双蝶々曲輪日記
主な登場人物 
 
 
 解説
 『双蝶々曲輪日記』は寛延二年(1749)竹本座初演の九段続きの世話物で、『忠臣蔵』『千本桜』と同じく竹田出雲・三好松洛・並木千柳の合作により、『忠臣蔵』の翌年に初演されています。山崎与五郎と藤屋吾妻の恋をめぐって達引を演じる濡髪長五郎と放駒長吉という二人の相撲取りを中心に描かれており、「双蝶々という名題に二人の相撲取りの「長」の字をきかせています。近松の「山崎与次兵衛寿(ねびき)の門松」や西沢一風らの「昔米万石通(むかしごめまんごくどおし)を下敷きにした作品です。
  (国立劇場発行 第33回=平成元年11月文楽公演番付より)
 
これまでのあらすじ
 人気関取の濡髪長五郎は、豪商山崎与次兵衛に贔屓を受けています。長五郎は与次兵衛の息子与五郎が遊女吾妻を身請けするにあたって奔走していました。ところが、吾妻には平岡郷左衛門という武士も執心で、その郷左衛門には素人相撲の放駒長吉が肩入れしているのです。
 吾妻の身請け額は六百両。与五郎はまず三百両の手付を打たねばなりません。郷左衛門たちも金の工面を始めたと知って与五郎は、すぐ三百両の手付を打ちましたが、悪者に妨害されてうまく行かず、そのうえ郷左衛門たちから乱暴されてしまいました。この時、与五郎を救ったのが南与兵衛(なんよへい)で、吾妻の姉貴分にあたる遊女都はこの与兵衛の恋人でした。
 高台橋(たかきやばし)の南詰、今日は七日目の相撲で賑わっています。連勝している長五郎の今日の相手は長吉。その取り組みは長吉の勝ちでした。
  (日本芸術文化振興会発行 第80回=平成12年11月文楽公演番付より)
 抜き書きノート
上演資料集より≪玉男芸話≫(抜粋)

 「引窓」に比べると、最近、通し以外で「橋本」が上演される機会はやや少なくなっていますが、こちらもいい芝居です。私は、昭和36年8月に道頓堀文楽座で、玉助さんの甚兵衛、玉市さんの与次兵衛、二世栄三さんの吾妻、他の配役で、初めて治部右衛門を遣いました。おじいさんの役ではありますが、周りに先輩方が揃われた、いいメンバーの中で持たせてもらえたのが嬉しかったのを覚えています。この時は「相撲場」と「橋本」のみの上演でした。
おじいさんの役には何種類もの首があるうち、治部右衛門は鬼一、与次兵衛は定之進、甚兵衛は武氏、をそれぞれ用いる。個々の性格によって使い分けていて、鬼一は時代物ならその名の起こりとなった鬼一法眼や、『妹背山婦女庭訓』の大判事に使う首で、厳格な人物を現わしています。ただし「橋本」は世話物ですから、気ばりすぎずに、時代物のようになってしまわないよう注意します。与次兵衛は反対に温厚な人。定之進の首は「酒屋」の宗岸や「新口村」の孫右衛門、「大文字屋」の助右衛門などにも使われる。武氏は哀しい、ちょっとみすぼらしいところのあるおじいさんで、甚兵衛の他には『沼津』の平作にも使っています。

 (日本芸術文化振興会発行 上演資料集415 〈1999年12月〉より抜粋)
≪時刻について≫

 江戸時代は日の出を明六ツ、日の入りを暮六ツとし、それぞれの間を六等分する「不定時法」が用いられていました。季節によって一刻の長さも変わりますが、同じ刻であれば陽の明るさがほぼ等しく、それなりに合理的だったのです。現在でも昼八ツ(午後二時)ごろの軽食を「おやつ」といいます。
 十次兵衛が長五郎を逃した暮九ツは現在の午前0時。真夜中でしたが、十次兵衛は九つの鐘のうち六つを日の出の明六ツとみなし、長五郎をのがしてやったのです。


  
(日本芸術文化振興会発行 第80回=平成12年11月文楽公演番付より) 
 
