花競四季寿(万才・鷺娘)
解説
 近畿圏の四季の情景を綴った景事物(演奏は節が多く、人形の演技は舞踊的な演目)です。春の「万才」は京都の町中を背景に、大和万才が繁栄と長寿をことほぎます。そして冬の「鷺娘」は、奈良の猿沢池を背景に春の訪れを待ち望む鷺の化身が舞います。
 (独立行政法人日本芸術文化振興会発行 第137回=平成27年1月文楽公演番付より)
 
平家女護島 
梗概と解説
   広末 保氏    (国立文楽劇場上演資料集〈2〉より)
 へいけにょごのしま
 義太夫節の曲節。時代物。五段。近松門左衛門作
 享保4年(1719)8月12日より大阪竹本座初演。作者67歳のときの作。『平家物語』の世界に題材を取り、平清盛の暴虐と悶死を主軸にして、文覚・常盤御前・牛若丸・俊寛などの話をおりこんでいる。三段目の吉田御殿の巷説をあてこんだ朱雀御殿の段の「朱雀の御所は女護島」から外題がついた。
 二段目の鬼界ケ島の段は、「俊寛の場は今の世迄段々出世する」(『竹本不断桜』宝暦9年)と評判されているように、独立した段として歌舞伎にも取り入れられ、たびたび上演されている。

 〔初段〕(六波羅・六条河原・六波羅)平重衡が南都焼討ちから、がいせんしたところから始まる。大仏の首と義朝のどくろと俊寛の妻あづまやとが戦利品として、清盛の前に出されると、清盛はあづまやに恋慕し、側仕えを強要する。一方六条河原にさらされた大仏の首からは文覚が現れて軍兵をけちらし義朝のどくろを奪い返して立ち去る。あづまやは清盛の望みに怒り、俊寛に操をたてて自害する。そこへ俊寛の召使有王丸があづまやを救おうと単身乱入してくるが、いあわせた教経の情あるはからいによってひきあげ、鬼界ケ島へ向かう。

 〔二段〕(鳥羽の作り道・鬼界ケ島)鬼界ケ島の流人は中宮安産の祈願のため恩赦となるが、俊寛だけが清盛の怒りによって除外される。それを知った教経は、みずから別に俊寛の赦文を書いて、三人の召還をはかる。鬼界ケ島で島の娘と結婚した成経は、俊寛や康頼と親子のちぎりをむすび、祝宴をひらいている。そこへ赦免船が来る。赦免使瀬尾太郎の読みあげる赦文に俊寛の名がなく、俊寛は悲嘆にくれるが、もう一人の赦免使丹左衛門が教経の赦文を読み、俊寛も赦され、一同は喜ぶ。四人が乗船しようとするが、瀬尾に千鳥の乗船を拒否される。妻の死を知った俊寛は千鳥に代って島に残ろうとし、瀬尾と争ってこれを殺してしまう。その罪により俊寛はみずから島に残り、都へ帰ってゆく三人となごりをおしむ。

 〔三段〕(小松の第・朱雀御所裏・朱雀御所)重盛の病気をなぐさめるために早乙女の田植をみせると、早乙女たちが朱雀御所の付近で夫や子供を失ったことを訴えるので、重盛は宗清にその詮議を命ずる。宗清は前に源氏に仕えたことがあるので、一度はこの命をことわるが、重ねて命じられ御所へ向かう。御所の裏では、笛竹(実は義経)と舞鶴(実は宗清の娘)の二人の侍女が道行く男を御所にさそいこんでいる。常盤はさそいこまれた男に源氏再興の連判状をみせ、承知しないものを殺している。宗清がさそいこまれてきて、素性をあかし常盤らに意見する。宗清は牛若丸に源氏の白旗を与え、みずからは娘の刃をうけて、常盤らを立ち去らせる。

 〔四段〕(舟路の道行・敷名の浦・六波羅)成経・千鳥らの一行が、敷名の浦まで帰って来る。有王丸と出会い、千鳥は彼に預けられる。そこに来あわせた清盛は法皇に身投げをすすめ、海に突き落としてしまう。千鳥は法皇を救い出すが、清盛の熊手にかかって殺される。千鳥とあづまやの怨霊が六波羅にあらわれて、清盛を苦しめる。教経がいったんは怨霊を退散させるが、ついには清盛は焦熱地獄の中で怨霊にとり殺されてしまう。
 
