演目ゆかりのすぽっと    
 『菅原伝授手習鑑』  
 京都編  

 2014年2月13日午前10時、京阪七条駅改札前に9人集合。 天気は薄曇り。風もなく少し冷えているかなという中、七条通りを西へ。河原町通りを渡って右(北)に。渉成園に沿って歩くと文子(あやこ)天満宮への案内表示の看板。それを見て西へ3筋ほど行くと左(北)の方に幟が見えました。七条から10分ほどです。そこで参加者が増え10人。
 文子天満宮は菅原道真を祀っている神社です。道真の乳母である多治比文子(たじひのあやこ)の住まいの跡地に建立された天満宮で日本で最初におまつりをした神社であることから、「天神信仰発祥の神社」と位置づけられ、北野天満宮の前身と言われています(文子天満宮の案内より抜粋)。
 菅原道真公が太宰府へ左遷の途次お立ち寄りの際腰掛けられた腰掛石がありました。

 
 
案内看板
 
 
文子天満宮
 
     
多治比の文子像
 
菅公腰掛石 
 
 
 文子天満宮を出て左(北)へ。五条通りに出るので交差点を左折(西へ)。 烏丸通りを越えて右折、しばらく歩き「烏丸高辻」の交差点を左折します。二筋越えた辺りに菅大臣神社があります。文子天満宮から歩いて約20分ほど。
  菅原道真を祭神とする神社で、道真生誕の地といわれています。菅原道真邸や、菅家廊下といわれた学問所の跡(道真公の書斎があったところ)で、天満宮誕浴の井が保存されています。また「東風吹かばにほひおこせよ梅の花 主なしとて春なわすれそ」と詠まれた飛梅もあります。(菅大臣大社HPより抜粋)
 
 
烏丸高辻交差点
 
菅大臣神社鳥居
 
菅大臣神社
 
菅大臣神社案内板
 
誕浴の井 か?
 菅大臣神社を出て、来た道をそのまま真っ直ぐ(北へ)行くと、右手に「菅家邸跡」の石碑が見えます。 石碑の向こうには北菅大臣神社 が望めます。御祭神は道真公の父、是善(これよし)。 当地は菅原家の邸宅紅梅殿のあったところで、紅梅殿社ともいい、もとは南の菅大臣神社と地続きの同一境内にあったと伝えられています。
 
 
 
菅家邸跡の石碑
 
北菅大臣神社を望む
 
北菅大臣神社
 
 
 北菅大臣神社を背に左(東)へ。新町通を左折し、次の仏光寺通を右折すると烏丸通に。地下鉄烏丸線四条駅から2駅でで丸太町駅へ。 丸太町駅2号出口を背に、烏丸通りを北へ2~3分歩いたところに菅原院天満宮があります。
 菅原家四代に渡る邸宅跡に建てられた神社です。中に井戸があり、菅原道真公が生湯に使われた井戸(天満宮誕浴の井)で、当時(平安時代)のままに残り、枠石は花崗岩で1166年経過しており深さは8㍍~9㍍あります。現在の水は地下25㍍の地点から出ている水でミネラルが豊富に含まれております、という資料を社務所で受け取り、紙コップで飲ませて頂きました。冬なのに、冷たくはなく飲み頃の温度で二杯も頂きました。
 
 
 
菅家邸跡石碑
 
菅原院天満宮
 
天満宮遺愛の灯籠
 
菅公産湯の井戸
 
新しい井戸
 

 菅原院天満宮の門前が京都御苑の下立売御門。ここから入り北に歩き、蛤御門をちょっと見学。戊辰戦争の鉄砲跡を確認しました。そこから建礼門の前に。その奥の清涼殿は見えないけれど雷が落ちたところだなぁと言いつつ北東の石薬師御門に抜けました。 その辺りで12時を過ぎていました。一同歩き続けて草臥れかけていました。 やっと、ランチタイム。10人入れる食事処があるかどうか心配でしたが、あっさり見つかりました。 レストランPASTO。パスタが茹で上がるまでの間ユックリのんびり休憩しました。 14:00出発。お店を出て東へ。 加茂大橋の上から加茂堤を見学。折角ここまで来たのですから、飛び石を飛んで賀茂川と高野川を渡ってきました。

