演目ゆかりのすぽっと
『菅原伝授手習鑑 佐太村の段』
『佐太村の段』ゆかりの佐太神社をご紹介します。
 学問の神様として崇敬厚い菅原道真公を御奉祀する神社で、昌泰4年(901)に菅公が筑紫の太宰府に遷せられし途中、公の御領地であった。当佐太村に暫時滞在され、その出立に際して御自身の木像と自画像を残されました。
延喜3年(903)2月25日、公が大宰府で薨去されてより50年後の村上天皇暦年中に、里人がその徳を慕って、残しおかれた木像をお祀りしたのが佐太天神宮の創建です。


  所在地:守口市佐太中町7丁目
 最寄駅:京阪「寝屋川市駅」下車、京阪バス「市内循環」・ 「京阪守口駅行き」で「仁和寺(にわじ)」下車、淀川の堤防に向かって約700メートル。 又は、京阪「守口市駅」下車、京阪バス(系統2・4・5)で「佐太天~前」下車。

  佐太天神宮は国道1号線に面していて、大きな石の鳥居が見えます。
 江戸時代には、淀川を行き来する三十石船からも大きな鳥居はよく見え大勢の参拝客で賑わい、三大天神と言われていたそうです。 境内にある「菅公水鏡の池」は、道真が当地に滞在の折、この池に自分の姿を写し、自画像を描いたといわれています。伺ったときは水量があまりありませんでした。 白太夫神社があり、「桜丸切腹の段」の冒頭の「親ほやほや機嫌顔、嬶達が来て先へ来て七十の賀を祝うてくれたで・・」という浄瑠璃の文言が頭をよぎりました。
 他に、春には南側の桜がキレイだそうですし、豪商淀屋四代目三郎右衛門が寄進した(1650、明暦2年)という石井筒もありました。
国道1号線に面して立つ『一の鳥居 石柱2本を親柱として、上部に石造りの冠木を渡し、上に切妻屋根を架けている珍しい建造物の『神門(石門) 大阪府有形文化財(建造物)
指定の『拝殿
大坂の豪商淀屋寄進の『石井筒』
菅公水鏡の池 使用に耐えなくなった筆を納め、天神様に書の上達を願うための『筆塚』 蕪村の句碑
  窓の灯の
   佐太はまだ寝ぬ
 時雨かな
勅梅
胴牛社の牛 白太夫を祀る『白太夫社』
 当地は菅原道真の領地であったところで、901年(昌泰4年)道真が太宰府に左遷され、赴任途中に当地でしばらく滞在したと伝えられる。道真は、宇多法皇の計らいで、自分の無実が証明されるかもしれないと、一縷の望みを持ち、ここで都からの沙汰を待ったが、一向にその沙汰もなく、筑紫へ下向することとなった。当地の地名である「佐太」はこの「沙汰」が訛ったといわれる。  道真は出立に際し、自身の木像と自画像を残し、この時楊枝を土に挿し、「わが身の無実の証拠として二葉の松となって生い栄えよ」と誓ったところ、程なく発芽し、見事な松の木に成長したと伝わる。(これと非常によく似た伝説が淀川の対岸の摂津市の三本松神社にも残されている。)  道真が太宰府でなくなってから50年後の天暦年中(947〜57年)に、里人がその徳を慕い、道真が残していった木像を御神体として祀ったのが、当社の創建とのことである。(大阪再発見 神社めぐりより抜粋)
     

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