演目ゆかりのすぽっと  
 『新版歌祭文』
 
  座摩社の段

 「座摩社の段」の舞台となる坐摩神社を訪ねました。地下鉄御堂筋線本町駅15番出口を出て、真っ直ぐ進み1つ目の角を左に折れると右手に鳥居が見えてきます。正しくは「いかすりじんじゃ」と読みますが、「ざまじんじゃ」の方が一般的かな…
 御祭神は、「生井神(いくいのかみ)」「福井神(さくいのかみ)」「綱長井神(つながいのかみ)」「阿須波神(あすはのかみ)」「波比岐神(はひきのかみ)」で、
これら5柱を総称して坐摩大神(いかすりのおおかみ)と言うそうです。
 正面拝殿に参拝して、左手に行くと陶器神社、稲荷神社が祀られており、毎年7月には坐摩神社の夏祭とともに、
末社陶器神社せともの祭が行われます。(SK)

 
 
 
坐摩神社三ツ鳥居
 
拝殿
 
祭神
 
陶器神社 
 
稲荷神社
 
 
 野崎村の段 

 雨もなく暑くもなく寒くもなく、歩いていても汗をかくこともない、そんな三月(平成25年)のある日。
 JR京橋(学研都市線)ホームに10時集合。参加者4名。
  ホームに入って来た電車に直ぐに乗り、行き先さえチャンと見なかったんです。(後で調べると長尾行き)15分後には、野崎に到着。下車して改札を出ると「野崎観音→」の大きな看板が見えます。その→の反対の方向、駅より南下したところにあるという観音浜の碑を探しました。
 散歩されている方に尋ねましたが分からないと言われ、尚も探すと見つかりました。かつて大坂からの「野崎観音参り」は、大坂天満の八軒屋浜から舟で大川(淀川)、寝屋川を遡り支水路の様な細い川に入り、観音浜で降りたとされています。
 そこから国道170号線を横切り、だいたいの方角で急な坂道を上り、ご近所の方に尋ねます。「この先にある地蔵堂を右や」と。地蔵堂を見つけ手を合わせ右の道へ。もっと急な坂道を上ったところに専応寺。門の横から内に入ると広々とした境内。
 ここに参詣した後、野崎観音(慈眼寺)参りすると、どこかで読みました。専応寺を背に左手斜め前方の(この日の一番の)急な坂道を上がり直ぐ左手に石段。左の方には車道もありますが、階段を選びました。多分、66段。子供のように、一つ二つと数えて上って行きましたが右側土手に水仙の群生を見つけ立ち止まってパチリ。何段まであがったか、ここで定かではなくなりました。

 
  
  
 
観音浜の由来碑
 
地蔵堂
 
専応寺
 
慈眼寺への階段 
 
 
  
 階段を登り切ると、いよいよ野崎観音、慈眼寺到着です。お参りを済ませて社務所右手の少し細くて急な下り坂にお染久松の石碑。手を合わせます。石碑横の石板に「野崎村の段」の浄瑠璃の一節が刻んでありました。「観音さまをかこつけて 逢いに北やら南やら お染は思い久松の あとを 慕うて野崎村」(一部抜粋)。お休み処の建物の外壁には現代風にお染久松の絵巻物が描かれていました。丁寧に物語を読み、撮影しました。

  帰りは寄り道しないで120余段ほど降りてきたところに野崎観音慈眼寺という大きな石碑。現在はここから、登って行ってお参りするんだなと参加者一同振り返りました。 この辺りは、野崎城跡、楠公寺、青少年野外活動センターや緑の文化園むろいけ園地とか飯森山一帯にハイキングコースがあります。季節の良いときに、歩き回るのもいいかもです。
 (AH) 
 
 
野崎観音・慈眼寺
 
お染・久松石碑
 
絵巻物
 
慈眼寺石碑 
 
 
 
慈眼寺
  野崎観音は、福聚山慈眼寺といい禅宗のお寺です。今から1300年ほど前、天平勝宝年間(749〜757年)に大仏開眼のため来朝した婆羅門僧正が「野崎の地は釈迦が初めて仏法を説いた鹿野苑(ハラナ)によく似ている」と行基様に申されました。感動された行基様が、観音様のお姿(十一面観音)を彫みこの地に安置されましたのがこのお寺のはじまりです。幾多の戦乱のため荒れはて、1565年(永禄8年)三好・松永の兵によって全焼し、本尊の観音様だけが残りました。長い間、小さいお堂のままでおまつりしていましたが、元和2年(1616年)青厳和尚がこのお寺を復興され、元禄宝永ごろにのざきまいりが盛んになると共に、お寺も栄え、現在に到っています。 (野崎観音HPより抜粋)」 
 
