金太郎の大ぐも退治
解説
 原曲は源頼光(みなもとのらいこう)の大江山の鬼退治を描く作品群を集めた『大江山酒天童子』の一幕で、昭和62年に復活したものです。
 舞台の荒血(愛発・あらち)山は福井県敦賀市の南に位置します。金太郎は神奈川県と静岡県にまたがる足柄山の山神に仕える山姥の子として育てられ、赤い肌は神霊を、担いだ鉞(まさかり)は雷神を象徴しています。この金太郎は後に頼光の家来となって坂田金時(さかたのきんとき)と名乗り、活躍することになります。
 一方、人に害をなす土蜘蛛(大ぐも)とは、古代に大和政権と対立した先住民族のことで、後に怪奇なイメージと結びつけられ妖怪とされました。頼光の説話では、病中の頼光に山伏の姿で近寄り殺害を図ったものの、剣の力で正体を見破られて退治されます。今回の演目では鬼童丸がその正体となっていますが、鬼童丸は別の説話に登場する神通力を持った盗賊で、牛の皮をかぶって頼光を市原野で待ち伏せしたものの返り討ちにあったことになっています。
 (独立行政法人日本芸術文化振興会発行 第131回=平成25年7・8月文楽公演番付より)
 
赤い陣羽織 
 解説
 ファリャのバレエ音楽でも有名な、スペインの作家アラルコンの喜劇「三角帽子」(1874)を、木下順二が翻案、1947(昭和22)年に発表した作品です。新劇、歌舞伎、映画、オペラなど様々なジャンルで取り上げられ、文楽での初演は1971(昭和46)年、野沢松之輔が作曲しました。
 『瓜子姫とあまんじゃく』同様、口語体浄瑠璃です。
  (日本芸術文化振興会発行 第51回=平成5年8月文楽公演番付より)
 
 源平布引滝
主な登場人物 
 
 解説
 寛延二年(1749)11月に大坂竹本座で初演された全五段の時代物で、並木千柳、三好松洛の合作です。外題の「布引滝」は、初段の、滝壺より平家滅亡のお告げが下される場面に由来しています。この作品は、『平家物語』や『源平盛衰記』等を題材として、源氏の敗退後の平清盛の専横という政治情勢を背景に、密かに平家の横暴に対して立ち上がる源氏方の人々の苦闘と、平家滅亡への先陣として大活躍することとなる木曽義仲の誕生などを描き出しています。
 今回は二段目「義賢館の段」から、三段目「九郎助住家の段」までの上演で、平家打倒の旗印である源氏の白旗が、父・木曽義賢の手から子・義仲の手へと渡る筋をご覧いただきます。
 三段目に登場する斎藤実盛は、『平家物語』(実盛最期)などで、加賀国篠原の合戦に髪を黒く染めて錦の直垂姿で臨み、義仲の家臣・手塚太郎光盛に討ち取られた老将として知られていますが、本作では実盛を颯爽とした黒髪の武者姿で登場させ、約30年後の篠原の合戦で迎えることとなる壮絶な最期の理由を解き明かすという趣向になっています。
 (独立行政法人日本芸術文化振興会発行 第165回=平成20年12月文楽公演〈東京〉番付より) 
 平治の乱(1159)後、源義朝を討った平家方は、義朝の首と源氏の白旗を持参し参内しますが、源氏に心寄せる後白河法皇は義朝の首を手厚く葬るよう勅諚を出し、白旗も義朝の弟の木曽先生義賢(きそのせんじょうよしかた)に与えます。これに激怒した平清盛は法皇を捕らえ鳥羽の離宮へ幽閉してしまいます。(大内の段)
 清盛が見た霊夢を占うため、摂津国の布引滝(現兵庫県神戸市中央区)に清盛の子息、重盛はじめ難波六郎達がやって来ます。六郎は夢のお告げに従って滝壺に入ります。滝壺から出た六郎は、清盛の横暴により天の咎めを受け、平家は滅亡するという竜神のお告げを知らせます。にわかに雷鳴が轟き、一同は急いでこの場を後にするのでした。(布引滝の段)
 (独立行政法人日本芸術文化振興会発行 第165回=平成20年12月文楽公演〈東京〉番付より)
 木曾義仲のこと