 
蛤御門
 
建礼門
 
出町橋から賀茂川を望む
 
賀茂川・高野川二川合流
   

 出町柳駅前から201系統の市バスに乗り込み2停留所目の「京大正門前」で下車。少し後ろに歩くと「吉田神社」の案内板がありました。その曲がり角には吉田神社参道の石碑が建っています。少し行くと真っ赤な鳥居が見えてきます。
 吉田神社は、平安京の守護神として都の東北「鬼門」に位置する吉田山に創建されました。吉田山は東山三十六峰の一つに数えられ、別名「神楽岡」とも称され神代より神霊の宿る場所として崇められており、その聖地に諸々の災いを除き、幸福を勝ち取る神として御神徳の高い大神をお祀りし、厄除開運、家内安全、方除など人々の篤い信仰を集めています。(吉田神社の案内パンフレットより)
 この吉田神社に藤原時平が参詣する間の出来事が、「車曳の段」かと思いつつお参りしてきました。
 メンバーが「大一番 大吉」のおみくじを引きました。四月公演成功間違いなし。
 
 
 
道路案内板
 
参道の石碑
 
吉田神社鳥居
 
参道
 
本宮
 
大吉おみくじ

 さて、吉田神社を後にして、バスの便のよい百万遍まで10数分歩きました。203系統のバスで北野天満宮へ。15分くらいで到着。 大きな鳥居の前で集合写真。参道をゆっくり進み楼門を潜り、社殿へ。多くの人が参詣されていました。本殿に向かって左手には立派な梅が咲いていました。

 延喜3年(903年)、菅原道真が無実の罪で配流された大宰府で没した後、都では落雷などの災害が相次いだ。これが道真の祟りだとする噂が広まり、御霊信仰と結びついて恐れられた。そこで、没後20年目、朝廷は道真の左遷を撤回して官位を復し、正二位を贈った。天慶5年(942年)、右京七条に住む多治比文子という少女に託宣があり、5年後にも近江国の神官の幼児である太郎丸に同様の託宣があった。それに基づいて天暦元年6月9日(947年)、現在地の北野の地に朝廷によって道真を祀る社殿が造営された。後に藤原師輔(時平の甥であるが、父の忠平が菅原氏と縁戚であったと言われる)が自分の屋敷の建物を寄贈して、壮大な社殿に作り直されたと言う。 永延元年(987年)に初めて勅祭が行われ、一条天皇から「北野天満宮天神」の称が贈られた。正暦4年(993年)には正一位・右大臣・太政大臣が追贈された。以降も朝廷から厚い崇敬を受け、二十二社の一社ともなった。 中世になっても菅原氏・藤原氏のみならず足利将軍家などからも崇敬を受けた。だが、当時北野天満宮を本所としていた麹座の麹製造の独占権を巡るトラブルから文安元年(1444年)に室町幕府軍の攻撃を受けて天満宮が焼け落ちてしまい、一時衰退する(文安の麹騒動)。 天正15年(1587年)10月1日、境内において豊臣秀吉による北野大茶湯が催行された。境内西側に史跡「御土居」がある。 江戸時代の頃には道真の御霊としての性格は薄れ、学問の神として広く信仰されるようになり、寺子屋などで当社の分霊が祀られた。 1871年(明治4年)に官幣中社に列するとともに「北野神社」と改名する。「宮」を名乗るためには祭神が基本的には皇族であり、かつ勅許が必要であったためである。旧称の北野天満宮の呼称が復活したのは、戦後の神道国家管理を脱したあとである。(ウィキペディアより抜粋)

 ここで予定通り終了です。18,000歩ほど歩きました。 最後の、〆は甘い物です。門前の「粟餅所 沢屋」へ。 北野天満宮でもう1人参加者が増え11人で美味しいお茶と粟餅(一人前550円)を頂きました。お店を出て右へ(京阪出町柳へ)6人、左へ(阪急西院へ)5人とバスに乗り分けて解散しました。 出町柳で17:00でした。
 数日後の雨の日の午後、四月公演成功祈願奉納で、菅丞相の人形と共に豊竹咲大夫師と、鶴澤燕三さんと、吉田玉女さん他が訪れました。(AH&SK)
 
 

北野神社鳥居
  楼門  
三光門(中門)

社殿 
 
おいしい粟餅

 道明寺編   
 
 2014年3月9日の日曜日に、7名の仲間とともに菅原伝授手習鑑二段目の舞台、道明寺を訪れました。
近鉄阿部野橋駅に12時集合、準急河内長野行に乗り込み16分で土師ノ里駅に到着。改札を出て左へ道を取ります。地図案内板の後ろの階段を下りてそのまま進み、土師ノ里八幡神社の角を右折し、しばらく歩くと右手に道明寺があります。
 ここに伯母の覚寿が居て、大宰府へ向かう汐待ちの合間に菅丞相が伯母を訪ねてやってきたのでした。訪れた時期は梅が見事に咲いていました。境内には「木げん樹」が植わっており、その実で数珠を作り、念仏百万回を唱えると極楽往生が叶うとか…。

 山門を出て左へ、道一つ隔てて道明寺天満宮があります。

   
 
木げん樹とその実

土師ノ里八幡神社
 
東門?
 
