*もっと詳しい人物相関図⇒独立行政法人日本文化芸術振興会ウェブサイト「文化デジタルライブラリー」 『伊賀越道中双六』人物相関図 でどうぞ。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
「伊賀越道中双六」の通し上演について |
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「伊賀越道中双六」は、明治時代までは先行作「伊賀越乗掛合羽」とないまぜの形で上演されることが多かったのですが、昭和28年5月の四ツ橋文楽座での「和田行家屋敷の段」「伏見北国屋の段」「伊賀上野仇討の段」の復活(野沢松之輔の作曲)、昭和42年3月の東京・国立劇場での「鶴が岡の段」の復活(六世鶴沢寛治の補曲)、昭和59年11月の国立文楽劇場での「円覚寺の段」の復活(四世野沢錦糸の作曲)を経て、全段のほぼ完璧な通し上演が可能となりました。 平成4年4月の国立文楽劇場では昭和28年以来39年ぶりとなる大阪での「伊賀越の通し」公演が行われ、昭和59年に復活された「円覚寺の段」を通しの中に組み入れました。そのことによって、旗本と大名の対立構造がいっそう明確になり、些細な殺傷事件が幕府の重大関心事にまで発展し、また関わりのない人達までも次々に巻き込んで行く様子がいっそう理解しやすくなったと考えられます。 今回は、以来21年ぶりの大阪での通し公演であります。 |
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実説荒木又右衛門 |
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伊賀荒木村の人。新陰流の剣豪。1599(慶長4)年に生まれ、29歳で大和郡山藩松平忠明家中の剣術指範となりました。1630(寛永7)年、備前岡山藩士河合又五郎が藩主池田忠雄の愛童渡辺源太夫を斬殺して逐電する事件が起こりました。これが大名と旗本の対立へと発展し、病死した藩主の遺言で源太夫の兄渡辺数馬が敵又五郎を討つことになりました。又右衛門の妻が殺された源太夫の姉であった縁で、数馬は又右衛門に助太刀を頼みました。 1634(寛永11)年11月、又右衛門らは伊賀上野鍵屋の辻で又五郎を討ち、めでたく本懐を遂げました。これが世に喧伝される伊賀越の仇討で、日本三大仇討の一つとうたわれています。 事件後又右衛門は有名人となり、鳥取池田藩に引き取られますが、鳥取到着後間もなく急死し、これがまた謎とされています。 |
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伊賀越 |
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大和の国から山城(京都)の笠置を経て伊賀(三重)を通り伊勢に通じる街道。又五郎一行は九州に落ちのびるのに、又右衛門らの目を避けるため、京都の伏見から伊賀越を通って伊勢の鳥羽に向かい、海路紀伊半島を迂回しようとしましたが、又右衛門がこれを探知して、伊賀上野で待ち受けたといいます。すなわちこの仇討にとって“伊賀越”は討つ方にも討たれる方にも重大なポイントでした。従って“伊賀越”は芝居の芸題にもそのまま使われ、「伊賀越の仇討」と通称される由縁となりました。 『伊賀越道中双六』では「伏見北国屋」で政右衛門が股五郎一行を大阪から尼崎・兵庫にかけて待ち受けると見せかける計略により伊賀越におびき出したというふうに描いています。 |
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以上、日本芸術文化振興会発行 第45回=平成4年4月文楽公演番付より抜粋・要約 |
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敵討の規則 |
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江戸幕府は士道尊重のために敵討を公認していたが、敵を討つものが討たれた者よりも目下の者であること、復讐の場所に禁裡御築地内・江戸城郭内・芝山内・上野山内を避けること、公許を得ながら本懐成就以前に敵が死んだ場合は、その確証を復申することなどの事項が、慣例上から定められていた。また敵討の条件としては、被害者が必ず死んだときに限られていること、討手が第三者であること、目的があくまでも復讐でなければならないことの三箇条が挙げられる。なお、敵討の公認については免許状が下附され、奉行所などに必要な手続きを行うことになっていたが公認される敵討ちは尊属・最近親の場合に限っていて、助太刀も認められた。但し、弟や妹の敵討と助太刀は許されなかったので、伊賀上野の渡辺数馬と荒木又右衛門の敵討は、大名対旗本の対立を背景とし、亡き主君の遺言によって行われた異例の敵討と言わなければならない。 |
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国立劇場発行 第77回=昭和61年5月文楽公演番付より抜粋 |
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