お芝居の中の葵御前が産んだ若君は後に木曾(源)義仲になるという設定ですが、史実はどうでしょうか。義仲(久寿元年〈1154〉~寿永三年〈1184〉)は、源義賢の二男として誕生します。義賢は源頼朝の父・義朝の弟であり、義仲は源頼朝の従兄弟に当たります。二歳のとき、父・義賢が甥の源義平に殺され、畠山重能や斎藤実盛の好意により、義仲は信濃の中原兼遠の下で成長します。治承四年(1180)、以仁王の令旨に応じて挙兵し、寿永二年(1183)には倶梨伽羅峠の戦いで平維盛の大軍を破り入京、義仲は左馬頭に任ぜられ「朝日将軍」と称しました。ところが、義仲軍の粗暴な行為や礼儀作法を心得ない義仲に対して都人の心は離れてゆき、寿永三年(1184)に鎌倉の頼朝が差し向けた源範頼、源義経の軍と戦って敗れ、近江国粟津の地で敗死しました。義仲の最期と家臣の末路を描いた浄瑠璃が『ひらかな盛衰記』です。

 (独立行政法人日本芸術文化振興会発行 第133回=平成26年1月文楽公演番付〈作品散歩〉より)
『源平布引滝』ゆかりの地巡りはこちら 
 
 夏祭浪花鑑
主な登場人物 
 
 解説
    「浄瑠璃作品要説」より〔構想・価値〕
 本曲は、世話物九段続きの最初として画期的である。今までの作品と異なり、時代物と対立すべき機運を具体化したものである。大坂は古くから侠客気質の流行地であったから、これをもって世話物を複雑化するのは良策であるが、作者は苦心して玉島家にあらわされる武家社会をうち出している。よって五段目までは、磯之丞を中心とする時代世話物であり、その後が団七による世話物のようだとも考えられる。
 まず団七の伏線としてお梶を登場させ、お梶によって三婦や徳兵衛の姿を見せていく手法は、まったく自然で作者の手腕が十分うかがわれる。角書には三人の侠客の名が並立するのであるが、いずれもその行為において、武士気質に似た侠客気質で貫かれている。それに加え、彼等の女房達もまた女侠客気質で描かれていることから、本曲は完全な侠客狂言といえる。
 女侠客は歌舞伎畑からの移入であるが、色気を含むところに世話物としての重要性を示している。それぞれの脚色の上に特に注目される事は、歌舞伎式手法によって効果をねらった部分にある。まず三段目の住吉では、団七が佐賀右衛門との出会いに、床店ののれん越しに佐賀右衛門の利き腕をつかんで現れる。次に四段目では、清七とお中が、番屋で弥市を倒し、ついで伝八を自害させるなどその著しいものである。ただし、作者がこのような脚色態度をとったのは、当時最も権勢を誇った人形遣い吉田文三郎の案も加わっていたのではないかと想像される。事実、文三郎の演出によって本作の価値が高まったと思われる部分もかなり多い。
 七段目の長町裏では人形にかたびら衣装を着せて遣った事や、義平次殺しに本泥・本水を使った事など言いはやされた。また衣装の模様に目新しさを加えて、団七縞・徳兵衛縞の名を残し、あるいはお辰の風俗を定めたり、人形の首には、和藤内を応用した「団七」を後世に留めたことなどはすべて彼の手腕によるものである。このようにして作者と演出家とのタイアップによって、夏狂言としては、従来見ない内容の充実に成功したのである。
  (昭和63年3月31日 国立劇場発行「浄瑠璃作品要説〈5〉(灰田・吉永氏による)」より抜粋)
 