  〔五段目〕文覚が東(あずま)への道中でみる夢の場である。頼朝と義朝のどくろとの対面や、有王丸の注進や教経の最後などが文覚の夢枕にあらわれ平家の滅亡と源氏の興隆とが予告される。

 『平家物語』の世界をかりてはいるが、そこに登場する人物や事件については近松流の新解釈がほどこされている。各段に荒事・怨霊事・景事・節事など多くの趣向があり、二・三段には悲劇的場面がおかれてはいるが、全般の関連性に乏しく、筋の展開にも難があって、分裂的構成となっている。中心であるべき三段目が他の段から独立しており、そのため全体の構想に破れが生じている。二段目の鬼界ケ島の段は『平家物語』や謡曲とは違った新しい俊寛像の創造と、その悲劇性とによってとくに注目されており、のちの歌舞伎・浄瑠璃にもこの段の与えた影響は大きい。享保5年(1720)正月には大阪中の芝居竹島幸左衛門座によって、すぐに歌舞伎にしくまれて上演されており、浄瑠璃では改作物であるが、宝暦7年(1757)2月大阪竹本座で「姫小松子日の遊」、安永9年(1780)正月竹本座では「立春姫小松」などが上演されている。〈『演劇百科大事典』第五巻〉
(国立劇場発行 国立文楽劇場上演資料集〈2〉=昭和50年6月より) 
 
 摂州合邦辻
 解説
 歴史的名勝が数多い土地大阪天王寺界隈にあってとりわけ「仏法最初の地」四天王寺は救世観音を本尊とし、悲田・施薬などの院を擁して広く一般庶民を救済する拠点として信仰されて来ました。  この作品は讒言により追放され、盲目となった息子と父がそれぞれに施行を重ねたこの四天王寺で再会する謡曲『弱法師』をもとに数かずの説話を踏まえ成立しました。また合邦辻閻魔堂は隣接する四天王寺同様、聖徳太子の開基と伝えられ、その名が役名に付くことで地域や信仰色が盛り込まれています。
 (独立行政法人 日本芸術文化振興会発行 第99回文楽公演=平成17年7・8月 番付より) 
 河内の一城主高安左衛門通俊には、第一子に次郎丸、その下に俊徳丸という二人の子供がいましたが、次郎丸は妾腹であったため俊徳丸が後継者とされました。これを妬む次郎丸は俊徳丸を殺して家督を奪い、俊徳丸の許婚者浅香姫をも手に入れようと企んでいます。また、奥方つまり俊徳丸の母に仕える腰元の身分から、奥方の没後に通俊に望まれて後妻に入った玉手御前は、俊徳丸を恋し、あるとき俊徳丸に酒を飲ませ恋を打ち明けましたが、拒絶されました。やがて俊徳丸は難病にかかり、病を恥じ、家督相続を諦め、また継母の恋を嫌悪して館を立ち去ります。その後を追って、玉手も館を出て行きました。  その後、四天王寺の近くに庵を構える道心合邦は、病で眼まで見えなくなった俊徳丸と、その後を慕って家を出た浅香姫に出会い、次郎丸の手から救ってやるのでした。
 (日本芸術文化振興会発行 第65回文楽公演=平成9年1月 番付より)
 
    ・・・「合邦」について   八世 竹本綱大夫・・・
 文楽が四つ橋へ移りましてから二回目の芝居、即ち昭和五年二月興行には「合邦」が出まして師匠が語りました。ところが師匠が病気で休みましたので、私は十日間ほどその代り役を勤めさせていたゞきました。四つ橋へまゐりましてからはじめての師匠の代役で、後半など随分間がくづれてゐてお恥ずしいものではありましたが、会社から賞状と金時計をいたゞくといつた思ひがけない光栄に浴しまして、私にはこの時の「合邦」は特に思ひ出の深いものであります。その頃はなにかといふと賞品が出る。それがプラチナのメダルであつたりしまして、さういふことがひどく流行した時代で、この金時計もその頃の値で四十円もするといふ高価なものでしたから、大切にしてゐましたが、戦争のどさくさにどこかへ失つて了つたのが残念だと思つてゐます。

