演目ゆかりのすぽっと    
 『源平布引滝』  
 九郎助住家の段  

 2013年12月初旬、『源平布引滝』三段目「九郎助住家の段」ゆかりの地を有志4名で訪れました。『源平布引滝』は源義朝の滅亡後、その弟である木曽義賢の遺児・木曽義仲が再挙するまでを描いています。三段目「九郎助住家の段」は義仲の誕生をめぐり後の物語の展開につながる重要な場面です。琵琶湖の西、堅田が舞台となっています。
 今回は、浮御堂・おとせの浜と手原を訪れました。

 大阪駅から新快速に乗り約1時間、JR湖西線「堅田」に到着です。堅田は琵琶湖のくびれた場所に架かる、東西を結ぶ琵琶湖大橋西詰の南側に位置します。堅田といえば近江八景「堅田の落雁」で知られる浮御堂が有名です。正式には海門山満月寺(臨済宗大徳寺派)といい、湖に伸びる橋の先に建つお堂です。この浮御堂のすぐ南側に「おとせの浜」という短い浜があります。「おとせ」は『源平布引滝』の登場人物「小まん」のモデルとなったと言われています。

   近江八景とは
   比良の暮雪、堅田の落雁、唐崎の夜雨、三井の晩鐘、粟津の晴嵐、瀬田の夕照、石山の秋月、矢橋の帰帆
   室町時代末期に選定されたといわれています。

  
浮御堂……滋賀県大津市本堅田1丁目16番18号 拝観料 300円  拝観時間 午前8時~午後5時

 浮御堂へはJR堅田駅から約1,5kmで、徒歩でもおよそ20分で着けるようですが、駅前から江若交通の町内循環バスを使うと便利です。「出町」バス停下車。乗車時間は約5分です。そこから歩いて約6分。土曜、日曜(10時〜15時。一時間に2本)には浮御堂に一番近い「浮御堂」バス停までの便もあります(堅田駅から乗車時間約7分)。ここから浮御堂までだいたい100mといったところでしょうか。

 
JR堅田駅

 江若交通バス
  
浮見堂バス停
  ◎おとせの石  

 「浮御堂」バス停で降りると目の前に「湖族の郷資料館」があります。資料館を左手に道を歩くとその先には浮御堂の門が。浮御堂を目指して歩くとその手前に十字路があり、左へ行くと伊豆神社があります。その辻を右に曲がります。少し進むと児童公園があり、そこを通り抜けると堅田雄琴湖岸公園・おとせの浜となっています。
 階段を下りて湖岸へ行きますとすぐに囲いが見えます。「おとせの石」です。その説明書きによりますと、

  「源平争乱の時代、堅田の出身で京都の源氏の屋敷に奉公していた、おとせという女性がいた。おとせは、平家滅亡の際に
 源氏の白旗を守って大津に逃れ、平家の追手をさけて琵琶湖に飛び込むが、平家の侍に白旗を握った手を切り落とされて死
 んだ。片腕はこの地に流れ着き、浜の石を血で染めた。そして、片腕はおとせの子が指を開かせるまで、忠義を貫いて白旗を
 離さなかったという。以来、この浜は、おとせの浜と呼ばれるようになった。その子は母の意志をついで白旗を守護し、のち木
 曽義仲の武将手塚太郎光盛になったという。この話は、寛延二年(1749)浄瑠璃『源平布引滝(げんぺいぬのびきのたき)』に
 役名を小万(こまん)と替えて取り入れられている。(大津市史より)」


とあります。湖岸にうち寄せる小波を見ていると、片腕が流れ着き血に染まったなどとはとても想像できないほど穏やかな風景です。囲いの四隅には椿の花が植えられ、とてもきれいに整えられていました。
 そのおとせの浜には桜並木もあり、「おとせ桜」の碑もありました。桜の季節にはまた華やいだ景色になりそうです。
 もと来た道を戻りますと、正面には堅田の氏神さまである伊豆神社の鳥居が見えます。894年創建の歴史ある神社です。
 ちなみに浮御堂には「鎖(じょう)明けて月さし入れよ浮御堂」という松尾芭蕉の句があります。芭蕉は木曽義仲を敬愛し、自身の墓を木曽義仲の墓所の隣につくるほどでした。二人のお墓は滋賀県大津市の義仲寺にあります。おさん(小まん)と芭蕉には何の関係もないのですが、『源平布引滝』の物語を知るものにはなんとも言えぬ感慨がありました。
 