『双蝶々曲輪日記』ゆかりの地巡り は こちら 
 
奥州安達原
 主な登場人物
 
 解説
  『奥州安達原』は、史実では、奥州六郡を治めた安倍頼時が源頼義・義家親子に滅ぼされ、その子貞任は戦死、宗任が降伏した「前九年の役」の後日譚として、貞任は死なず、宗任も降伏せずに義家への復讐の機会を窺っているという状況に置き換え、安倍家再興と奥州独立をめざして闘いを挑むという壮大なドラマに仕立て、これに奥州ゆかりの善知鳥(うとう)伝説や黒塚伝説を巧みに取り入れた時代物の大作です。近松半二、竹田和泉、北窓後一、竹本三郎兵衛の合作で、宝暦12年(1762)9月に大坂竹本座で初演されました。
 この物語では、失われた三種の神器のひとつ十握の剣(とつかのつるぎ)の紛失、さらには皇弟環の宮の失踪、献上の鶴が殺されて脚につけた黄金の札が奪われるという三つの事件が起こり、この三つの謎解きを中心に筋が運ばれてゆきます。
 これまでのあらすじ
  奥州の安倍頼時を滅ぼして東国を鎮圧した八幡太郎義家のもとに、都から奥州に流されている桂中納言則国を呼び返すことと、紛失した十握の剣の詮議のため、上洛するようにとの勅命が下ります。〈鶴が岡仮家の段〉
 皇弟環の宮と女官の匣(くしげ)の内侍が吉田神社への参詣の途上でさらわれ、環の宮の養育係であった平傔仗直方(たいらのけんじょうなおかた)はその責任を問われ、苦しい立場となります。〈吉田社頭の段〉
 義家は権中納言則国の遺児則氏を見つけ出し、中納言の官位を伝えます。また、家臣の生駒之助と恋仲の恋絹が安倍頼時の娘であると知り、生駒之助に恋絹の兄貞任と宗任の行方を探るように命じ、不義を理由に勘当します。〈八幡太郎館の段〉
 一方、奥州の外が浜では、義家が放した鶴が殺され、その犯人として南兵衛という男が名乗り出て、都に連れて来られます。〈外が浜の段・善知鳥文治住家の段〉
 (独立行政法人日本芸術文化振興会発行 第164回=平成20年9月文楽公演〈東京〉番付より)
 抜き書きノート
 ≪「奥州安達原 一つ家の段 老女岩手のかしら「莫耶(ばくや)」について≫
     
昭和57年10月 朝日座公演番付より 吉田文雀師の解説 

 「奥州安達原」一つ家の段の老女岩手には「莫耶」というかしらを使います。莫耶とは呉の刀工干将の妻で、呉王の依頼で剣をつくるとき、地金がうまくとけ合わないので夫妻は自分の髪と爪を切って炉に投入したところ始めて融合し、ついに二振の名剣が出来上がり、陽剣を「干将」陰剣を「莫耶」と称し、この陰剣を呉王に献じたという故事があります。このかしらにどうして莫耶の名がついたのか分りませんが、享保十四年(1729年)竹本座初演の「眉間尺象貢」という狂言に干将莫耶が登場すると聞いております。
 時代物の敵役の婆のかしらで、目が丸くギョロリとして恨みを宿し、超人的な凄味をもつかしらです。享和二年刊「戯場楽屋図会拾遺」には「安達原老婆のたぐいは面を縮緬にて張ること多し」とありますが、現在ではごく薄い卵塗か、ねずみがかった色に塗ります。かしらの動きは古いものは返り目、顎が落ちて口が開く仕掛けだったようですが、現在ではヨリ目、口あきになって居ります。
 現在協会にあるかしらは、初代吉田栄三蔵で戦災で焼失したかしらを基調として大江己之助が苦心の末昭和四十二年に出来上がったもので、目の下に小さなシコリがあるのが特徴です。お手本にしたかしらは口を開けると舌に小さな管がついていたそうですが、これは恐らく岩手が突込んだ懐剣を口にくわえる仕掛けではなかったかと思われます。岩手の他には「生写朝顔話」摩耶ヶ獄の段の荒妙、三島由紀夫作「椿説弓張月」琉球国の巫女阿公に使いました。
 
