柳澤吉保・同夫人座像も見て頂けます。こちらも是非。」と勧められました。聞くと大和郡山の観光ボランティアをされているとのことでした。展示物は吉保の自書などの宝物があり丁寧に説明して頂きましたが、残念ながらその翌日で終了しました。吉保は忠臣蔵で馴染みですね。

 永慶寺は柳澤家の墓所で、吉保の子吉里は国替えの際に金魚職人も同行。それが今の大和郡山を金魚の産地に、といわれています。そこを辞し法光寺坂を南下10分で突き当たりを右に西矢田筋自治会の掲示版を見つけたら左へ今度は少し登り道を5分ほど。

 岡田さんのガレージの壁に黄色い案内板。「江戸時代初期の剣客 荒木又右衛門の屋敷はこの辺りに有ったと伝えられている。」と。その隣の藤原さんの玄関先に「荒木又右衛門屋敷跡」の石碑。

 大和郡山での見て歩きはコレで終了です。もう一度もっとユックリと散策してみたいと、ココロを残して、近鉄郡山14:55発京都行き急行に乗り込みました。(AH

 
 
永慶寺
 
荒木又右衛門屋敷跡碑
         

 
伏見北国屋の段   

 荒木又衛門屋敷を訪ねた後、次の訪問地へ向かうため、まず近鉄線郡山駅へ戻りました。次に目指すのは「第九・伏見北国屋の段」の舞台となる京都伏見方面です。伏見は江戸時代には京都と大阪を結んで淀川を上下する三十石船の発着場として賑わい、宇治川派流(宇治川の流路改修により開かれた河川)に架かる京橋のたもとには数十軒の船宿が立ち並んでいたそうです。

 
「伊賀越道中双六」では、和田志津馬とお米(傾城瀬川)が逗留していたのも伏見の船宿北国屋という設定です。この船宿や船着き場のあった伏見の京橋・伏見浜が今回の第二目的地です。
 さて、近鉄郡山駅から伏見へは京都行急行に乗ります。急行は1時間に2〜3本なので駅で20分位待ちましたが、乗車時間は約40分。桃山御陵前駅で降ります。この駅のすぐそばには京阪電車伏見桃山駅があって、この京阪電車に乗って一つ目の中書島駅が目的地に一番近いのですが、私たちはここで電車には乗らず、少し大回りして竹田街道から伏見港の中心であった京橋へ出るコースをとりました。

 駅を出て右方向の大手筋商店街に入ります。おしゃれな活気あるアーケード通りで、コーヒーショップのチェーン店もいくつかありましたが私たちはひたすら進みます。この大手筋は豊臣秀吉が築城した伏見城の大手門に続く道として誕生したとのことです。やがてアーケードを抜け竹田街道に出ます。交差点にも標識が出ていますが、ここを左へ。つまり竹田街道を南へ歩くことになります。竹田街道は江戸時代に開かれた京と伏見をつなぐ街道の一つで、同じく京と伏見をつなぐ伏見街道の西に位置します。竹田街道の起点は今の京都駅南口のあたりで、今から目指す京橋がその終点でした。沿道には商店などの古い建物も見られ、かっての街道の賑わいを思い描きながら歩むこと5分、桃山御陵前駅からなら20分弱で京橋のたもとに着きました。

 京橋は思ったよりも小さな橋で、三十石船が往来した川に架かる橋としては意外な感じがしましたが、元の川幅は現在の二倍ほどあったのが昭和初期に狭められたとのことで納得がいきました。まず、「きょうばし」と書かれた橋の欄干の写真を撮りました。京橋は近松門左衛門の世話浄瑠璃『鑓の権三重帷子』「伏見京橋妻敵討の段」の舞台となった場所でもあります。人や物資が行き交う水陸交通の要衝では、やはり事件が起こり物語が始まるのかと、橋の上から川を眺めてぼんやり考えていたら橋の下から「早よ下りといで」と声がかかって、欄干のそばの階段を下りるとそこはかっての伏見浜。遊歩道が整備され、川岸には大きな柳の木が川面に枝を落とし、観光用の十石船が運航されていました。申し分なく風情ある宇治川派流の風景ではありましたが、9月15日の台風18号による増水で植え込みの木々まで冠水して、相当な高さまで泥で汚れていたのが無残でした。「宇治川が逆流した」と通りがかりのおじさんが説明してくれました。

