周辺見てある記
梅忠ノ碑
   国立文楽劇場から徒歩30分ほどで行くことができます。
  先ず国立文楽劇場の正面玄関前の千日前通りを東へ。目で見ても解るくらいの 上りの急勾配です。12分くらいで上本町6の交差点。そこを渡り北へ(左折)。大きめの辻の4筋目に上本町5の交差点。上本町6からだいたい5分ほど。そこを東へ(右折)。少しだけ下り坂です。4筋目の左角に畳2畳分くらいの空き地に、梅忠ノ碑と横に、「梅川・忠兵衛の墓」が建っています。
     梅忠ノ碑
 
   これらの墓は安政年間(1854〜60年)に建てられたとのことで、右側の忠兵衛の墓は「妙法頓覚利達」と刻まれ、左側の梅川の墓には「梅室妙覚信女」とあります。どちらの墓もかなり痛んでいます。 墓は四つ角の角地にあり、周り建物の筋違いなどの影に隠れ、見落としてしまうところでした。
「梅川・忠兵衛の墓」は戦前までは「伝光寺」というお寺にあったが、1945年(昭和20年)3月の空襲で全焼。その後、1952年(昭和27年)にこの伝光寺と起善寺、本覚寺の3寺が合併し、顕祥寺として同じ城南寺町内に創建されていると言われています。 お地蔵さんの横にある立派な墓は福田金塘の墓。 [福田金塘は江戸時代後期の数学者で天文暦数を修め土御門家に仕えた。今橋に私塾を開き、門下生は数千人に及んだという。1807年(文化4年)大坂で生まれ、1858年(安政5年)52歳で没した。]大阪再発見より。
  
   梅川・忠兵衛の墓  お地蔵さん  福田金塘の墓  
   他に船場淡路町に老舗のすし店の店頭に「梅川・忠兵衛 ゆかりの淡路町」と刻まれた石碑が建てられているそうです。
 
奈良県橿原市新口町の善福寺の本堂の前には忠兵衛の供養墓があります。
旧新口村は忠兵衛の実家があったところで、この山門をくぐったところ、正面に忠兵衛の供養墓がありました。
ここには「南無阿弥陀仏」と刻まれ、追善のため後世に建てられたと言われています。(AH)
 
 
 
 
 


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