演目ゆかりのすぽっと   
『新版歌祭文』 
   雨もなく暑くもなく寒くもなく、歩いていても汗をかくこともない、そんな三月のある日。
 JR京橋(学研都市線)ホームに10時集合。参加者4名。
  ホームに入って来た電車に直ぐに乗り、行き先さえチャンと見なかったんです。(後で調べると長尾行き)15分後には、野崎に到着。下車して改札を出ると「野崎観音→」の大きな看板が見えます。その→の反対の方向、駅より南下したところにあるという観音浜の碑を探しました。
 散歩されている方に尋ねましたが分からないと言われ、尚も探すと見つかりました。かつて大坂からの「野崎観音参り」は、大坂天満の八軒屋浜から舟で大川(淀川)、寝屋川を遡り支水路の様な細い川に入り、観音浜で降りたとされています。
 そこから国道170号線を横切り、だいたいの方角で急な坂道を上り、ご近所の方に尋ねます。「この先にある地蔵堂を右や」と。地蔵堂を見つけ手を合わせ右の道へ。もっと急な坂道を上ったところに専応寺。門の横から内に入ると広々とした境内。
 ここに参詣した後、野崎観音(慈眼寺)参りすると、どこかで読みました。専応寺を背に左手斜め前方の(この日の一番の)急な坂道を上がり直ぐ左手に石段。左の方には車道もありますが、階段を選びました。多分、66段。子供のように、一つ二つと数えて上って行きましたが右側土手に水仙の群生を見つけ立ち止まってパチリ。何段まであがったか、ここで定かではなくなりました。
   
観音浜の由来碑
 
地蔵堂
 
専応寺
 
慈眼寺への階段
 
           
   階段を登り切ると、いよいよ野崎観音、慈眼寺到着です。お参りを済ませて社務所右手の少し細くて急な下り坂にお染久松の石碑。手を合わせます。石碑横の石板に「野崎村の段」の浄瑠璃の一節が刻んでありました。「観音さまをかこつけて 逢いに北やら南やら お染は思い久松の あとを 慕うて野崎村」(一部抜粋)。お休み処の建物の外壁には現代風にお染久松の絵巻物が描かれていました。丁寧に物語を読み、撮影しました。

  帰りは寄り道しないで120余段ほど降りてきたところに野崎観音慈眼寺という大きな石碑。現在はここから、登って行ってお参りするんだなと参加者一同振り返りました。 この辺りは、野崎城跡、楠公寺、青少年野外活動センターや緑の文化園むろいけ園地とか飯森山一帯にハイキングコースがあります。季節の良いときに、歩き回るのもいいかもです。
 (AH)
   
野崎観音・慈眼寺
 
お染・久松石碑
 
絵巻物
 
慈眼寺石碑
 
           

慈眼寺
  野崎観音は、福聚山慈眼寺といい禅宗のお寺です。今から1300年ほど前、天平勝宝年間(749〜757年)に大仏開眼のため来朝した婆羅門僧正が「野崎の地は釈迦が初めて仏法を説いた鹿野苑(ハラナ)によく似ている」と行基様に申されました。感動された行基様が、観音様のお姿(十一面観音)を彫みこの地に安置されましたのがこのお寺のはじまりです。幾多の戦乱のため荒れはて、1565年(永禄8年)三好・松永の兵によって全焼し、本尊の観音様だけが残りました。長い間、小さいお堂のままでおまつりしていましたが、元和2年(1616年)青厳和尚がこのお寺を復興され、元禄宝永ごろにのざきまいりが盛んになると共に、お寺も栄え、現在に到っています。 (野崎観音HPより抜粋)」

   
オマケ。 文楽公演(国立文楽劇場)プログラムでお馴染みの神宗(かんそう)さんの淀屋橋店は、近代的なオフィスビル1階に町家と商家がすっぽりと収まっているようなお店です。明治時代の往来を再現されたそうです。ショウウインドーには蔵の窓からお染さんが顔を覗かせています。日曜日・祝日はお休みですが、お染さんには会えます。公演の合間にお染さんに会いに行ってみては如何ですやろか。  
 
   野崎観音の次には、お染久松のお墓があるという羽曳野市の「野中寺(やちゅうじ)」へ向かいました。 「野崎観音」も「野中寺」も同じ大阪府の東部、河内地域にあるのですが、路線が違うのでいったん大阪市内へ戻り、ランチの後、近鉄「大阪阿倍野橋」駅へ出ました。
 この駅は地下鉄御堂筋線・谷町線・JRの天王寺駅と連絡しています。ちなみに国立文楽劇場からでしたら日本橋駅から地下鉄堺筋線に乗り、動物園前で御堂筋線に乗り換えて都合3駅目10分ほどで天王寺に着きます(200円)。
 「大阪阿倍野橋」駅からは準急に乗って2駅目の「藤井寺」で下車します。乗車時間は13分ほどでした(290円)。改札を出て南出口へ。左の階段を降りたところの向かい側に近鉄バス乗り場3の表示が見えます。近鉄バスで4駅目「野々上」下車、すぐ左手に野中寺の門と塀が見えます。バスの本数はかなり多いようで、行き帰りともあまり待ちませんでした(220円)。
 野中寺は「中の太子」とも呼ばれる河内三太子寺の一つで、蘇我の馬子の創立といわれています。現在の伽藍は江戸時代に入ってから再興したものだそうですが、創建当時の伽藍の礎石が残っていて、白鳳時代の仏像や鎌倉期の地蔵菩薩が重要文化財として指定されている古いお寺です。
 境内には「お染久松の墓」の案内板が建てられていました。霊園の奥にある二人のお墓の表には「宗味信士」「妙法信女」の法名が刻まれ、背面には「享保七年建立」とありました。お染の兄にあたるという天王寺屋權右衛門が二人の十三回忌に建立したとのことで、同家の墓も並んでいました。お墓の周りをすこし掃除して、お染久松・天王寺屋の方々の霊の安からんことをお祈りし、そして4月文楽公演の成功をよくお願いしてきました。(SM)
(野中寺  羽曳野市野之上5-9-24)
 
近鉄阿部野橋駅 
 
野中寺
 
お染・久松の墓所案内版
 
野中寺霊園
 
お染・久松の墓
   
   
     
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