 京橋から下流(宇治川方向)へ一つ目の蓬莱橋で遊歩道を上がるとすぐに旅館寺田屋が見えます。幕末の寺田屋事件でよく知られた歴史の現場でありますが、京都市の案内板には「(寺田屋が)わずかに昔の船宿の名残をとどめている」と書いてある通り、宇治川水運の隆盛を今に伝えている貴重な建物です。
 寺田屋は宿泊もでき見学もできるのですが、受付時間を過ぎていたので隣接する史跡庭園の龍馬像や石碑を見て、次へ向かいました。

 寺田屋から宇治川派流に沿ってまた下流へ進むと伏見の酒蔵街に出ます。板塀と白壁の大きな酒蔵が並ぶ通りの一角に月桂冠大倉記念館があり、入場料は300円。お酒の試飲もできると聞いていましたが、ここも閉館までに時間がなく入口の写真だけ撮りました。
 大倉記念館からもう少し下流へ歩くと弁天橋に出ます。ここに観光船十石船の発着場があり、丁度お客さんを降ろした船がUターンしているのが見えました。
 弁天橋を渡ったところにあるのが長建寺。赤い土塀と中国風の山門が目を引きます。弁財天をご本尊とし、淀川を往来する廻船の守護神・遊女の技芸上達の神として信仰を集めたお寺とのこと。ここも外から見学。後で知ったのですが、古銭型のお守り「宝貝守り」でも有名なのだそうです。

 長建寺からは3分ほどのところに京阪電車中書島駅があります。ここが本日のゆかりの地巡りの終着となるのですが、この駅に至る通りは元禄時代に設けられた中書島遊郭のあった所です。現在は飲食店が並ぶ駅前通りの様相で、昔を思わせる痕跡はありませんが、遊郭創建時は三十石船の船客らの人気を呼び大変栄えたといいます。伏見・宇治川派流域は歩けば歩くほど知ることや発見が多く、まだ回ってみたいところもたくさんあるのですが、今回はこれまでとし、中書島駅前の喫茶店でしばらく休憩した後京阪電車で帰途に着きました。
 
 今日は二府一県を股にかけて歩いたことになります。おかげでまた、文楽を見る楽しみを増幅させることができたゆかりの地巡りの一日でした。(SM)

 
 
竹田街道標識
 
竹田街道町並み
 
きょうはし
 
宇治川派流
 
寺田屋
 
十石船
 
長建寺
   

 
伊賀上野敵討の段   
 日本三大敵討の一つ、荒木又右衛門らの敵討の実話をもとにした「伊賀越道中双六」の双六絵図では、「鎌倉」を振り出しに東海道を通り、「伊賀上野」で上がりとなっています。

 伊賀上野は荒木又右衛門らの敵討にとてもゆかりの深い土地ですが、今回、国立劇場友の会とNPO法人人形浄瑠璃文楽座の共同企画「伊賀越道中双六ゆかりの地バスツアー」に応募し、参加してきました。10月16日、午前にはハイトピア伊賀という会場で三重大学の吉丸雄哉先生のレクチァーを受けて、午後はいよいよ敵討の現場である鍵屋の辻へ向かいました。鍵屋の辻は上野市の中心部から西方向にあり、上野城を正面に見て左ということになります。中心部から徒歩でも20分位と案内図にありました。

 鍵屋の辻史跡公園のそばでバスを降りるとすぐに「ひだりならへ みぎいせみち」と刻まれた大きな石の道標が見えました。鍵屋の辻は伊勢街道と奈良街道の分岐点で、現在はお城の方(東)へ通じる道がついていますが、当時は三叉路で、奈良方向からやってくるとT字路に突き当たることになります。
 吉丸先生が現地解説をして下さいましたが、河合又五郎らの一行が奈良から向かってくることを知った又右衛門らは待ち伏せて、又五郎らが鍵屋の辻にさしかかった所へ打って出たとのことです。