『源平布引滝』・『夏祭浪花鑑』の合作者「並木宗輔 について」(「浄瑠璃作品要説5」より。吉永孝雄氏)
 宗輔は元禄八年に生れた。生誕地は大坂と言うがはっきり分らない。宗助とも、惣輔とも書いている。別号を千柳と言う。市中庵とも言った。通称松屋宗助、また舎柳とも号したと言うが「伝奇作書拾遺」は否定している。若い頃出家して、備後の三原の臨済宗妙心寺派の雲水であった。当時法名は断継慧水、詩号を断継と言い漢詩集「三原集」に三篇を残している。丗才頃還俗して大坂に住み、西澤一風の慫慂で豊竹座の浄瑠璃作者となり、並木宗助と号した。享保八年七月豊竹座では紀海音が「傾城無間鐘」を最後として筆を断ってから一風は田中千柳と組んで新作を上場したが、悉く興行成績が悪く、観客が次第に遠のいたので、田中千柳は享保十年末には豊竹座の作者を辞退して上京したので、豊竹座は作者難に陥り、その元老格であった一風は海音に似た経験をもつ宗助に目を付け、自分が中心となって想を構え、並木宗助と安田蛙文で作り上げたのが「北條時頼記」である。

  時に宗助32才。享保十一年(1726)4月8日初日で翌年閏正月まで11ヶ月長期興行した大当りで、これで豊竹座の基礎が固まった。これは北條時頼に対する若狭前司泰村、三浦吉村の反逆と、時頼が諸国の情勢を探るため廻国したという伝説に、近松の「最明寺殿百人上臈」の「女鉢の木」の筋や吉崎の「肉付の面」の伝説を借りたもの。反逆人三浦吉村の弟源藤太にそそのかされて、懐胎祈願に来た玉豊姫は時頼の本妻月小夜を呪い殺そうとする。月小夜は毎夜物の怪に襲われて悩む。鬼面をつけた玉豊姫は父二階堂信濃守に捕えられる。鬼面を外そうとしたが肉に深く食い付いて離れない。時頼はこれを見て剃髪し、経文を唱えると鬼の面は離れる。姫は自害しようとするが時頼がとめて尼とし、自分は諸国巡歴の旅に出る筋で、竹本座の「国姓爺合戦」にくらべられる大当りをとり、豊竹座はこれで年来の不況を吹き飛ばして、この利益で蔵を建て北條蔵と呼んだと言われる。自身「今昔操年代記」で次のように書いている。
 
     「人一心に誠あれば天道の恵招かずして来福すといへり。豊竹氏ふけいきなる芝居、何とぞ珍しき物と、作者も相応にかきあつめたるかなそうし北條時頼記といへるおもひ付、二三人よって此外題を興趣に、浄るり五段にくみ立てん。 いづれも知恵を出されと、ざい(采)ふりまはせば、並木宗助、安田蛙文美若なれ共浄るり一段も書きかねぬ器量、西澤の下知に任せ、どうやらかをやら五段をつゞくり、切に最明寺雪の段・太夫本の出かたり厳しく当たり、卯月八日を初日とし、今月今日まで入詰、年越の浄るりとなれり。是太夫本邪なく、真直なる豊竹一芸をくふうし、此上にも語(かたり)様のこんたん有べき物と、寝る間忘れぬ心がけ、殊に身を高ぶらず、我とわが芸みじく成とおもはるるは芸の上手心の名人といふ物也。尤筑後名人なれ共、修業の行年を算へては、豊竹はやき立身、何れも左にあらずや。・・・・」     

 尚、この時の記 念すべき舞台図、(口上が出て豊竹上野少掾(シン)と豊竹和泉太夫(ツレ)に三味線の野沢喜八郎の出語り、近本九八郎が時頼を出遣いしている)がこの本に載せられている。当時の豊竹座の太夫・人形・三味線の舞台姿を見ることの出来る貴重な図である。