左に湖族の郷資料館を見て直進
浮見堂の門 

伊豆神社 
 
堅田雄琴湖岸公園
 
おとせの浜を望む
 
おとせの石
 
おとせの石
 
説明書き
おとせの浜から眺めた浮見堂

 
 
   ◎手孕伝説の場所 手原へ

 浮御堂を後にしてJR堅田駅へ。次に手孕村のあったJR草津線「手原」駅を目指します。

 JR湖西線で「山科」駅(各停で約18分)まで戻り、JR琵琶湖線へ乗り換えて草津駅(各停で約18分)へ。さらにJR草津線に乗り換え、一駅でJR「手原」駅(所要時間:4分)に到着。手原稲荷神社(栗東市手原3丁目9)に向かいます。

 『源平布引滝』三段目には手孕村(てはらみむら)、現在の手原(滋賀県栗東市)の地名の由来となる話が盛り込まれています。腕を産みおとした女性がいた村を手孕村と呼んだという話が『近江国輿地志略』(享保19年、1734)などに記されているようです。
 この段では、葵御前が男子を産んだかどうかを詮議に来た瀬尾十郎を欺くために、太郎吉が釣り上げた腕を使い、九郎助夫婦が葵御前が腕を産んだと言ってその場を切り抜ける話が出てきます。実盛が中国の故事にも女が手を産み落とした話があると助け舟をだし、その村を手を孕んだことから手孕村と名付けるといった場面もでてきます。

 稲荷神社は手原駅から100mほど南に歩いた東海道沿いにあります。祀っているのは稲倉魂神、素戔鳴尊、大市比売神です。
 境内にはこれといって手孕村伝説にまつわるものなどはないようでしたが、石でつくられた手のひらのベンチ「手ハラベンチ」が東海道に面して置かれ、目をひきます。稲荷神社由緒には「東海道名所記に『左のほうに稲荷の祠があり老松ありて傘の如しなり傘松の宮という』として記され江戸時代は笠松が有名であった」と書かれています。またここには栗太八景の一つである「手原行人」の詩碑が立てられています。
 稲荷神社の北側を東西に通る東海道沿いには、昔の商家のたたずまいが残っています。玄関脇には屋号の看板があり、屋号や旧村名、業種名などが書いてあります。稲荷神社目の前は麹屋さん、その東側には酒屋さん、醤油屋さん、呉服屋さんなどの看板が掲げられ、江戸時代の往来の賑やかさを感じることができます。

 いろいろ調べてみると、また別の手孕み伝説もあるようです。白鳳時代の斉明天皇の頃に、村造布が伊弉諾命、伊弉諾命の神様に子供が欲しいと祈願して女の腹に毎夜手を置いたところ男児が産まれたので手孕という地名になった。また、村の男が夜は女の腹に手を置いて守ったところ、女は孕んで子を生んだので手孕村と言われたというものです。手原駅から徒歩25分くらいのところにある天満神社の社記に上記のような説話が書かれているそうなのですが、今回は時間の都合上訪問できず確認できませんでした。また別に天満宮もあるようで、そのどちらかなのかも確かめられませんでした。

 『源平布引滝』ゆかりの土地を歩いて、源平の合戦に伝奇的な説話を組み込み重層的な物語構造になっているのが面白いなと、改めて感心しつつ手原を後にしました。
(OK)  

 旧東海道の町並み
 
JR手原駅
  
稲荷神社
 
手ハラベンチ

稲荷神社由緒 
 
手原行人の詩碑
 
屋号の看板
         
   
このホームページは文楽応援団が運営しています。当ホームページの資料、情報の無断転載は禁止です。
当サイトに関するメッセージは、こちらまでご連絡ください。
 
 
 
inserted by FC2 system