 鍵屋の辻に立って見ると、ここを敵討の場に選んだ又右衛門の戦略が優れていることを実感できます。相手がT字路に突き当たって右へ進む三叉路のもう一方の道で待ち伏せると、こちらの姿を気取られることなく、又、前列の警護が通ってから打ってでるタイミングが掴め、敵本人を逃すことなく、又五郎たちが向かう道はやや坂道で走り抜けるには不利であり、後戻りするにも後ろは木津川に架かる橋で、馬に乗って逃げて渡るのは難しいという地の利のある場所なのです。
  またこの辺りは当時町の西はずれで、人を巻き込む恐れもなく、全く人のいない場所でもないので、敵討ちを現認してもらえるという好条件もそろっていました。

 伊賀上野城下は藤堂家津藩の直轄地でしたが、荒木又右衛門の父は藤堂家の旧臣であり、又右衛門自身も伊賀上野在荒木村の出生とされています。生まれてすぐその地を離れたとのことですが、成人して一時帰郷していたともいわれていますので、地の利を見るに敏であったのでしょうか。
 次には史跡公園にある伊賀越資料館を訪ねましたが、この資料館へ一歩足を踏み入れるとそこは荒木又右衛門・伊賀の敵討ワールド。又右衛門らの書状や遺品も展示されていてどれも興味深く、400年近く前の出来事が今に迫ってくるようでした。

 
バス車内の燕三さん
 
玉女さんのレクチャー
 
和生さんのレクチャー
 
ツアー参加の技芸員さん
 
鍵屋の辻道標
 
鍵屋の辻
 
敵討の案内板
 
伊賀越資料館
 
河合又五郎首洗い池
   
 資料館の後は藤堂高虎により築城された上野城へ向かいました。お城の周囲は上野公園としてよく整備され、現在は当時の内堀と石垣、昭和10年に建てられた天守閣が残っています。大阪城の高石垣と日本で一二を争う(測り方によって異なるそうです)石垣は根石より天端まで29.7メートルの高さを誇り、三方に折廻して延長368メートルに及ぶとあります。この高石垣の上から堀を覗くと忍者も絶対登ってこられないような急勾配で足がすくみました。
  公園の中には忍者博物館や伊賀出身の松尾芭蕉を記念する俳聖殿など見学する所多く、公園を出たところには伊賀信楽古陶館があり二階がギャラリーになっています。陶器のお店は点在していて、焼き物好きには魅力です。上野市駅の南側には特産のお店もたくさんあるようでしたが、時間がないので公園に近い地場産買物処でお土産を買い帰りのバスに乗り込みました。

 今回はツアーの一員として貸切バスで行きましたが、
JRを利用する場合は関西線に乗り伊賀上野下車(大阪駅から約1時間40分)、伊賀鉄道に乗り換えて三つ目が上野市駅です。
近鉄大阪線では難波から伊賀神戸(かんべ)まで約1時間40分、伊賀鉄道に乗り換えて上野市駅まで30分で行くことができます。
名古屋方向からでもJR・近鉄で行くことができます。現場に行ってごらんになること、ぜひお勧めです。


 尚、今回のバスツアーの訪問記が2014年1月3日発行の文楽応援団通信第24号に掲載されます。応援団通信は文楽劇場1階の展示室に置いてあります。また、応援団のホームページトップの{応援団通信}から入って読んでいただくことができます。どうぞ合わせて御覧ください。(SM)  
  
 
伊賀上野城
 
高石垣
 
忍者資料館

俳聖殿 
 
出没する忍者
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
このホームページは文楽応援団が運営しています。当ホームページの資料、情報の無断転載は禁止です。
当サイトに関するメッセージは、こちらまでご連絡ください。
 
 
 
inserted by FC2 system