 「合邦」は越路師匠(三世)の当り役の一つで、私も随分聞かせていたゞきましたが、師匠の代役をつとめましたあと、夙川の師匠(七世吉兵衛)についてすつかり始めから叩き直していたゞきました。吉兵衛師匠から授かったものは先代大隅師匠のものでありますが、同じ大隅系といひましても、私の師匠が先代清六師匠から学びとられたものとはところどころ相違してゐます。たとへば「忍びかねたる頬冠り」の「頬冠り」の間が違つてゐます。節も手数もかはらないのでありますが、それを伝へる師匠方によつて、幾分とも違つてゐるのが面白いと思ふのであります。ですから、私の語ります「合邦」は山城師匠のともちよいちよいかはつてゐますし、又越路師匠のも真似てゐるところもあるといふわけであります。

 この浄るりも玉手御前が内へ入るまでが、なかなか語れません。マクラの「しんたる夜の道」といふところを、歩いてゐる間で語れといふのと、サラサラと語れといふのと二通りあります。ところが歩いてゐるやうにやりますと間と間 がダレて来るもので、さうかといつて、パッと提げてやりますと、ガチャガチャとして「恋の路には」などに色気が失はれるものであります。こゝの呼吸がむづかしいのでせう。お聞きのやうに節も手もよく出来てゐるのですが、未熟なものゝ芸ではその間取りがすつかり崩れて了ふのであります。

 「干破れに洩るゝ細き声」でボャーッとした雰囲気が出ないと、あとの「かゝさん」の詞が語れません。そしてこの女の第一声が開いてくれませんと、自分ながら嫌になつて、二度目の「かゝさん」が全く死んで了ひます。合邦の「ヤァわりやまだ死なぬか 、殺さりやせぬか」はあとの「幽霊もさぞ饑るかろ」と同じやうに、倣つて了へと教へられたものでありますが、さう思ひ切って大胆には語れないものであります。こゝの「━饑るかろ」や「━それがいやさに留めるのぢや」の二箇所は師匠の御本には、ご自身で(ステル)と記されてゐます。

 婆が玉手の声を聞きつけて「コレ合邦どん」と話しかけるところ━この「合邦どん」は二人が連添ふてから何十遍くりかへしたかも知れない詞である筈で、そこに親しさもあり、色気もあり、それでゐて普段の詞としての自然さもなければなりません。この点を夙川の師匠は繰返し注意されました。これをうけて合邦の「イゝヤ何ともいやせぬ」もドキンと胸にこたえてゐても、極めて自然に「イゝヤ」と首をふつてゐる様が浮かんでくるやうに語りたいのでありますが、私どもでは、意識すればするほど、気のぬけたものになります。師匠のこの辺は、爺と婆になり切つてゐて面白い情景が語られてゐます。

  次へ進みまして「お懐かしや」のあとへ「オゝ」と入れて、次の「懐かしや」とともに婆の詞にして語りますのが、今日普通に行はれてゐる型であります。私がこゝを院本で調べてみましたところが、この「オゝ」の間投詞が入ってゐません。したがって「お懐かしや、懐かしや」は玉手一人の詞となるわけであります。理論派からいはすれば、院本に戻るべきでせうが技巧派からいはすれば「オゝ」を入れて玉手と婆の二人の詞にするのが面白いといふことになりませう。この「オゝ」は昔の腕のある太夫が、よっぽどよい間へはめて語られたのが、当りをとつて今日の型になつたものかと思ひますが、師匠は勿論、院本通りで「オゝ」を語りませんし、私もうまい間にはめて語るなどは不得手の方でありますので、師匠同様に語っています。しかし私としてはどちらでも面白く語れる方でやればよいといふ意見をもつております。

 「前後見つ肌に手を」と「やつぱりほんの娘」と「健でゐたかいの」のあとに三つとも(チチチチン)と同じ手がついてゐます。これは夙川の師匠から教へられたもので、新義座時代から弥七君と相談してやつてゐますが、同じ手が三つ重なるといふことは、節の場合でも同様に一向差支へのないことでありまして、勿論同じ手といひましても三つとも自然に変化がついてゐるものであります。(以下、「玉手御前の性根」の項は省略)
 (国立劇場発行 国立文楽劇場上演資料集〈14〉=昭和61年1月より。原出は「幕間」=昭和26・8,9) 
南 都 二月堂 良弁杉由来
 解説
 良弁(689~773)は朝廷の信頼が厚く、大仏造営に尽力し、総国分寺東大寺の初代別当(寺院統括の最高責任者)に就任、また後年には石山寺の造営にも参画しています。その出生については諸説あり、さまざまな伝説が生まれていますが、芝居で展開されるように、幼い頃大鷲にさらわれ、後年生母と再会する物語は『宝物集』『元享釈書』などに伝えられています。