  宗輔は寛保二年(1743)、八月豊竹座で上演された「道成寺現在蛇鱗」まで豊竹座のために30篇の浄瑠璃作品を書いている。このうち単独作8篇、合作20篇、添削2篇である。この間寛保元年(1741)冬には豊竹越前少掾の江戸下りに同行し、また寛保2年冬からは頼まれて一時歌舞伎狂言を8篇あまり書いている。
  延享元年(1744)七月竹本座の総帥竹本播磨少掾が死に、文耕堂や元祖出雲も作者欄から姿を消したので竹本座は並木宗輔を迎えて新しくスタートすることになった。宗輔も豊竹座に為永太郎兵衛が加わって書き出し、江戸留守中はすっかり自分の地位を奪ってしまったので、竹本座から招かれると気分一新、千柳と改名して後世に残る力作を11篇元祖や二代出雲、三好松洛と合作している。彼の作者生活について、合作者や所属座などを勘案して園田民雄氏は三期に〈浄瑠璃作者の研究〉角田一郎氏は五期に(演劇百科大事典)内山美樹子氏は六期に(演劇研究)分けておられる。(以下、作品解説等については割愛)
 (昭和63年3月31日 国立劇場発行「浄瑠璃作品要説〈5〉」より)
『夏祭浪花鑑』ゆかりの地巡りはこちら 
 (S.M.)
 
首の名前
 役名 かしら名 
金太郎の大ぐも退治
赤鬼
青鬼
金太郎 鬼若
大ぐも実は鬼童丸 口あき文七
源頼光 祐仙
 
 
おやじ  伴内 
その女房 ねむりの娘
お代官 祐仙
お代官のこぶん 端敵
庄屋さま 与勘平
奥方 老女方
  
 
葵御前 老女方
待宵姫
百姓九郎助 武氏
女房小まん 老女方
倅太郎吉 男子役
折平実は多田蔵人行綱 検非違使
木曽先生義賢 検非違使 
高橋判官長常 陀羅助
長田太郎末宗 与勘平
進野次郎宗政 鬼若
横田兵内 三枚目
軍蔵 端役
塩見忠太 端敵
宗盛公 若男
飛騨左衛門 金時 
斎藤実盛 文七
船頭 男つめ
九郎助女房
矢橋仁惣太 端敵
瀬尾十郎 大舅
庄屋 端役
 
釣船三婦 釣船
倅市松 男子役
団七女房お梶 老女方
こっぱの権 端敵
なまの八 端敵
玉島磯之丞 源太
団七九郎兵衛 文七
役人 検非違使
傾城琴浦
大鳥佐賀右衛門 端敵
一寸徳兵衛 検非違使
三婦女房おつぎ 老女方
徳兵衛女房お辰 老女方
三河矢義平次 虎王
舅のガブ
 








 
衣裳
源平布引滝
木曽先生義賢  義賢館の段  白茶錦蜀江丹前(しらちゃにしきしょっこうたんぜん)
象牙色錦菱紋半腰ぞうげいろにしきひしもんはんごし)
濃納戸繻子大紋こいなんどしゅすだいもん)  
斎藤実盛  竹生島遊覧の段  白地錦華紋大寸半腰しろじにしきかもんだいすんはんごし)
納戸繻子半素襖なんどしゅすはんすおう)  
木九郎助住家の段  白地唐織華紋大寸半腰(しろじからおりかもんだいすんはんごし) 
革色錦亀甲花菱裃(かわいろにしききっこうはなびしかみしも)
夏祭浪花鑑
団七九郎兵衛 住吉鳥居前の段  蝶酢漿草首抜単衣着付(ちょうかたばみくびぬきひとえきつけ)
釣船三婦内の段  茶大弁慶縞浴衣(ちゃおおべんけいじまゆかた) 
長町裏の段  入墨丸胴(いれずみまるどう) 
一寸徳兵衛  釣船三婦内の段  紺大弁慶縞浴衣(こんおおべんけいじまゆかた) 
三河屋義平次  釣船三婦内の段  焦茶麻着付(こげちゃあさきつけ) 
長町裏の段  焦茶麻汚れ着付(こげちゃあさよごれきつけ)
 



資料提供:国立文楽劇場文楽技術室衣裳担当
このホームページは文楽応援団が運営しています。当ホームページの資料、情報の無断転載は禁止です。
当サイトに関するメッセージは、こちらまでご連絡ください。
首の名前
ぷち解説
衣裳
inserted by FC2 system