本堂
 
大師堂
 
山門

 
創建当時は、七堂伽藍や五重塔のある大規模なものであったそうで、明治5年(1872年)の神仏分離の際に、道明寺が道明寺天満宮の境内から分離したんだとか…。
 訪れた日は、梅まつりの最中で境内には色んなお店が並び、また、堺市の月洲神社の神楽獅子講の人達による神楽獅子舞が奉納されていました。しっかりと見学した後、本堂へ詣り4月公演の成功をお祈りし、宝物館へ。菅公遺品の国宝の数々を見せて頂き、すぐ隣にある梅園へ。花の見事さにうっとりしたら、次はお抹茶とお菓子で一息入れ、土師社にもお参りして帰途につきました。滞在はおおよそ2時間ほど。ちょっと時間を見つけて訪れられてはいかがでしょうか。(SK)
 
 道明寺天満宮  
山門?
 
奉納獅子舞
 土師社  
梅園

 
佐太村編  

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大宰府編   

 2012年12月22日、博多座公演観劇の合間に、太宰府天満宮を尋ねました。
 新幹線で博多駅に到着後、鹿児島本線に乗り換え二日市駅へ。13分ほどで到着。ここから歩いて10数分ほどで西鉄紫駅へ。一駅先の西鉄二日市駅で太宰府行に乗り換えます。(JR二日市から西鉄二日市まで15分程で歩けるようです。)はでな駅名表示板に迎えられて無事到着。駅を出て右に進むと太宰府天満宮の参道です。

 太宰府天満宮の成り立ちは、
 道真公は、承和12年(845)に京都でお生まれになりました。幼少期より学問の才能を発揮され、努力を重ねられることで、一流の学者・政治家・文人としてご活躍なさいました。 しかし、無実ながら政略により京都から大宰府に流され、延喜3年(903)2月25日、道真公はお住まいであった大宰府政庁の南館(現在の榎社)において、ご生涯を終えられました。門弟であった味酒安行(うまさけ やすゆき)が御亡骸を牛車に乗せて進んだところ、牛が伏して動かなくなり、これは道真公の御心によるものであろうと、その地に埋葬されることとなりました。延喜5年(905)、御墓所の上に祀廟(しびょう)が創建され、延喜19年(919)には勅命により立派なご社殿が建立されました。 その後、道真公の無実が証明され、「天満大自在天神(てんまだいじざいてんじん)」という神様の御位を贈られ、「天神さま」と崇められるようになりました。 長い年月、道真公へのご崇敬は絶え間なく続き、御墓所でもある太宰府天満宮は全国約12,000社ある天神さまをお祀りする神社の総本宮と称えられ、今日でも多くの参拝者が訪れています。 (太宰府天満宮ホームページより転載)
 

 「菅原伝授手習鑑」四段目の天拝山の段の舞台である天拝山は標高258mのお山で、途中で下車したJR二日市駅から南西方向、10~15分ほどで行けるそうです。登山道入り口には「御自作天満宮」が、中腹には「荒穂神社」、山頂には「天拝神社」があります。8合目あたりまでは比較的簡単に登れるそうですが、そこから急激に斜度が増し、登るのにきついという事です。でも文楽演目の舞台ですし、次の機会には挑戦してみたいものです。
 
 
 
大宰府駅
 
鳥居
 
太宰府天満宮
飛梅  橘

 翌日、11時からの公演前に、博多山笠で有名な櫛田神社にお詣りしました。博多座にもほど近いです。地下鉄の最寄駅は「祇園」駅。3番出口を出て真っ直ぐ、2筋行った右手にあります。 

 博多総鎮守の立派な神社です。楼門の天井には色鮮やかな「えと恵方盤」が見られます。また、拝殿の破風には風神・雷神のお姿が…。開演時間を気にしながら櫛田神社を後にし、博多座に向かいますと、対面の川端通り商店街入り口明治通り側に、博多座を見守っているかのように対面している川上音二郎の銅像が建っています。(SK)
 
 
櫛田神社鳥居
 
山笠

えと恵方盤 
 
風神
 
川上音二郎の銅像
 
   

 
番外編   
  生身天満宮(いきみてんまんぐう)
 