(財団法人文楽協会発行 昭和57年10月朝日座文楽公演番付より) 
 
≪前九年・後三年の役≫ 
 平安末期に奥羽地方で行われた二大戦役のこと。
 奥羽の安倍頼良は、陸奥六郡を領しながら、隣郡を攻略し、賦貢・徭役を中央に納めませんでした。そこで朝廷は、永承六(1051)年、源頼義を陸奥守兼鎮守府将軍に任じて安倍氏討伐に派遣しました。頼良は一時は帰順し、名も頼時と改めましたが、五年後、再度乱を起こし敗死しました。
 その後も頼時の子貞任・宗任の勢力が強く、頼義は苦戦しましたが、出羽の豪族清原氏の援助を受けて康平五(1062)年、ようやく鎮圧しました。これを前九年の役と称します。
 その清原氏は安倍氏の旧領を併せて鎮守府将軍として威をふるいましたが、内紛を起こしました。今度は頼義の子義家が苦戦の後その内紛を平定しました。これが後三年の役です。
両度の合戦により源氏は東国に確固たる地盤を築くことになりました。 
 
≪祭文≫ 
 本来は神仏の前で奏する祝詞のことで、平安時代には仏教・神道それぞれに祭文がありました。室町時代には宗教を離れて、山伏などが、錫杖や法螺貝を鳴らしながら唄うことが流行しました。
 江戸時代になると、三味線の伴奏で恋愛談や情死事件など世俗のニュース種を取り入れ、歌祭文と称し、またそれを歌って歩く門付け芸人を祭文語りと呼びました。
 門付けがやがて小屋掛けとなり、説教と浄瑠璃を合わせた説教祭文を語るようになりました。今日の浪曲はこの歌祭文の系統をひいています。 
(日本芸術文化振興会発行 第38回=平成2年11月文楽公演番付より) 
 
≪「奥州安達原」の作者 近松半二略年譜≫
(平成二年九月文楽公演番付 服部幸雄氏作成による) 
 
享保十年(1725)
近松門左衛門と親交があり、有名な「難波土産」の著者として知られる儒者穂積以貫の次男として大阪で生まれる。本名を成章という。青少年時代の消息はまったく不明だが、彼の遺著「独判断(ひとりさばき)」の叙には、遊里に遊び放蕩の生活を送ったもののように記してある。
父親と縁故の深い二代目竹田出雲の門に入り、竹本座の浄瑠璃作者となる。近松門左衛門に私淑したことからその名を襲い、近松半二と名乗った。
宝暦元年(1751)27歳
 十月竹本座で上演した「役行者大峰桜」の時、初めて合作の作者連名に名を連ねる。この作の「序」を執筆したのが彼の初作といわれる。なお、この時の合作グループは、番付には竹田外記・吉田冠子・三好松洛とあり、正本には竹田外記・近松半二・竹田文四となっている。
宝暦四年(1754)30歳
 十月竹本座で「小野道風青柳硯」上演。歌舞伎で上演される二段目の口は半二の執筆と伝えられる。この前後、約二十編、出雲・冠子・松洛・二歩堂らの下で合作に従う。この間に二代目竹田出雲が没し(宝暦六年十一月)、吉田冠子(人形遣い吉田文三郎の作者名)が退座(同九年)するなどのことがあり、竹本座の座運は急速に衰える。「薩摩歌妓鑑(さつまうたげいこかがみ)」「日高川入相花王」「太平記菊水之巻」「極彩色娘扇」「由良湊千軒長者」などは、この時期の合作である。
宝暦十二年(1762)38歳
 九月竹本座で「奥州安達原」上演。北窓後一、竹本三郎兵衛との合作。半二は実質上の立作者となって作劇し、成功を収めた。
宝暦十三年(1763)39歳
 立作者となる。以後没するまでの二十年間に三十余編を作った。主として三好松洛・竹本三郎兵衛らと合作し、数々の名作を生んだ。
明和三年(1766)42歳
 一月「本朝廿四孝」上演。
 十月「太平記忠臣講釈」上演。
明和四年(1767)43歳
 八月「関取千両幟」上演。
 十二月「三日太平記」上演。
明和五年(1768)44歳
 六月「傾城阿波の鳴門」上演。
明和六年(1769)45歳
 「近江源氏先陣館」上演。
明和八年(1771)47歳
 一月「妹背山婦女庭訓」上演。この作品の大成功により、竹本座は四、五年の不入りを一気に取り戻したと伝えられる。
安永三年(1774)50歳
 三年から四年にかけての一時期、半二は竹本座の座本を兼ね勤めた。このことは、当時の座の経営を支えた半二の実力を象徴している。
安永九年(1780)56歳
 九月、単独作「新版歌祭文」上演。
 以後単独作二編がある。
天明三年(1783)59歳
 二月四日、京都山科で没した(山科に晩年一時隠棲したが、没したのは大坂であるとの説もある)。なお、没年は明確でなく、天明二年説・同三・四年説・同五年説・同六年説・同七年説の諸説が立てられている。天明三年二月四日との説は穂積家代々の菩提寺である姫路市西材木町の見星寺にある以貫・半二の追慕碑の記事に従ったものである。
 四月竹本座で「伊賀越道中双六」(遺作か)上演。この作が、半二を立作者とする最後の作品である。
 (日本芸術文化振興会 第93回=平成2年9月文楽公演〈東京〉番付より)
 
