『心中天網島』   
  「北新地河庄の段」・「道行名残の橋づくし」   
 
 日曜日のある日10時30分、文楽応援団7名はJR福島駅に集合し、紙屋治兵衛と小春が辿ったゆかりの地めぐりに出発。日差しは春のけはいでしたが、時折吹く風は冷たかったです。
 駅の改札を出て右側、南方面に暫く歩くと大きな交差点に出ます。浄正橋交差点をさらに南に歩くと右手にある福島天満宮に到着。その昔菅原道真公が九州大宰府に左遷された折、この地に立ち寄られ土地の人に丁重にもてなされたそうです。当時はこの辺りを「鹿飢島」と呼んでいたとか…。「鹿飢」は「餓鬼」に通じ良くないので「福島」と改められたということです。
 さて、境内に入り、街歩きの安全を願い参拝。門を出て一筋目の信号を右に曲がると、『ひらがな盛衰記』に出てくる逆櫓の松跡があります。見学を終え、上天神南交差点をそのまま真っ直ぐ、梅田橋方面へ向かいました。
 当時この場所には、蜆川(正式名・曽根崎川)という川が流れていましたが、明治42年の北の大火により蜆川は瓦礫の捨て場となり、明治45年上流部分を埋めたて、大正13年に完全に埋め立てられ川は消滅しました。
  梅田橋は、現在は何もないのですが、唯一橋の存在を示しているのが「梅田橋ビル」の名前です。聞くところによると、ビルのオーナーさんは、かつてここに梅田橋があった事を伝えたいという思いでビルの名前をつけたとか。かつてここに川が流れていた面影もどこにも見当たりません。緑橋を過ぎ、北新地入る手前に「元櫻橋南詰」の碑が建っています。そのまま真っ直ぐ東に向かいます。暫く行くと堂島薬師堂があります。近くの案内板によると「海上運航する船からお堂が見えた事から『薬師堂』のある島が『堂島』の地名になったと言われているそうです。
 
福島天満宮 
 
浄正橋碑
 
梅田橋ビルの看板

元桜橋の石碑 

    堂島薬師堂から一本筋を北側に取り、右に折れて暫く歩くとビルの谷間にひっそりと佇む「茶屋河庄の跡」の碑があります。ホント見過ごしてしまいそう。「河庄」碑の筋を挟んで後方左手には「曽根崎川跡 蜆橋銅板標」があります。近くにある曽根崎新地の紹介文によると、1688年に堂島新地、1708年に曽根崎新地がそれぞれ誕生しました。1720年に心中天網島が初演となりますから、新地ができてすぐの事件だったのですね。途中、曽根崎ゆかりの芝居や街案内が通りのいたる所に設置されています。
  通りを抜けると御堂筋と合流。いまでは大阪の幹線道路になっていますが、当時はどんな風景だったのでしょうか。この御堂筋沿い、珈琲の青山のビルの角にぴったり埋められて、史跡蜆川跡の石碑があります。碑の右面に「史跡蜆川跡」、左面に「しじみばし」とあります。
   

堂島薬師堂

河庄跡碑

蜆橋銅板標
 

史跡蜆川跡

蜆橋
   
 御堂筋を向こう側へ渡り、大江橋を右手にちらっと見て、堂島ビルジング南側の道を進みます。難波小橋があった場所を通り、大阪地方裁判所に出てきました。ここに佐賀藩蔵屋敷跡の石碑があります。道路を挟んだ反対側には船入橋の石碑が、と思いきや一帯にフェンスが張り巡らされていました。何とか隙間から船入橋の碑を撮影しました。橋の長さは約7.2~15.3m、幅は3.6mの反り大きな橋だったようです。暫く行くと太平橋の欄干があります。
 天神橋が見えてきました。「北へ歩めば我が宿を射一目に見るも見返らず。子供の行方、女房のあはれも胸に押包み南へ渡る橋柱…」。真っ直ぐ北へ行けば紙屋がありますが、見返ることもせず二人はどんな思いでここを通ったのでしょうか。
 出発して途中寄り道をしながらここまで約2時間。そろそろ疲れも出る頃ですが、天神橋を渡り交差点のちょっと先に熊野古道出発の地の碑があり、土佐堀通に戻って信号を渡らずに右手天満橋の方向に進むと、八軒家船着場の碑がありました。

佐賀藩蔵屋敷跡碑 
 船入橋碑
太平橋標

熊野街道銅板
 
 

八軒屋船着場跡石碑
           
    休憩をして再開です。天満橋を出発して長い橋(江戸時代には無かった)を渡ると右手に京橋があります。大阪城が望めます。京橋からの信号を渡り、京阪電車を潜る地下道を潜ると間もなく、小春・治兵衛が思いを遂げた大長寺です。かつて大長寺は、今の藤田美術館の地にありました。旧大長寺の山門が藤田美術館の正門として残されています。私たちは川岸を歩き、藤田美術館の裏(?)から庭園を抜けて正面入口へ出ました。大長寺は明治42年に現在の場所(藤田美術館から北へ500m)に移転しました。さあ、最後の踏ん張り、藤田美術館の正門に向かって右に進み、交差点を左へ、太閤園迎賓館に沿って歩くと、東野田町の交差点に出てきました。斜め右方向に大長寺が見えます。境内には二人の比翼塚が祀られています。
  心中天網島初演から約300年の年月が経ちました。当時とは全く違った風景になりましたが、地図と床本を片手に持ちながら当時の大坂の面影を探し想像して歩くのは、大阪の街や文楽を深く楽しむ方法のひとつかと思いました。
(IM)    
   
京橋

藤田美術館正門 
 
比翼塚
 
比翼塚説明板
 
    
  「安養寺」 
 小春・治兵衛の二人は思いを遂げましたが、残されたおさんはどこへ行ったのでしょうか。
 西成区の安養寺というお寺に、おさんの墓があると聞き、早速訪ねました。
 国立文楽劇場から地下鉄堺筋線日本橋駅で天下茶屋行に乗車し、3駅目の天下茶屋駅(南海電車の天下茶屋も同じ場所)で下車しました。
 地下鉄の改札を出て、右へ進むと、左手斜め前に「天下茶屋駅前商店街」のアーケードがあるので、この通りをまっすぐ進み、5分程歩くと車が通る道路(紀州街道)に出て、そこを右折。この街道沿いを10分程進み、天下茶屋公園の向かいにある安養寺に到着しました。なお、恵比寿町から出ている阪堺線(チンチン電車)を利用する場合は聖天坂駅で下車、2分で行けます。
 お寺の門前には「紙治おさんの墓」 の石碑があり、墓地の右手にあるお墓は保存のために小さなお堂に納められています。
おさんは夫の一周忌を済ませると、遺児を実家に預けて尼になり、晩年は安養寺の尼僧として主に女性の悩み相談相手を務め、多くの信者に慕われたそうです。( 大阪市西成区岸里東1丁目)
(US)

天下茶屋駅前商店街 
 安養寺  
案内の石碑

おさんの墓 

おさんの墓
 

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