 この作品は、明治20年(1887)二月、彦六座にて『観音霊験記 三拾三所花の山』が上演されたのが初めです。当時は演劇改良運動が盛んで「某学識先生の著作に罹り」(番付より)、二代豊澤団平の作曲、その妻加古女の補筆が随所にあるといわれます。この『良弁』や『壺坂観音霊験記』など、観音霊験譚(二月堂の本尊は十一面観音)を集めた三十段返しの狂言立てとなっており、大正十四年四月御霊文楽座での、古靱太夫(のちの山城少掾)、三代清六、三代玉蔵(良弁)、三代文五郎(渚の方)らによる上演から『良弁杉由来』の外題が使われ、この物語が独立して上演されるようになりました。

 薫り高き夏の茶畠、時を隔て桜が咲き乱れる風景、そして厳粛な東大寺境内と、多彩な情景の配置に、平易な筋立てながらも清浄さがあふれるこの物語が象徴されています。

 この物語の一つの基軸に渚の方という女性の姿があります。それは、『志賀の里』での腰元との語らいのうちに窺える、亡き夫との間に遺された光丸の成長そして、水無瀬家の再興に思いを託す姿。時を経て狂女となっても、水面に映る自分の顔を見ては正気に戻り出家の決心を固めるその瞬間、或いは二月堂でついに我が子と再会し、志賀に戻り夫の菩提を弔おうとするそのときに、渚の方には子を愛し家の繁栄を願うその心が昔のままであることを示すのです。「申し上ぐるも面伏せ・・」渚の方が良弁や僧に、三十年という長い長い別離―渚の方もその姿かたちが大きく変わってしまうのですが、その心に移ろいのない事がこの物語の美しさをいや増すのです。  そして互いの身の上を確かめ合い、「そもじが」「あなたが」…高僧と生母、この清らかなる二人がイキを詰めあい、そして通い合う、珠玉の瞬間です。
 (独立行政法人 日本芸術文化振興会発行 第93回=平成16年1月文楽公演番付より) 
 上演資料集より
       「良弁僧正のかしら」    吉田文雀師
 「良弁杉由来」の良弁僧正のかしらは「上人」の中で、特に「良弁」と呼ばれております。「戯場楽屋図会拾遺」に「日蓮上人―日蓮記に用ゆ。これらのかしら役者の好みにて仏師の作れる事あり」と記されている様に、江戸時代より明治迄、品位と威厳を備えた高僧の役に使う「上人」のかしらは、仏師の彫ったものが多くあったようです。普通のかしらは、かずらを着け髪を結って似合う様に目、眉、鼻、口等を随分誇張して作り、頭部もかずらを着けやすい形にこしらえますが、僧侶の役専門に使う「上人」は、かずらを着けない為、すべての点で違ってきます。大江己之助氏の話によりますと人形細工人は通常「散刀」という手法でかしらを彫りますが、仏師は「逐條法」という彫り方だそうです。

  「良弁杉由来」は明治二十年二月いなり彦六座が初演で、良弁僧正は座頭の吉田辰五郎が、当時同座にいた人形の四世桐竹門造の作った「上人」のかしらで遣いました。その後度々上演され、良弁僧正役も辰五郎より三世吉田玉蔵、初世吉田栄三へ引継がれてきましたが、上演の都度かしらは、門造家より借用し、「良弁」と呼ぶようになりました。四世門造は三世の門弟で、師匠同様人形遣いのかたわら、かしらの製作や補修もしていたようで「良弁」の外、凄艶な「お岩」も残っております。このかしらは五世門造に継承されましたが、今次大戦の際には、那須へ疎開して戦災を免れた、と聞いております。大江己之助氏は若い頃、五世門造師方で修業したのでこの「良弁」をよく覚えており、戦後早速製作にとりかかり、自分の工夫も入れて仕上げた後「後頭部のしこり」や「耳たぶ」等気に入らぬ個所を、三度修正して前後十二年かかり、やっと完成しました。恐らく彼の代表的な作品となりましょう。仏師の製作したかしらは、写実的な表情をしておりますが、この「良弁」はあく迄も、文楽のかしらとして出来ております。「日蓮」のようなきびしさはなく、柔和で、有徳の相をしております。顔の動きはなく、描き眉に目は玉眼を入れ、極く薄い卵子塗りに仕上げてあります。
 (国立劇場発行 国立文楽劇場上演資料集〈17〉=昭和63年1月より。原出は「朝日座プログラム」=昭和51・1) 
『良弁杉由来』ゆかりの地巡りはこちら 
 
