演目ゆかりのすぽっと  
 『伊勢音頭恋寝刃』
 (2012年7月15日に取材した記事です。) 

 
3連休の中日に、「伊勢音頭恋寝刃」のゆかりの地巡りへ。不安定な天気が続く中、近鉄電車 大阪上本町駅に集合。急行で宇治山田駅まで直行し、宇治山田駅からは三重交通バスで内宮へ向いました。

 せっかく伊勢まで来たのだから、まずはお伊勢参り!
伊勢神宮は、二つの正宮(内宮・外宮)を中心として、14の別宮、43の摂社、24の末社、42の所管社の合計125の宮社から成っています。

 参拝の順路は、外宮からというのが古来の習わしだそうですが、今回は内宮のみの参拝です。

 内宮 皇大神宮(こうたいじんぐう)は、天照大御神をお祀りしています。
 外宮 豊受大神宮(とようけだいじんぐう)は、天照大御神の食事を司る神の豊受大神をお祀りしており、衣食住をはじめとしたあらゆる産業の守り神です。

 
正宮へ向かう階段
 
 
五十鈴川御手洗場

 まずは宇治橋鳥居前で記念撮影をしました。伊勢神宮は、ここ数年パワースポットとして注目を集めていることもあり、たくさんの人、人。来年は20年に一度の式年遷宮なので、さらに人が増えるのでしょうね。


 五十鈴川御手洗場は、参拝前に心身を清める場所。ここ数日の大雨で、やや増水気味でした。

 ところどころにそそり立つ巨大な神宮杉を通り抜け、いざ正宮へ。ここでもたくさんの人。正宮へ続く階段は人、人、人で埋め尽くされていました。でもここまで来てお参りせずには帰れない。
 お参りの作法は、二拝二拍手一拝。文楽の発展と家族の健康をお祈りし、一仕事終えた達成感を味わいつつ、お腹も空いてきたのでおかげ横丁へ。


正宮へ向かう階段」
 
 

 おかげ横丁で「冷し伊勢うどん」を食べる。
黒く濃厚そうに見えるのにあっさりしたつゆ。

   おかげ横丁で見つけた
  マンホール
おかげ座
江戸時代のおかげ参りの様子を再現した歴史館。建物は、古市に
あった役者の登竜門といわれた芝居小屋「長盛座」を再現したもの
だそう。参宮街道の賑わいを再現した縮尺模型の町並みや人々の
様子はとてもリアルで、ガイドさんの解説を聞くと、まるで江戸時代
にタイムスリップしたかのよう…。
 

伊勢名物として全国的に知られる赤福餅。お伊勢参りに来たからには本店の赤福餅を食べて帰らねば… 
 
 
 おかげ横丁を抜けて左へ折れると、交差点の対角線に、みちひらきの神「猿田彦神社(さるたひこじんじゃ)」があります。主神は猿田彦大神(さるたひこおおかみ)。ものごとの最初に現れ、万事良い方向へ“おみちびき”になる大神様で、建築、方除け、災難除け、開運、事業発展、五穀豊穣、大漁満足などの御神徳で知られています。

 本殿正面にある方位石(=古殿地)をはじめ、本殿の堅魚木(かつおぎ)・欄干など境内のいたる所に“八角”があります。(八角は方位を意味し、方位除の御神徳を仰ぐものだそうです。)


 
猿田彦神社
 
方位石
 
 猿田彦神社に沿って、右に曲がると上り坂。この道沿いにいろいろな史跡があります。       
 
月読宮への石標

 しばらく歩くと、右手には、月読宮(つきよみのみや)(内宮別宮)への石標が建っています。
 ちょっと歩いて、やや複雑な交差点を過ぎて右手に「伊勢古市参宮街道資料館」が。外宮と内宮を結ぶ参宮街道の歴史、江戸と上方の役者の登竜門でもあった伊勢歌舞伎、参詣帰りの精進落としの場として賑わった古市妓楼の資料などが展示されています。

 妓楼は、全盛期の天明期には70軒、遊女は1,000人を超えたそうです。中でも油屋、備前屋、杉本屋は古市の三大妓楼と呼ばれていました。そのうちの油屋は、歌舞伎の「伊勢音頭恋寝刃」の舞台として特に有名になりました。

 伊勢音頭は、もとは河崎音頭といわれる伊勢地方の盆踊り唄であったものを座敷芸としたもの。伊勢神宮参拝の帰りに古市の遊郭に上がった男たちによって全国に伝えられ、各地の民謡の中に取り入れられもしました。「荷物にならない伊勢土産」ともいわれました。、遊郭の座敷で伊勢音頭を踊るのは、その店のかかえる娼妓だそうです。



伊勢古市参宮街道資料館 
 
 しばらく歩くと、右手に旅館「麻吉」への案内表示が。 最後に寄ることにして、真っ直ぐ進み、下に走る近鉄電車の線路を越えると、左手に油屋跡の碑が有りました。古市三大楼の一つで、刃傷沙汰「油屋騒動」の舞台となったところです。

 油屋騒動とは、寛政8年(1796年) 、古市の遊郭油屋で、医師の孫福斎(まごふくいつき)が酒に酔って、数人を殺傷した事件です。
    
     
      油屋跡の石碑   
 
大林寺境内

比翼塚
今度もすぐ左手に、「大林寺(だいりんじ)」が。
境内にある遊女お紺と孫福斎の比翼塚は、寺の左隣にあった油屋で起こった「油屋騒動」を悼んで建立寄進されたもの。お紺の墓は、文政12年(1829年)、坂東彦三郎によって建てられ、さらに昭和4年(1929年)に実川延若によって孫福斎の墓も立てられました。こうして大林寺は歌舞伎遊芸の人々と深い縁に結ばれてきました。
(お紺は、油屋騒動では無事に逃げて、49歳で病死しました。)
 
           
 次には、歌舞伎芝居古市三座のうち口の芝居跡、「古市芝居跡」の石碑があります。

 ちょっと行くと、「備前屋跡」の石碑。金網のすぐ後ろにあります。
 備前屋は牛車楼とも呼ばれ、古市著名妓楼の一つでした。
  
 
古市芝居跡の碑
 
備前屋跡の碑
   
         
  ここでUターンして、「旅館麻吉」へ。
 かつての古市の面影をそのまま残す唯一の宿。斜面を利用して造られた懸崖造りの木造6階建ての楼閣は、「東海道中膝栗毛」にもその名が見られることから、創業200年以上と考えられています。現在も宿泊が可能です。
 麻吉の玄関には、注連縄が飾られていました。伊勢では一年中注連縄をかけておく習慣があるそうです。
   
 
         
   
 近鉄電車の「てくてくまっぷ 三重-9」を手に、『伊勢音頭恋寝刃』ゆかりの地を散策しました。

 旅館麻吉の階段を抜け、「浅香つゞら稲荷」へと出、そこから近鉄五十鈴川駅まで歩いて約20分。お茶休憩の後、近鉄特急で一路大阪へと帰ってきました。 
 
 
 
 
 
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