  「菅原伝授手習鑑」『寺子屋の段』上演にあわせ、NPO法人人形浄瑠璃文楽座主催のバスツアーに参加しました。(2017年3月5日)
 車で行くのが便利かと思いますが、鉄道の場合はJR山陰本線園部駅が最寄り駅です。
 
 生身天満宮が鎮座する園部の地は代々菅原氏の荘園で、邸宅があったため菅原道真公(以後、菅丞相)は度々この地を訪れていました。後に生身天満宮の始祖となる武部源蔵(実名は「武部左衛門治定」と伝わる)は、当時園部の代官で、菅丞相をお迎えする立場として交流がありました。
 延喜元年(901年)2月、菅丞相は藤原時平らの策略により、太宰権師として大宰府に左遷させられます。別れの時、菅丞相から八男慶能君養育の命を受けた源蔵は若君を園部へ連れ帰り、菅丞相の無事の帰洛を待ち侘びることとなります。
 日夜菅丞相への敬慕の情が切なる余り、また若君を慰めるため、源蔵は菅丞相の姿を木造に刻み密かに生祠を建て礼拝していました。
 源蔵の願いも空しく、延喜3年(903年)2月25日菅丞相は大宰府で薨じられ、源蔵はその生祠を霊廟と改め祀っていました。その後天暦9年(956年)霊廟を神社へと改め、現在に至っています。
 全国にある天満宮の中で唯一、菅丞相が生きておられる時から祭祀していたことから、生身天満宮と称し、日本最古の天満宮と言われています。

 生身天満宮は武部源蔵を始祖とし、現在まで代々武部家が宮司を務められています。

 本堂奥の参道坂道を降りていくと、武部源蔵のお墓があり、その斜め奥には武部源蔵社が建っています。
 
   
 
生身天満宮鳥居
 
参道

本殿 
 
武部源蔵社
  
武部源蔵墓
 
御朱印
   
   
 喜光寺(菅原寺)・菅原天満宮  
   
 菅原道真公生誕地と伝わる菅原の里にある菅原天満宮と菅原寺とかつては呼ばれたいた喜光寺を訪ねてみました。所在地も奈良市菅原町です。
 近鉄難波駅を出発し大和西大寺駅で橿原神宮方面行に乗り換え、一つ目の尼ヶ辻駅で下車、西側の改札口へ出ます。前の道路を左へ少し歩くと「きなこだんご たまうさぎ」の本店があります。是非立ち寄ってご賞味ください。とっても美味しかったです。もう少し進んで左手にとると「垂仁天皇陵」があります。巨大な前方後円墳で、これからのスポット巡りの前にしばしの憩いを楽しみました。
 さて、元の道に戻り、信号を右折します。少し歩くと阪奈道路にぶつかりますが、潜り抜けると目の前に喜光寺の南大門が聳えています。阿弥陀如来像(重文)が本尊として祀られています。木彫り寄せ木作りの仏像ですが、お顔はとても静かで穏やかな表情をされています。 両脇には観自在菩薩と勢至菩薩を従えておられます。写真をおとりになってもいいですよ、とのことでバッチリ撮らせていただきましたが、ここには割愛させていただきます。

 喜光寺を出て左手の道を左にとり少し進むと、右手に菅原天満宮が鎮座されています。
 御祭神は「天穂日命(あめのほひのみこと)」「野見宿祢命(のみのすくねのみこと)」「菅原道真公」の三神で、延喜式内社の日本最古の天満宮とされています。
  天穂日命は菅家の始祖とされ、その子孫で中興の祖である野見宿祢は菅原の地を本官とし埴輪の制作に従事していたが、垂仁天皇の皇后が崩御された時に、当時の習慣であった殉死を取り止め、替わりに埴輪を埋めることとした功績により土師臣の姓を賜り、土師氏はここを本拠地として各地に勢力を伸ばしていきます。その後土師氏は「菅原」と姓を改め、三代後に菅原道真公が誕生されます。天満宮の鳥居を抜けて左へ道をとり、突き当りをまた左へ進むと、菅原道真公の産湯池と伝えられる遺跡があります。
 そのまま大和西大寺駅まで歩き、西大寺にお詣りして帰路につきました。
 
   
 
近鉄尼ヶ辻駅
 


        たまうさぎ
 



垂仁天皇陵 
 
喜光寺南大門
  喜光寺本堂  
 
菅原天満宮鳥居
 
菅原天満宮本殿

お使いの牛
 
官公産湯の池
  

菅原天満宮御朱印
 
   
   
   
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