首の名前
 役名 かしら名 
双蝶々曲輪日記
濡髪長五郎 文七
茶屋亭主 端役
放駒長吉 鬼若 
姉お関 老女形
下駄の市 端敵
野手の三 端役
同形六兵衛 釣船
尼妙林 妙林
平岡郷左衛門 端敵
三原有右衛門 小団七
山崎与五郎 源太 
藤屋吾妻 娘 
嫁お照 娘 
下女およし
駕籠かき甚兵衛 武氏 
駕籠かき太助 端役 
橋本治部右衛門 鬼一
山崎与次兵衛 定之進
女房おはや 老女形
長五郎母 婆 
南方十次兵衛 検非違使
平岡丹平 陀羅助  
三原伝藏 与勘平
奥州安達原
袖萩 老女形
娘お君 老子役
かさの次郎七 端敵
三枚目
とんとこの九助 端役
瓜割四郎糺 与勘平
八重幡姫
平傔仗直方 鬼一
志賀崎生駒之助 源太
傾城恋絹  傾城
妻浜夕
敷妙御前 老女形
八幡太郎義家 源太 
桂中納言則氏 実は 安倍貞任  文七 
外が浜南兵衛 実は 安倍宗任  小団七・大団七 
老女岩手  莫耶 
旅の男  端役 
賤の娘 実は 新羅三郎義光  娘・源太 
薬売り 実は 鎌倉権五郎  鬼若 
環の宮 実は 義家一子八若 男子役  
衣裳
双蝶々曲輪日記
濡髪長五郎 焦茶木綿縞人形付大寸着付(こげちゃもめんじまにんぎょうつきだいすんきつけ)
女房おはや 黒地銘仙茶子持縞着付(くろぢめいせんちゃこもちじまきつけ)
長五郎母 鶯木綿更紗小紋着付(うぐいすもめんさらさこもんきつけ)
南方十次兵衛 紺羽二重半腰(こんはぶたえはんごし)
青茶宇縞切袴(あおちゃうじまきりばかま)
奥州安達原
袖萩 黒縮緬藍鼡江戸解模様切継着付(くろちりめんあいねずみえどときもようきりつぎきつけ)
桂中納言則氏実は安倍貞任 黒精好朱袍下付束帯(くろせいごうしゅほうしたつきそくたい)
紫紺固地綾八ツ藤丸紋指貫(しこんかたぢあややつふじまるもんさしぬき)
老女岩手 紫地錦花丸唐草文鉄線入小袿(むらさきぢにしきはなまるからくさもんてっせんいりこうちき)
 
資料提供:国立文楽劇場衣裳部
 
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