 傾城恋飛脚
 解説
 詳細は不明ですが、飛脚屋亀屋の養子忠兵衛は、遊女梅川と深い間柄になったことから、為替金を横領し、処刑されたと伝えられています。本作は、これを題材とした近松門左衛門の『冥途の飛脚』(1711)及びその改作で紀海音の『傾城三度笠』(1713)に基づいた世話物です。菅専助、若竹笛躬の合作で、安永二年(1773)12月、大坂曽根崎新地の芝居で初演されました。
  (独立行政法人 日本芸術文化振興会発行 第109回=平成20年1月文楽公演番付より)
 大和の豪農孫右衛門の一人息子で、大坂の飛脚屋亀屋の養子となった忠兵衛は、新町の遊女梅川と深い仲になっていました。ある日、梅川に横恋慕する八右衛門がわざと忠兵衛を罵り、忠兵衛は屋敷に届ける為替金三百両の封印を切るという大罪を犯してしまいます。
  (独立行政法人 日本芸術文化振興会発行 第133回=平成26年1月文楽公演番付より)
 (S.M.)
 
 
首の名前
 役名 かしら名 
花競四季寿
  万才・鷺娘
太夫 若男
才蔵 祐仙
鷺娘
  
平家女護島
俊寛僧都 丞相
平判官康頼 検非違使
丹波少将成経 源太
蜑千鳥
瀬尾太郎兼康 大舅
丹左衛門基康 検非違使
   
 摂州合邦辻
合邦道心  正宗 
合邦女房
玉手御前 老女方
奴入平 検非違使
浅香姫
高安俊徳丸 若男
  
南 都 二月堂良弁杉由来 
乳母小枝 老女方
光丸 男子役
渚の方 老女方
腰元藤野 お福
腰元春枝
花売娘  
吹玉屋 三枚目
船頭 男つめ
雲弥坊 又平
先供 検非違使
良弁僧正 上人
弟子僧 源太
弟子僧 検非違使
 
傾城恋飛脚
忠三女房 お福
八右衛門 陀羅助
亀屋忠兵衛  源太
傾城梅川
樋の口の水右衛門 端役
伝が婆 婆つめ
置頭巾 爺つめ
弦掛の藤治兵衛 爺つめ
針立の道庵 端役
親孫右衛門 定之進
捕手小頭 検非違使
 








 
衣裳
花競四季寿
  万才・鷺娘
太夫  納戸精好若松白抜染半素袍なんどせいごうわかまつしろぬきぞめはんずおう
才蔵  鶸精好橘白抜染半素袍ひわせいごうたちばなしろぬきぞめはんずおう
鷺娘  鴇縮緬雪持枝垂柳鷺友禅振袖肩切着付ときちりめんゆきもちしだれやなぎさぎゆうぜんふりそでかたきりきつけ)
平家女護島
  鬼界が島の段
俊寛僧都 朱珍錦切継破れ着付(しゅちんにしききりつぎやぶれきつけ)
摂州合邦辻
  合邦住家の段
合邦道心  鼡紬着付(ねずみつむぎきつけ)
合邦女房  茶木綿着付(ちゃもめんきつけ)
玉手御前  黒縮緬藪柑子裾縫着付(くろちりめんやぶこうじすそぬいきつけ)
浅香姫  赤花紗綾形綸子花筏紋繍振袖着付(あかはなさやがたりんずはないかだもんぬいふりそできつけ)
高安俊徳丸  浅葱花紗綾形綸子白茶錦肩入二枚人形着付(あさぎはなさやがたりんずしらちゃにしきかたいれにまいにんぎょうきつけ)
南 都 二月堂良弁杉由来
良弁僧正  白羽二重半腰しろはぶたえはんごし) 浅葱固地綾指貫(あさぎかたじあやさしぬき)
赤縮緬法衣(あかちりめんほうえ) 朱色錦七条袈裟(しゅいろにしきしちじょうげさ)
傾城恋飛脚
  新口村の段
亀屋忠兵衛  黒縮緬梅花流水裾模様着付くろちりめんばいかりゅうすいすそもようきつけ)
傾城梅川  黒縮緬梅花流水裾模様着付くろちりめんばいかりゅうすいすそもようきつけ)
 



資料提供:国立文楽劇場文楽技術室衣裳担当
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