 
オマケ。 文楽公演(国立文楽劇場)プログラムでお馴染みの神宗(かんそう)さんの淀屋橋店は、近代的なオフィスビル1階に町家と商家がすっぽりと収まっているようなお店です。明治時代の往来を再現されたそうです。ショウウインドーには蔵の窓からお染さんが顔を覗かせています。日曜日・祝日はお休みですが、お染さんには会えます。公演の合間にお染さんに会いに行ってみては如何ですやろか。     

 野崎観音の次には、お染久松のお墓があるという羽曳野市の「野中寺(やちゅうじ)」へ向かいました。 「野崎観音」も「野中寺」も同じ大阪府の東部、河内地域にあるのですが、路線が違うのでいったん大阪市内へ戻り、ランチの後、近鉄「大阪阿倍野橋」駅へ出ました。
 この駅は地下鉄御堂筋線・谷町線・JRの天王寺駅と連絡しています。ちなみに国立文楽劇場からでしたら日本橋駅から地下鉄堺筋線に乗り、動物園前で御堂筋線に乗り換えて都合3駅目10分ほどで天王寺に着きます(200円)。
 「大阪阿倍野橋」駅からは準急に乗って2駅目の「藤井寺」で下車します。乗車時間は13分ほどでした(290円)。改札を出て南出口へ。左の階段を降りたところの向かい側に近鉄バス乗り場3の表示が見えます。近鉄バスで4駅目「野々上」下車、すぐ左手に野中寺の門と塀が見えます。バスの本数はかなり多いようで、行き帰りともあまり待ちませんでした(220円)。
 野中寺は「中の太子」とも呼ばれる河内三太子寺の一つで、蘇我の馬子の創立といわれています。現在の伽藍は江戸時代に入ってから再興したものだそうですが、創建当時の伽藍の礎石が残っていて、白鳳時代の仏像や鎌倉期の地蔵菩薩が重要文化財として指定されている古いお寺です。
 境内には「お染久松の墓」の案内板が建てられていました。霊園の奥にある二人のお墓の表には「宗味信士」「妙法信女」の法名が刻まれ、背面には「享保七年建立」とありました。お染の兄にあたるという天王寺屋權右衛門が二人の十三回忌に建立したとのことで、同家の墓も並んでいました。お墓の周りをすこし掃除して、お染久松・天王寺屋の方々の霊の安からんことをお祈りし、そして4月文楽公演の成功をよくお願いしてきました。(SM)
(野中寺  羽曳野市野之上5-9-24)
 
 
 
近鉄阿部野橋駅 
 
野中寺
 
お染・久松の墓所案内版
 
野中寺霊園 
 
お染・久松の墓
 
 

 久松の親久作の屋敷は「野崎村」に設定されているが、久松は実は豊中市走井にある浄行寺の二男坊だったとか。浄行寺まで足を延ばしました。
 阪急電車宝塚線の岡町駅で下車します。梅田から約15分、各駅停車しか止まりませんのでご注意ください。改札を出て右へ、セブンイレブンの角を左へ曲がり、真っ直ぐ歩きます。暫く行くと「轟木公園」が見えてきます。突き当りの轟木公園前交差点を右へ折れ、ゆるやかな坂を登ります。大きな道に出たら左へ進みます。しばらくすると走井の交差点があります。その交差点を越え少し進むと左手に「浄行寺」があります。少し早足でも20分程かかりました。午後3時前でしたが、日が照ってないとカメラに光量が足りないみたいですね…。
 お寺に残っている過去帳には、大坂に奉公に出ていた久松は、宝永4年(1707)に自殺したということらしいです(SK)
 
 
轟木公園前交差点 
 
走井交差点
 
夕闇にせまる浄行寺
 
浄行寺本堂 
 
浄行寺墓地
 
 
  お染の家の「油屋」は、大阪市東横堀の南端近くにかかる瓦屋橋の西詰、西南角にあったとかで、その瓦屋橋を見に行ってきました。文楽劇場からも歩いて行ける場所にあります。
 劇場の真裏(搬入口のあるところ)を北に進み、道頓堀川にかかる下大和橋を越して右に折れます。その先にあるのが上大和橋です。その手前を道なりに左折します。川は東横堀川と名を変えます。次の通りにかかっているのが目指す「瓦屋橋」です。上を阪神高速道路が走っていて、薄暗い感じがします。この橋の西南角に「油屋」があったということです。
 取材では地下鉄堺筋線の長堀橋から歩きました。日本橋駅寄りの6番出口を出ると目の前に走っているのが堺筋で、左へ折れ高速道路の高架を目指します。行き当ったところが「久太郎橋」、下を流れるのが東横堀川で、渡らずに右へ曲がります。次の交差点にかかっているのが「東堀橋」で、もう一つ南にかかっているのが目指す「瓦屋橋」です。そのまま進むと「上大和橋」で、道なりに右へ曲がり交差点を左へとり「下大和橋」を渡ると文楽劇場の裏手に出ます。(SK)
 
 
 

 瓦屋橋

瓦屋橋
 
東横堀川 
 
 
 
 
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